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第三十二話 『百人のわからずや・前編』 5. 昔話

 


 その夜、河岸を夕季と忍のアパートにかえ、詠江のささやかな歓迎会と料理教室が開催されていた。

「いつ頃までいらっしゃる予定ですか」

 忍に問われ、筑前煮のレクチャーを続けていた詠江が嬉しそうな顔を向ける。

「あの馬鹿の顔を見に来ただけだから、明日には帰ろうと思っていたんだけどね」

「すみません。お疲れなのに。飛行機のチケットとかは予約してあるんですか」

「まだだけど、もう間に合わないかね」

「いえ大丈夫だと思いますけれど」ややもじもじしながらつなぐ。「よろしかったらもう少しいらっしゃったらいかがですか」

「ああ、嬉しいけれどねえ、迷惑だろうし」

「迷惑なんてとんでもないですよ。私も夕季も明日はお休みだし、もっと教えていただきたいこともありますし。あ、無理にとは言いませんが」

「おばさん、そうしちゃいなよ」

 ニンジンをザクザク切りながら、雅が満面の笑みを向ける。

「全然遠慮とかしなくていいから。しぃちゃんも背だけは大きいくせに女子力ゼロでさびしんぼだし、あたしも明日は十二時くらいまで寝てるつもりだから、おばさんもゆっくりしてって」

「みやちゃん、八時にはたたき起こすからね」

「桔平さんの恥ずかしい話とかも聞きたいし。このチャンスにガッツリ弱み握ってご飯とかおごらせまくらなきゃ」

「お~い、聞こえてるぞ~、みっちゃん」

「本当に私達はかまいませんけれど」

 忍の誠意ある駄目押しに、雅がキラキラのまなざしを差し向けた。

「あ~、明日みんなでお土産とか買いに行こうよ。その後でお風呂行ってさ、ご飯食べて」

「みやちゃん、柊さん、とりあえず桔平さんに会いに来てるんだし……」

「そんなの別にいいよ。あ、観たいテレビとかあったらそっちのデッキで勝手に予約しちゃえばいいから。古い方は勝手にキャンセルしちゃえばいいし」

「……」

 先にできた料理を光輔らと食らっていた桔平が、のっそりと顔を出した。

「明日は午前中ははずせねえけど、昼からはこの辺案内してやるからよ。夜はホテル取っといてやるから、明後日の昼過ぎ、飛行機で帰れよ」

「じゃあ、そうしようかね。飛行機のチケット取っといておくれよ」

「ああ、わかった」

 それに不本意そうな顔を向ける忍。

「でしたらもう一日ここに……」

「お姉ちゃん」

 夕季に連れられ、忍が部屋から出て行く。

 小声で夕季が耳打ちした。

「親切の押し付けはよくないよ。今だって相当気を遣ってると思うし」

「そうかな。別に気を遣わなくてもいいんだけどね」

「そういうわけにはいかないよ……」

 夕季の言葉が途切れる。

 知らぬ間にやって来ていた詠江が、そのやり取りを眺めていたからである。

 ばつが悪そうに口をつぐみ、そそくさと夕季が逃げていく。

 その背中を詠江は楽しそうに見守っていた。


 桔平や木場の懐かし話で盛り上がり、座もやや落ち着きかけた頃合いに、みなのテンションからは一歩引いた様子の夕季の前に、一枚の皿が差し出された。

「これ、食べない?」

 振り返るとそこには満面の笑みの詠江がいた。

「……なんですか、それ」

 詠江が持つ皿の上には薄く焼いたパンケーキらしきものが数枚のせてあった。小麦粉を溶いて焼いたもののようだったが、クレープと言うには厚みがありすぎ、色も白っぽかった。

「だら焼きって言うんだけど」

 甘い匂いに誘われ、おそるおそる夕季がその一切れに手をつける。

 もちっとした触感のそれを一口食し、すぐさままなこが一回り大きくなった。

「……。おいしい」

 そのリアクションに満足そうに笑う詠江。

「あの馬鹿もこいつが大好きでね。これは練乳が入れてあるんだけれど、あの子の子供の頃は砂糖だけだった」

 まばたきも忘れ、夕季が詠江の顔を凝視し続ける。

 それを心から嬉しそうに受け止め、詠江はさらに笑いかけた。

「あ~、だら焼きじゃねえか!」

 突然桔平が騒ぎ始める。

 光輔と礼也を一跨ぎにし、桔平が詠江の持つ皿を奪い取った。

「こら、桔平!」

 詠江の叱責に萎縮するどころか、皿の中を見てさらに桔平が目を剥く。

「あ、練乳入れやがったな! うちじゃ滅多に入れなかったのに、他人の前だからってミエはりやがって!」

「何言ってるんだろうねえ……」

 ぼう然となる一同の中、木場だけがその顔色を変えていた。

「おい桔平、俺にもよこせ」

「だあ~! さわんじゃねえ。まったく意地汚ねえな、おまえは!」

「どっちがだ!」

「あたしも!」

 雅の参戦に礼也と光輔が顔を引きつらせた。

「おまえ、まだ食うのかって……」

「みっちゃん、二個取りはやめろ!」

「うまい! 味の世界恐慌やあ~!」

「世界恐慌ってダメなやつだよね……」

「かなりダメなやつじゃねえのか……」

「味のビューティフルサンデーやあ~!」

「あ、言い直した」

「何言ってやがんだ、こいつ……」

「夕季、うまかった?」

 光輔の問いに夕季がコクリと頷く。

 直後、光輔と礼也もだら焼き争奪戦に加わることとなった。

「ババアのやつ、ずっとクレープだっつって言い張ってやがってよ。素直な俺はすっかり信じてて、あさみにドヤ顔で出してバカにされたんだぞ。木場はバカだから、ほお、これがクレープか、つってうまそうに食ってやがったがな。ほんと、間抜けな奴だ」

「まる聞こえだぞ、貴様!」

「ババアって誰のことだい!」

「ちなみに砂糖二倍の桔平スペシャルも存在するが、おまえらにはハードルが……、こら、俺のも残しとけ!」

「きたねえな、唾飛ばすなって!」

「あ、木場さん、二個食い!」

「モガ!」

「俺のだ!」

「あたひの!」

「おまえ、まだ食うのかって!」

「みっちゃん、口の中のもの全部飲み込んでから次の取れな!」

「むひ~ん! ……んぼっ!」

「ポンポン飛んでるから……」

 その光景を嬉しそうに詠江が眺めていた。

 争奪戦からあぶれ、ポカンと戦場を見守るだけの夕季に気づき、詠江が笑いかける。

「まだあっちにもあるから、どう?」

 夕季も心を許したように表情を和らげてみせた。


「桔平さんの子供の頃って、どんなんだったの」

 光輔や桔平達が去り、客間に布団を敷き詰めつつ雅が屈託のない笑顔を向ける。

 すると掛け布団を丁寧に揃えながら、詠江が楽しそうに振り返った。

「小さい頃からどうしようもない悪ガキだったよ」

「あれ、まったく予想通りで意外性のかけらもない」

「上の二人は大人しいのに、あれだけは悪たれ坊主でねえ。いつまでもガキ大将のつもりか、人に謝ることを知らなくて困ったもんだったよ。いくつになっても心配で心配で。でも木場君のことが大好きでねえ。憎まれ口ききながら、いつも木場君のことを話してたよ。本当、木場君がいてくれなかったらどんなクズになってたかわからないよ」

「木場さんもたいがいだけどねえ~」

「あの馬鹿、みなさんに迷惑かけてない?」

「そんなことありませんよ。みんなあの人にはお世話になりっぱなしだし」隣の部屋から忍が顔を覗かせる。「私もよくしていただいて、頭があがりません」

「そう? ならいいけれど、あの馬鹿、すぐ調子に乗るくせがあるから。忍ちゃん、嫌がらせとかされてない? 気に入った女の子だとすぐにちょっかい出すし、知らないうちにからんだりして迷惑になってやしないかと心配でねえ」

「はあ……」

「ほら、自分じゃおもしろがってるつもりでも、されてる方からしたらセクハラとかになってたりね。さっきもちょっと……」

「その点は大丈夫。嫌がらせはちょくちょくされてるけど、セクハラは一度もされたことがないよね、しぃちゃんは」

「まあ……」

「みやちゃん……」

「なんかすぐぶっとばされそうな雰囲気もあるけど、最大の問題はしぃちゃんの記録的な女子力のなさだもんね。困ったもんだよ。ね?」

「……ねって言われても」

「世界新記録達成!」

 楽しげに笑っていた詠江がふいに表情を落とした。

「本当はカナダに来ないかってお兄ちゃん達から誘われててね。遠すぎて自分達の手の届かないところに私を置いておくのも心配だからって」

「お優しいんですね」

「行っちゃうの」

 雅に真顔で見つめられ、詠江がふっと笑う。

「断った。いろいろ考えたけれど、やっぱりね。このことあの子には言わないでね」

 それが桔平を指していることを理解し、忍らが納得する。

「はい」

「言わな~い。その方がおもしろいから」にんまり、意地悪そうに詠江の顔を見る。「桔平さんのことが心配なんでしょ。やんちゃだから」

「みやちゃん!」

「そういうわけじゃないんだけどね……」

 詠江が力なく笑う。

 それを眺め、雅が嬉しそうな顔になった。

「桔平さんって幸せ者だよね。こんないいお母さんがいるんだから。恵まれすぎててよくわかんないんだよね、きっと」

 詠江も嬉しそうに雅の顔を眺め返した。

「ほんとだね」忍にも振り返る。「こんなにいい人達に囲まれてるのにね」

「いえ、そんな……」

「ほんと、そのとおりだよ!」

 渋チン顔の忍とドヤ顔の雅を見比べ、詠江が楽しそうに笑う。

 それからふいに表情を変え、見えざる彼方へと視線を送った。

「なんとなく、それっきりなんじゃないかって気がしちゃってね」二人に穏やかに笑いかける。「トシなんだろうね、やっぱり」

 困ったように眉を寄せる忍の隣で、雅はにこにこと詠江の顔を見続けていた。


 それぞれの部屋で眠りにつく夕季や忍とは別に、詠江は客間で雅とともに就寝することとなった。

 常ならば夕季の部屋で寝泊りするはずの雅だったが、やたらと詠江に懐いており、また詠江も雅のことを気に入った様子だった。詠江が雅のことを何度も昔のあさみのようだと連発し、だから桔平が気に入ったのだろうと楽しそうに告げる。笑い合う二人の姿は本当の親子のようにも見えた。

 ふいに目が覚め、喉の渇きを潤そうと台所に向かう夕季が、足音を忍ばせつつもちらと客間に目をやる。

 雅と詠江は手をつないだまま、幸せそうに寝息を立てていた。

 何とはなしに淋しさのような感覚に見舞われ、夕季が小さく息をつく。

 ふと気配に振り返ると、そこには詠江の笑顔があった。

「!」

 完全に不意をつかれ、目を見開いたままで夕季が後じさる。

 すると詠江は夕季を驚かせてしまったことにばつの悪さを露呈しながら、やや控えめに笑ってみせた。

「ごめんなさい、驚かせちゃって。ちょっと喉が渇いちゃって。お水いただいてもいい?」

「あ……」夕季が慌てて冷蔵庫に手をかける。「冷たい麦茶でもいいですか」

「あ、うん。ありがとうね」

「いえ……」

 真夜中の明かりのない台所で、二人が麦茶の入ったコップに口をつけ喉の渇きを潤す。

 冷たくはあったが、やや部屋が乾燥気味であったためか、流し込む喉越しが心地よかった。

「本当にごめんなさいね、ご迷惑ばかりかけちゃって」

「いえ……」

「ほんとにねえ……」やれやれと言わんばかりの表情で詠江が深い深いため息をつく。「あの馬鹿のことをこれからもよろしくお願いね。何もとり得もないのに態度だけは大きくて、困ったものだけれどね。立場上、みなさんが嫌々でもお付き合いしてくださっていることは重々承知していますから」

「そんなことない」

 詠江の心からの嘆息に、夕季が異議を唱える。

「あの人はみんなのために一生懸命やってくれてるから。あたし達だけじゃどうにもならないようなことだって、必ず手を貸してくれる。みんな口には出さないけど、桔平さんには感謝してると思う。お姉ちゃんも」

 まじまじと顔を眺める詠江に気がつき、はっとなって夕季が口を閉ざす。

 そのプレッシャーに耐え切れず、夕季が眉をひくつかせ、顔をそむけた。

 それを嬉しそうに見つめ、詠江は夕季ににっこりと笑いかけた。





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