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第三十二話 『百人のわからずや・前編』 11. 板ばさみ

 


 司令室特設スペースには不穏な空気が立ち込めていた。

 意外な人物の主張によってそれがさらに濃度を増すことになる。

「乗客を見殺しにする気ですか」

 いつになく目が据わり揺るぎのない忍のまなざしを、桔平が微動だにせず受け止める。

 腕組みをしながらことの成り行きを見守るあさみとは対照的に、ショーンは大柄な身体を卑屈に縮め、おろおろとうろたえるばかりだった。

「古閑君……」

「見殺しじゃない。できるかどうかもわからないのに闇雲に走り回るのは意味がないと言っているんだ」

 ショーンの声をかき消して、忍の主張をはね返す桔平。

 しかし、対する忍も一歩も譲る様子を見せなかった。

「やってみなければわからないと思います。それに、可能性があるのなら最後までベストをつくすべきです」

「わからないのか。今ここで奴らを動かしたら、プログラムによる被害が増大する。どっちも重要なのは重々承知だ。その上で俺達は、自分の感情に逆らってでも、もっとも的確な判断を下さなければならない。たとえ犠牲者達に恨まれようとな。それが俺達に課せられた責任であり、覚悟なんだ。数百名の乗客を助けるために、この先何万、いやその何十倍、何百倍もの被害者を出す可能性を容認するのは間違っている」

「……。僕もそう思う……」

「本気でそんなこと言ってませんよね!」

 ショーンの小声を吹き飛ばし、忍がこれまで見せたことのないほどの剣幕で押し返す。

「あの便にはあなたのご家族が乗っているんですよ! かけがえのない身内の方が」

 墜落の危機にある渦中の二百六便には詠江の搭乗記録があった。

 緊急時におけるすべての情報は司令官の権限によって許可なく持ち出すことを禁じられており、木場へ持ちかけた時点ですでに忍は機密違反を犯したことになる。

 木場達には詠江のことまではまだ伝わってはいなかったものの、それに対する桔平の対応はあくまでも公正なままだった。

「だったらなおさらだ。この世界には、どれだけ苦しくても何もできずに運命に身を委ねることしかできない人間の方が多いはずだ。彼らは大切な人間が死んでいくのを、ただ見守ることしかできない。それを、ただそうすることができるという理由だけで、個人的な理由だけで、……わがままを通すわけにはいかない。副司令としてそこに干渉可能な立場であるなら、なおさら俺はこの選択を変えるつもりはない。俺達は特別ではあっても、特例であってはならないんだ」

 苦しそうにそう告げる桔平の心の内には、同じように身内を失った木場に対する気遣いも少なからずあった。

「桔平さんらしくない物言いですね」

 らしくない物言いを発した忍に、押さえていた桔平の感情が露出し始める。

「てめえに何がわかる」

「私達が知っているあなたは周囲のすべてに気を配りながら、いつだって自分のわがままを通してきたはずです。実際それで多くの人達を助けてきたんじゃないんですか? もしそれができないのなら、今のあなたは私達が知っている桔平さんじゃありません。体裁や建前に縛られて動けないような人間ならば、あの子達は二度とあなたの言葉に耳を傾けない。私もそうです」

「……」

「時間のロスです。一秒遅れるだけで生存確率は倍がけで下がっていく。可能性を維持するためにも、今すぐに行動すべきです」

 再び連絡回線を開こうとする忍に、桔平の手が待ったをかける。

「おい、勘違いするなよ。俺達の使命は人命救助じゃない。億の命を生かすために、百万を見殺しにする処刑ボタンを押し付けられただけだ。綺麗ごとを言うような奴は、ここには誰もいやしない。正義の味方になりたいのなら他の方法を見つけろ」

「だから桔平さんは、ここに残り続けているんじゃないんですか」

 カッと見開かれる桔平の目。

 それは忍に対する嫌悪と憎悪、そして畏怖と迷いを混在させたものだった。

「大勢の人間を救うために一人の命を犠牲にするのは正しいことなのかもしれない。でも一人の命をおろそかにしてしまったら、もっと多くの人の心が離れていってしまうのではないでしょうか。それをしないために、あなたはここにいるはずですよね。違いますか」

「古閑く~ん……」

 一触即発の状況にショーンはただおろおろとうろたえるばかりだった。

「調子にのるな」

 睨み合いの最中、一拍置いて桔平が静かに忍に告げる。

「おまえのような人間はここには不要だ。俺の補助から解任する。今すぐここから出ていけ」

 忍は目を見開いて一瞬だけフリーズした後、落胆の色を隠すことなく桔平に憤りを返した。

「……。わかりました。でも私はまだメガルの人間です……」

「クビだ」

「!」

「たった今、おまえを解雇する。すぐにここから出て行け。今後、二度とメガルに近づくな」

 さらに見開かれる忍の目。

 突然の死刑宣告に忍はなす術がなかった。

「わかりました」

 舌を噛み切るほどの想いを押し込め、怒りに打ち震えながら立ち上がる忍。

 が、退出しようとする忍を、それまで静観していたあさみが引き止めた。

「待ちなさい。今はコード・レッドの非常時です。勝手にこの部屋から出ることは許しません」

「何だと!」

 桔平を無視してあさみが続ける。

 その表情はあくまでも厳しく、そして冷淡なものだった。

「座りなさい。あなたの解雇はこのコードが解除されるまで凍結します。当然のことですが、この凍結を解くまでは、メガルの職員として全力で任務を遂行しなさい」

「……はい」

 無表情のまま忍が自分の席に戻る。

 不快さを前面に押し出して桔平があさみに食いついた。

「てめえ……」

 そこで何かに気がつき、桔平の声が途切れる。

 席を立ち不機嫌そうに部屋から出ようとする桔平を、あさみが引き止めた。

「副司令。どこへ行く気」

「タバコだよ」

「さっきも言ったはずよ。緊急時の勝手な途中退席は重罰に値するわ」

「クソくらえだ。撃ちたきゃ撃て」

 そう吐き捨て部屋を出て行く桔平の背中を、あさみ達は複雑そうに見守るだけだった。


 特設スペースを出るや、桔平がせわしげに胸ポケットをまさぐる。

 取り出した携帯電話には着信を示すランプが点滅していた。

 朴からのメッセージには、依頼しておいたVトール機の準備が完了したことが記してあった。

 今から自分が向かっても二百六便を救えないだろうことは理解していた。それを承知で極秘裏に朴に手配を頼んだのである。

 ガーディアンさえ仕向けられれば、救助の可能性は高いものとなる。だが現時点において作戦を中断し、それを選択することは不可能だった。

 仮に一人だけ差し向けられたとしても、唯一救助の可能性を持つのは空竜王を駆る夕季しかおらず、しかしながら夕季こそが今回の作戦の要である以上、はずすことは許されなかった。

 そこで選択肢が途切れる。

 残された手段は無理を承知で自分自身が向かうことだけだった。

 木場に問われるまでもなく、責任を放棄することの重大さを理解した上で、桔平は最初からどんな重罰をも覚悟していた。

 それでも自ら向かわざるをえなかった。

 たとえそれがほぼ絶望的な状況だったとしても。

 気持ちを切りかえつつ朴に返事をしようとし、ふいにその手を止める桔平。もう一件、着信があったことに気がついたからである。

 それが詠江からのメッセージであることを確認し、録音再生のボタンを押す。

 流れてきたのは、騒然とした機内から聞こえてくる、穏やかな詠江の声だった。

『忙しいとこごめんね。言い忘れたことがあるから言っておくよ』

「お袋……」

 眉を寄せ、つらそうな表情になる桔平。

 まるでそれが見えているかのように、詠江は桔平に向けて優しげな声でメッセージを連ねていった。

『おまえは自分がしなくちゃいけないことを精一杯やればいいからね。他のことは何も気にしなくてもいいから』

「……」

『みんながおまえのことを頼りにしているんだからね。みなさんのためにも、今一番必要なことをしな。いいね、桔平』

「……ああ、わかってる、んなこたあ」

 目を細め、伝わらない相づちを桔平が返す。

『それだけだよ。他には何も言うことはない』

「……。お袋、あのな……」

『桔平、立派になったね』

「!」

 カッと目を見開き、桔平が奥歯を噛みしめる。

 本人に対して詠江が桔平を褒めたのは、これが初めてだった。

『まわりの人達を見れば、その人がどういう人間なのかすぐわかる。どれだけ努力したのか、どれだけ苦労したのかもね。もう何も心配いらないね。お父さんにもそう報告しておくからね。お兄ちゃん達にも伝えておくよ。あんた、いい人達にめぐり会えたね。大切にしなよ』

「……」

『お兄ちゃん達にも電話したいから、かけ直さなくてもいいよ。桔平、ありがとね』

「……」

『しっかりやりな。元気でね』

「……あのな、お袋……」

 再生が終わってからも、桔平はそこに詠江がいるかのごとくしゃべり続けた。

 伝えられない想いの数々を、悔い改めるように。

「バカ言うんじゃねえよ。俺なんか何もできねえ半端モンだ。何の力もねえ。わかってんだろうが……」

 桔平は、昔から母詠江が人知れず泣いていたことを知っていた。

 普段はどんなことにも愚痴一つ言わず、苦労や困難も持ち前の負けん気と笑顔で乗り越えてきた詠江だったが、桔平がよそで喧嘩をし他人を傷つけた時には悲しみを堪えることができなかった。

 父親の遺影の前ですすり泣く母親の姿を目の当たりにし、どうしようもなく心が痛んだ。

 父の写真に詠江が謝り続ける。

 自分のせいで桔平があんなふうになってしまったことを、心から謝罪するように。

 桔平は口を真一文字に結び、まばたきすらせずにその光景をずっと見続けていた。

 睨みつけるように、いつまでも。

 だがどうすればいいのかもわからず、桔平は複雑そうな表情でそれを眺めることしかできなかった。

 過去の愚かな自分を思い返し、やり切れない気持ちを冷たい壁に叩きつける桔平。

 メガルのバッジを引きちぎろうとし、眉間を押さえ、く、とうめいて思いとどまる。

 声にならない桔平の絶叫だった。






                                     続く

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