第二十九話 『いびつな器』 3. クラス対抗混合リレー
クラス対抗混合リレーの幕は開き、一年生の予選の後、光輔や夕季ら二年生の登場となった。
各クラス合計六人の選手達がコースにスタンバイする段になり、華やかな応援合戦が激戦に彩りを添える。
走者の順番に取り決めはなく、第一走者は体育クラスと夕季達C組の女子以外は男子生徒だった。
次の第二走者は光輔ら男子クラスの他はすべてが女子であり、その中に夕季も混在していた。なるべく目立ちたくないという、夕季のたっての希望で。
勝敗に関与する終盤でなく、あまり印象に残らない第二走者を選択したのも、いかにも夕季らしいと言えた。
当然と言おうか、第三走者は茂樹だったのだが。
男子の中に二人だけまざった女子が注目されるのを遠目で見ながら、肩の下まである後ろ髪を簡単に縛った夕季がほっと胸を撫で下ろす。
あんなところにいたら、後から光輔や礼也に何を言われるかわかったものではないからだ。
スターターピストルの発火音がトラック中に鳴り響く。
第一走者の女子達は善戦したが、男子との自力の差はいかんともしがたく、体育コースの女子が六位、夕季達のクラスは七位で、二番手へとバトンタッチされることとなった。
先行する体育コースの女子選手は陸上部の短距離走のホープで、全校女子生徒中でも本命中の本命とされていた。事実、六位でスタート後、あっという間に上位の輩をゴボウ抜きしていった。
七十メートル付近で、首位の女子選手を肩を並べる間もなくパスしていく。そのまま大勢の声援に後押しされながら、彼女は独走状態に突入した。
八十メートル付近で、応援団がさらに大きく沸き出す。
もはや、このままトップで第三走者へバトンを手渡すことしか、彼女の眼中にはなかった。
一際大きなギャラリーの声援も、焦ったような表情で彼女にバトントスを求める第三走者の顔すらも不思議と思わず、その直後、並ぶ間もなく後方からパスしていった背中でさえ。
「!」
「いけ~! ゆうちゃ~んっ!」
みずきの声援を通り越し、夕季が独走態勢に入る。
つい先まで首位を走っていた選手との差は、もはや開く一方だった。
「古閑さ~ん! こっち! こっち!」
オーバーアクションと大声で大騒ぎしながらギャラリー達を更に引きつける茂樹に、夕季がやや不機嫌そうに顎を引いた表情でバトンを突き出す。
バトントスで少々もたついた後、大喝采を浴びせるギャラリー達を睨みつけオーラで蹴散らし、夕季は一直線に応援席へと向かった。
こそこそと隠れるようにみずきのもとへと合流した途端に、ぱあ~、と顔を赤らめる。
「恥ずかしか……」
「ゆうちゃん、すごい! ぶっちぎりだよ!」
「……」
夕季の心情などまるで知らぬがごとく、ぴょんぴょんと飛び跳ね大騒ぎするみずきが、失いかけたギャラリー達の注目を再び引き戻すこととなった。
「速い! 速い! 速い! 速い!」
「やめて、みずき……」
「速い! 速い! 速い! 速い!」
「許して……」
「速い! 速い! ややい! ややい! あ、噛んだ!」
「……」
トラックと二分されたギャラリー達の興味が、競技終了とみずきのプロデュースによって、夕季一人に集まりつつあった。
「誰?」
「ゆうちゃんだって」
「ゆうちゃん?」
「C組の子? いたっけ?」
「幅跳びで優勝した子じゃねえ?」
「誰?」
「ああ、古閑って子か」
「あんな顔だったか?」
「髪型が違うだけじゃね」
「ややいってなんだ?」
衆人環視に晒され、夕季が恥ずかしそうに顔を伏せる。
鼻息を荒げ興奮し続けるみずきの賞賛も、自分達のクラスが二位に入賞したことも、もはや夕季にはどうでもいいことだった。
にこにこと笑い合うクラスメート達の中、一人浮かない顔の夕季の姿があった。
「速かったなあ~、古閑さん」
手放しで褒めまくる茂樹に、夕季が恨めしそうな顔を向ける。
「ほんとだよ、ゆうちゃん」みずきも乗っかる。「ゆうちゃんが抜いた人、たぶん、女子で一番速いって言われてた人だよ」
「ぶっちぎりだもんな」
「ぶっちぎりだったよ。六人、あっという間に抜いてったし」
「俺がバトン落とさなかったら、俺達一位だったんじゃないのか」
「そうだよ、曽我君のせいだよ」
「あ、やっぱり?」
「そうだよ。どうせどさくさにまぎれて、ゆうちゃんの手でも握ろうとしてたんだろうってみんな噂してたけど」
「しまった、その手があったか! よし、次こそは!」
「本当にやったらクラスから破門だってことに決まったよ」
「なんすか、それ……」
最終的に二位ではあったものの、ゴール寸前まで首位をキープしていた夕季達のクラスは優勝まであと一歩というところまで迫っていた。
ゴール寸前で、猛スピードで首位をかっさらっていった光輔の存在さえなければ。
もう一つの体育クラスが調子を崩したのもあったが、ほぼ男子のトップレベルとも言える夕季が女子枠に入ったことで、二年C組はかなりのアドバンテージを得ていたのも事実だった。
隣に座る光輔がおもしろそうに笑いかける。
「小野さん、ガックリしてたぞ」
「……小野さん?」
「おまえが抜いた陸上部の子。焦ってバトンパスの時に転んじゃったから、隣のクラス、結局決勝残れなかったんだよな。おまえのせいで」
「あたしのせいで」
「うん、おまえのせいで。ちょっと目うるうるっぽかった」
「……」
無言で光輔の耳をツネリ上げる夕季。
「あだだだだ!」
「変なこと言ったから、もう出ない」口をへの字に曲げる。「光輔のせいで」
「俺のせい、で?」
「光輔のせいで」
「なんで……、あだだだっ! おかしいっ! あ~っ!」
「古閑さん」
茂樹に声をかけられ、咄嗟に夕季が両手を後ろに隠す。
光輔の涙目に気づく者はいなかった。
「決勝も頼むよ」
「……。うん」
みずきら、他のクラスメート達も、わいわいと集まってくる。
「ゆうちゃん、頑張ってね。期待してるから」
「……うん」
「古閑さん、頑張って」
「応援してるから」
「古閑さんがいたら優勝できるよ、きっと」
「応援するから」
「……。……うん」
「ごめんね、嫌なのに無理やりかわってもらっちゃって」
夕季が申し訳なさそうに顔を向ける。
すると捻挫をして欠場することとなった当人の女子生徒が、非情に申し訳なさそうな顔で夕季を見つめていた。
「でも、結果的に古閑さんが出た方がよかったみたいだよね。あんなににゃやいんだもの。あ、噛んだ」
「……そんなことないけど」
「私の百メートル走も古閑さんが出てくれてたらよかったのにな。あ、団が違うか」
「……」
「とにかく頑張ってね。応援してるから」
夕季の手をぎゅっと握り、足を引きずりながら去って行く。
その淋しそうな背中を、夕季と光輔は見守り続けた。
「……頑張ってね、だって」
「……うん」
「でも、もう出ないんだよね」
「……。そういうわけにはいかないじゃない」
二人が困った顔を見合わせる。
「……そう」
「……。うん」
「……。あだだだ! なんでまた引っ張るの! やつあたりだろ」
「だって」
「あだだだっ! おかしいっ! も~っ!」
すべての競技が終了し、最終種目のクラス対抗混合リレー決勝が始まろうとしていた。
話題の人物の姿を探し、ギャラリー達が辺りをキョロキョロと見回す。
多くの控え選手達にまぎれ込んだその影を見つけるのは、しごく困難だった。
ドヤ顔の光輔の隣で夕季が困ったようにうつむくと、ふいにギャラリー達の間にどよめきが起こる。
ある人物がのしのしと姿を現したためだった。
先の予選で圧倒的な走りを見せた、一年生の韋駄天ランナーである。
陸上部期待の星で、光輔のライバルと呼ばれるほどの逸材だった。専門が中距離なため今大会での光輔とのバッティングはなかったが、その脚力はすでに陸上部随一で、短距離でも光輔より上かもしれないと噂されていた。
この決勝のクライマックスは、光輔と彼との一騎打ちだと、校内メディアは早くも見出しを特定するほどだった。
不敵な表情で長身の韋駄天ランナーが光輔の前に立つ。
ギロリと睨めつけるイカツい馬面と、それを真正面から受け止める光輔との間に、ピリピリと緊張が伝わるのを夕季はすぐそばで感じていた。
突然顔面崩壊を起こし、韋駄天田村が腰を直角にまで折り曲げる。
「あ、穂村先輩! ちわっス! 自分、田村って言います!」
それから、違う意味で度肝を抜かれた光輔の前で、礼儀正しい下級生が上気した顔でぐいぐいと迫ってきた。
「先輩、すごいっスよねえ! うちの部の先輩達も誰もかなわないって言ってたっス! 尊敬してますよ、もう。俺、先輩に勝つのが目標っス!」
「うん、いや、まあ……」
「部活対抗、先輩と一緒に走りたかったっスよ、マジで」
「あ。……そういやなんで出てなかったんだ?」
田村は部活動対抗リレーには出場していなかった。
光輔に問われ、いや~、と後ろ頭をかきかきする。
「直前に四百メートルと持久走に連ちゃんで出たら気持ち悪くなっちゃって。何やっちゃってんスかね、俺。過密日程の高校野球じゃあるまいし。あ、今うまいこと言いましたね」
「いや、それほどでも……」
「そんなことないスよ。もうへろへろだったスよ」
「……。結局、陸上部には勝てなかったから、勝負にならなかったかもしれないけどさ」
「いや、そんなことないっスよ。ぶっちぎりっスから!」
「……へ?」
「いやあ、俺、マジてかてかわくわくっス! とりあえず今日は先輩を木っ端微塵に叩きのめしますよ。それこそ小麦粉くらい細かく粉砕して、それをくしゃみ一発で吹き飛ばして、ひゃ~って、おろおろする先輩の半べそ姿が見てみたいっス」
「ちっとも俺のこと尊敬してないだろ……」
光輔がかつてサッカー部の後輩に聞いた田村のことを思い出した。
あいつは基本いい奴だけど時々かなりウザいです、と。
大声でどうでもいいことを喚き続ける田村に、周囲の注目が集まり始めていた。
迷惑そうな顔で苦笑いをするしかない光輔を、夕季は気の毒そうに眺めていた。
「俺、先輩にお願いがあるんスけど」
「何?」
「もし俺が勝ったら、先輩、陸上部に入ってもらえません?」
その一言に光輔の顔つきが変わる。
「じゃあ、俺が勝ったらおまえはどうする」
「たい焼きおごります」
「いや、サッカー部入れよ……」
「サッカー部、弱いスからねえ」
「おまえ、言ってはならんことを……」
「聞きましたよ。先輩が走ると他のサッカー部の連中、ごっそり置き去りにしちゃうらしいスね」
「ん、まあ……」
「ついでにボールも置き去りにしてっちゃうって話スけどね」
「ドリブル下手で悪かったな!」
「そのかわりフリーキックはうまいって話スけど」
「……まあ」
「でも完全に止まったボールしか蹴れないって言うから、足速いの関係ないスね」
「うるさいよ! 下手だけどサッカー好きなんだよ! ほっといてくれよ! だいたい誰に聞いたんだ、そんな話!」
「川地っス」
「あ! ……よく見てやがる。さすがマネージャーだな……」
「先輩の優しくてカッコイイところが好きだって言ってました」
「……いや、まあ、そんな……」
「お菓子くれたり、当たった時にジュースおごってくれたり」
「だと思ったけどな……」
「サッカーをしている時の感想は特にないそうスけど」
「どうせプレーでは印象に残らねえよ!」
「なんで体育コースある学校なのに、野球とサッカーはメンバー揃わないんスかね。他はうちをはじめ、バレーとかバスケとかちょいちょい全国とか行ってるのに。あと将棋部とか。あ、合同練習とかしたらどうスか? 参考になるかもしれないスよ」
「陸上部と合同練習してどうすんだよ。あ、緩急とかストライドの練習にはなるか」
「いや、将棋部と合同ですよ」
「おまえ、何言ってんの! マジで!」
「隣のクラスの将棋部のえっちゃん、かわいいスよ。あれで空手二段なんスから、わかんないスよねえ」
「俺はおまえがよくわからない……」
「将棋ははじめたばかりなんで、二歩のえっちゃんって呼ばれてるらしいスよ。得意技は女必殺拳っていう話ス」
「……おまえと俺達の世界観が明らかにズレまくってる気がするんだけど」
「何言ってんスか。世界は一つ、人類はみな異母兄弟スよ」
「オヤジは一人しかいないんだな……」
「そんなことより、ブロンソンのたい焼き、マジでほっぺがちぎれ落ちますよ。こぶとりじいさんもいちころス。帰りによく行くんスけど、たまに先生に見つかって怒られるんスよ。生活指導の長渕先生にはてへへのぺろりんは通用しないスからね、覚悟しておいてください」
「知らんがな……」
火花飛び散る二人の男の前哨戦を、夕季はたいしてはらはらもせずに眺め続けていた。
新聞部が自分達に近づいて来たのも確認してから、やにわに、はあ~あ、とわざとらしくため息をつき、光輔がちらちらと夕季に目配せし始める。
「あ~あ、勘弁してほしいよな、こんなところで、もう。注目浴びまくりじゃんか。新聞部まで来ちゃってさ。目立っちゃって困るなあ~、ほんと」
嬉しそうに大きな独り言を吐き散らす光輔に、夕季は完全無視を決め込んでいた。
と、その時。
「あ、あれってさ!」
ギャラリーの一人が声を張り上げ、水を差された光輔と田村が振り返る。
が、その視線は追従してきた他の何人かも含め、二人を素通りしていったのである。
「さっきのゆうちゃんて子だろ」
「ほんとだ、ゆうちゃんて子だ」
「ゴボウ抜きのゆうちゃんだ」
「あんな顔だったか?」
「髪型が違ってね?」
「俺、写メ撮っとこ」
光輔と田村を一瞬でスルーしていった新聞部も含め。
「新聞部の見出し決定だな」
「おい、放送部も来たぞ」
「放送部もマークしてやがるのか」
「男二人のアンカー対決じゃ地味だもんな」
「正直どうでもいいな」
「邪魔だな、そこの二人」
「なんだよ、もう……」
プライドがしおれていく光輔の姿を、それどころではなくなった夕季が助けを求めるように眺めていた。
「あの、たい焼き二個じゃ駄目っスか。ぶっちゃけ、うち、部活のかけもち禁止なんスよ……」