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第三十二話 『百人のわからずや・前編』 6. 一抹の不安

 


 翌日、詠江のたっての希望から、メガルの見学をすることとなった。

 差し障りのない部所の見学を兼ね、忍の案内によって、桔平にゆかりのある人物達への表敬訪問をすることがその主たる目的であった。

 メック・トルーパーでは忍とともに早朝から仕込んでおいた大量の差し入れを振る舞い、隊員達と談笑する。母親の前で手も足も出ないのをいいことに、駒田や鳳が桔平を好き放題こき下ろし、その苦々しい顔を見ながら忍や木場もここぞとばかりに爆笑するのだった。

 昼近くになると、非番なのにたまたま訪れていた南沢夫妻の先導によって、一行はリーズナブルでおいしいビュッフェ・ランチへと出向くこととなった。

「じゃあさ、霧崎君達、こっちの車に乗りなよ」

 幸子により南沢のミニバンに礼也と光輔が招かれる。

 幸子が後部座席のチャイルドシートを準備し始めると、忍とともに恵をあやしていた夕季が顔を向けた。

「夕季ちゃんもこっち乗る?」

「あたしはこっちで……」

 まるまると見開かれた幸子の両眼に直視され、夕季が一歩引く。

 すると恵が何ごとかを一生懸命に夕季に訴え始めた。

 目をいっぱいに開いて身振り手振りをまじえ、だあだあだあだあと途切れることなく語り続ける恵に、夕季はただうんうんと頷くだけだった。

「気に入られちゃったね」げらげらと豪快に幸子が笑う。「やっぱわかるんだあ、誰が頼りになるのかってさ。あっははは!」

 幸子とシンクロするように恵も豪快に笑い出す。

 どうしたらいいのかわからない夕季を無表情に眺め、助手席に乗り込もうとした光輔がぼそりと言った。

「だんだん似てきたっすね……」

 運転席から南沢が恨めしそうな顔を向ける。

「言うな、光輔……。わかってるから」

「ええ……」

「サッティそっくりだって!」

 無神経に言い放つ礼也に幸子が嬉しそうな笑顔を向けた。

「でしょ?」

「だって!」

「恵ちゃん、いつの間にか歩けるようになってたんですね。そりゃそうか」

「あ、うん」忍の問いかけに幸子が振り返る。「結構遅かったけどね。言葉はまだよくわかんないんだけど、しゃべるしゃべる。目を離すとすぐどこかへ行っちゃうしね。誰に似たのかな」

「はは……」

「ずばり母親だって!」

「あ、やっぱり?」

「一択だって!」

「あはははは!」

 忍の車に乗ろうと夕季が恵から離れようとすると、急に恵がぐずり始めた。

 手を広げ、何かを訴えるような表情を向ける恵に、どうすればいいのかわからず夕季がうろたえる。

 それを見て、詠江が柔らかい笑顔を向けながらひょいと抱き上げた。

「眠たいのかねえ」

 みるみるうちに恵が寝息を立て始める。

 詠江に揺られながら、心地よさそうに恵は夢の世界へと誘われていった。

 その優しげな横顔をまじまじと眺める夕季。

 気づいた詠江が不思議そうに夕季を見つめ返した。

「すごい……」

 夕季の呟きに嬉しそうに詠江が笑う。

「そりゃそうだろ」

 礼也の声に二人が振り向く。

 礼也はしたり顔で二人に向けて言い放った。

「なんせ、あのヤン坊の桔平君を寝かしつけたおっかさんだからな」

 妙に納得してしまう面々。

「そりゃそうだね」

 恵を受け取りにきた幸子も、感心したように礼也を眺めた。

「だろ?」

「なんでドヤ顔なの?」

「いや、そのよ……」

「あっははは!」

「おまたへ!」

 そこへ雅がやってきた。恵を見つけ、大騒ぎし始める。

「あ~! 恵ちゃんだあ! かわいい!」

 ぱちりと目を開け、二秒後には泣き始める恵。

「あ~、おまえはよ! やっと寝たってのに!」

「え~! あたしのせい!」

「いや、どう考えてもそうだろ!」

「不服!」

「なんでだって!」

「あっはははは!」

 恵をあやしながら幸子が爆笑する。

 辟易する夫や光輔をよそに、詠江がまた嬉しそうに笑った。

「お孫さん、いらっしゃるんですよね」

 忍の問いかけに穏やかな笑みを向ける詠江。

「ああ、三人ね。直接会ったことないけどね」

「桔平さんのお兄さん達、カナダでしたっけ」忍の顔が気遣うような表情に変わった。「なかなか行き来できないですよね。小さいとまた」

「結婚してすぐ向こうにいっちゃったからね。最初は上のお兄ちゃんだけだったんだけど、忙しくなっちゃって、小さいお兄ちゃんも呼んでからはそれっきりだよ。ビデオはよく送ってくれるんだけどね。でもなんだか不思議な感じだよ。一度も会ったことないんだから」

「そうですよね……」

「でも仕方ないよ。見られないのはしようがないけれど、桔平も早く落ち着いて子供でもつくってくれるといいんだけどね」

「はあ……」

 自嘲気味にハハハと笑う詠江の顔を、忍は何とも言えない様子で見つめていた。

「忍ちゃん、若いのにしっかりしてるねえ」

 ふいをつかれ、忍がわずかにのけぞる。

「いえ、そんな……」

 にそにそと顔をほころばせながら、忍がひくつく笑顔を詠江に向けた。

 しっかりしているというのはよく言われることだが、それが年相応に見られたことのない忍にとっての褒め言葉になることはまれだった。

 ただしそこに、若いのに、という言葉がつけ足されれば、即、殺し文句にかわる。

「柊さんもお若いですよ~」

「まあ嬉しい。でも忍ちゃん達から見たら、私なんかお婆ちゃんみたいなんだろうね」

「いえ、そんなことありませんよ。お母様ですよ、お母様」

「桔平もこんな立派で可愛らしい人が奥さんになってくれると安心なんだけどねえ」

 忍が立派だと褒められる時は、大抵体格がらみのことだった。モデル体型だと比喩される場合、ほぼノンパッドの肩幅が証明材料となる。

 しかし、そこに可愛らしいとつくことは忍にとっても未知の領域であったのだ。

「いやだ、もう、お母様ったら、もう~、心にもないことを~!」おばちゃんのように腰をくねらせ、手をぱたぱたさせる。

「いいや、本当だよ。忍ちゃん、美人だしねえ」

「やだ、もう~! お母様だってお若いですよ~」

「あら、忍ちゃんだってテレビに出てるあの人にそっくりじゃないの」

「あ~、よく言われますけれどね。お母様だって、あの、女優のあの人に似てらっしゃいますよね」

「そうかい。忍ちゃんだって、あの、なんだっけねえ、歌手のあの人にそっくりだよ」

「あ~よく言われます。お母様だって、あれ、あの、コメンテーターのあの人に似てらっしゃって」

「そうかね。忍ちゃんもあの人にそっくりだよ。あれ、あの人。なんだかのあの人」

「あ~よく言われるんですよ。お母様だって……」

 礼也と光輔が点になった目でその光景を見守る。

「どっちも心にもねえことばっか適当に言ってやがるから、何も浮かんでこねえんだな……」

「楽しそうだからいいんじゃないかな……」

「ほんと、よく言われるんですよ! もう」


 昼食を終え、メック・トルーパーの休憩所で桔平を待つ詠江が、足音に気づき顔を向ける。

 そこには静かな笑みをたたえるあさみの姿があった。

 手には詠江から受け取った重箱が見えた。

「これお返しします」にっこり笑いかける。「おいしかったです。どうもありがとうございます、おばさま」

「ああ、ええ……」

 口ごもり微妙な反応を見せる詠江を不思議そうに眺めるあさみ。

 その心情を察するかのように、詠江はそれを切り出した。

「……あさみちゃん」

「はい?」

「……。なんでもないの。ごめんなさい」

 何かを告げようとし、思いとどまる詠江。

 それ以上はないと判断し、あさみが最後にもう一度笑顔を向けた。

「失礼します」

「……」

 背を向け、瞬時に表情を切りかえるあさみ。それは面倒くさそうな、また物憂げなふうにも見えた。

 立ち去ろうとしたあさみを、思い直した詠江の呼びかけが引き止めた。

「あさみちゃんには本当に感謝してるよ。あさみちゃんがいてくれたおかげで、あんな馬鹿でもとりあえず人様の前に出られるような人間になれたからね」

「……いえ、そんな」

 振り向くことなく、小さくあさみがそう言う。

 それに眉を寄せながら、詠江が柔和な笑顔を差し向けた。

「本当、あさみちゃん達がいなかったら、あの馬鹿どうなっていたか。木場君やあさみちゃんと知り合ってからだよ。あれが自分以外のものを大事にしなくちゃいけないって思うようになったのはね。ただの悪たれから、ようやくガキ大将になれた」

「……」

「またうちに遊びに来てね」

「……はい」

 一旦言葉が途切れる。

 再び歩き出そうとするあさみに、詠江の本心が追いかけていった。

「あんまり一人で無理しちゃ駄目だよ。困ったことがあったら、遠慮しないで桔平に言いなよね。あんな役立たずの馬鹿ちんでも、話し相手くらいにはなるだろうから」

「……。はい……」

 音も立てずに去っていくあさみを、詠江は複雑そうな表情で見守っていた。


 空港には桔平を始め、忍、雅、夕季の姿があった。

 見送りはいらないと詠江は言ったのだが、忍らが勝手について来てしまったのである。

 光輔と礼也は他に用事があったため、地元での見送りにとどまっていた。

 詠江の手には別れ際に礼也から渡されたフレールの紙袋があった。中には限定商品のプレミアム・メロンパンが目一杯詰め込まれていた。礼也が店主に無理を言い、特別に制限解除であつらえてもらったものである。

 光輔は何もできないかわりにと、携帯電話の簡易マニュアルを自作して渡す。それを詠江は何より喜んで受け取っていた。

 土産物選びを手伝う忍や雅から離れ、夕季と桔平が待合所で飲料水を口にする。

「おまえはいかないのか」

 やや激甘コーヒーを口に運びながら、桔平が向かいの夕季にちらと目をやる。

 夕季はカフェオレの入った紙カップを口につけながら、上目遣いに桔平を眺めた。

「……別に」

「別にってなんだ……」

「……」

 そこに詠江がやってきた。

 はあ~、と満足げに腰を下ろす。

「あ~、疲れた」

「みっちゃん達は」

 桔平に問われ、ん、と顔を向けた。

「向こうで飛行機が飛んでくの見てるよ」

「……んなもん、いつも基地で見れるのによ」

「はは……。喉が渇いちゃったよ」

 ふいに夕季がすっくと立ち上がる。

「何か飲みますか」

「ああ、いいよ、自分で行くから」

「いいです。あたしが買ってきます」

「……ああ、じゃあ」

「んじゃ、俺は……」

「自分で買ってきて」

 詠江の飲料水を買いに夕季が出向く。

 その背中を詠江は嬉しそうに眺めていた。

「あの子、いい子だねえ」

 詠江の呟きに桔平が、ん、と顔を向ける。

「ああ、夕季のことか」

 笑顔のまま詠江が頷いた。

「優しい子だよ。自分じゃよくわかってないみたいだけどね」

「まあな。あれでもうちょっとかわいげありゃ、言うことないんだがな」

「何言ってんだよ。おまえが人様のこと言えた義理かい」

「く!」

 ため息をつき、やれやれという顔を桔平に向ける詠江。それでもまた笑った。

「あの子だけじゃなくて、みんないい人達だけどね。忍ちゃんも雅ちゃんも、礼ちゃん達も」

「おお」ふてぶてしく笑う。「俺からすりゃ、全員まだまだだけどな」

「半人前が何言ってんだい」

「くあ!」

「昔からまわりの人達には恵まれてたからねえ。本人はどうしようもない馬鹿ちんなのに」

「俺の人徳だ」

 不貞腐れたようにそっぽを向いた桔平の横顔をマジマジと眺める詠江。

 一拍置き、口もとを引き締めてそれを切り出した。

「あさみちゃんから離れちゃ駄目だよ。いつもそばで見ててあげな。あんたにできるのはそれくらいなんだから」

 ぴく、と眉をうごめかせたものの、何も言い返さずに口をへの字に曲げる桔平。

 詠江がずっと直視をしていることに気づき、ため息を漏らしながら頭をかいた。

「うるせえな」

「桔平!」

「わあってるって! んなこたあ!」

 語気を強めそう言った桔平に少しも臆することなく、詠江がまばたきもせずに視線を送り続ける。

「絶対に見失うんじゃないよ。本当に大事なものっていうのは、ほんの少し目を離しただけでもなくなるものなんだからね」

 それに反応したのは、桔平のこめかみだった。

「いつ目を離したって」振り向き、食いつくように言う。「バカ親父が死んだのは、ブチ切れるまで言っても全然医者に行きやがらなかったせいじゃねえか! 自業自得だ!」

「バカ親父だと! もういっぺん言ってみな!」

 人目もはばからず睨み合う二人の親子。

 そこへ二つのカップを持って夕季がやってきた。

 ばつが悪そうに愛想笑いをしてみせる詠江。

 桔平は自分の分のカップを夕季から奪い取ると、肩を怒らせながら喫煙所の方へと歩いていった。

 その様子を不思議そうに見送り、きょとんとした顔で詠江へと振り返る夕季。

 詠江は奥歯を噛みしめながら愛想笑いを続けるだけだった。

「まったくあの馬鹿ちんは……」

「?」


 すっかり打ち解けた仲となった面々に見送られ、詠江は帰路についた。

 桔平の運転する車の中では弱冠の淋しさを滲ませながら、詠江の話をみなが口々にすることとなった。

 そこに一言も加わろうともせず、厳しい表情で前だけを見つめる桔平のまなざしは、かつての愚かな自分の姿をガラス越しに睨みつけているふうにも見えた。

 やがて空に雲の塊が黒く垂れ込めていく。

 深く深く心の闇を浮き上がらせるように。


 詠江を乗せた旅客機は予定高度に達し、巡航飛行を継続中だった。

 先まで見渡す限りの青空だったはずのに、急に立ち込めた暗雲に一抹の不安を拭い去れないまま。

 突然起こった空を割るほどの破砕音と衝撃は、飛行機をかすめながら、光の矢となってメガル目がけて直進していった。




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