第三十二話 『百人のわからずや・前編』 4. 懐かしの味
いつの間にか忍や雅らも加わり、桔平の母、柊詠江を囲む輪は大きくなりつつあった。
「杏子ちゃん、残念だったね」
わずかに眉を揺らし、詠江が木場の顔を真っ直ぐに見つめる。
それを正面から受け止め、目をそむけることなく木場が頷いた。
「杏子もおばさんに会いたがっていました。いつもお世話していただいて、ご迷惑ばかりおかけしてしまって。本当にいくら感謝してもしたりません」
詠江は病気がちだった木場の母親が病院への入退院を繰り返すのを見かねて、二人の世話をすすんでしていたのであった。
「何言ってるの、木場君。お互い様でしょ。あの出来そこないのわからずやに勉強教えてくれるのなんて、あさみちゃんか木場君くらいしかいなかったんだから、こっちが感謝してもしたりないくらいだよ。言葉遣いどころか、ろくに足し算もできなかったくらいなんだから」
「あのな……」
「いえ、そんな」
「おまえも否定しろって」
「桔平!」
「ひいっ!」
「もう威厳ゼロだね」
にこにこ笑いながら言い放つ雅を、桔平が恨めしそうに眺める。
ふと何やら気がつき、詠江が雅の顔をしげしげと眺め始めた。
「あらあら、この人は、昔のあさみちゃんによく似てるね。中学の時の」
ん、と顔を向ける桔平と雅。
「意地悪なところがか」
「もう、桔平さんたらあ」
手加減なしの手形を背中にスタンプする。
「いてっ!」
「高校生かい」
「いえ、こう見えてもぴちぴちの女子大生なのです」
「あ~、ごめんね。可愛らしいから、もっと下かなって思っちゃって」
「おほほほ、よく言われますのよ。若く見られすぎちゃって本当に困っちゃう。中学生にも間違えられちゃったりなんかしちゃったりして~」
「頭の中がか」
「やだもう、桔平さんたらあ」力いっぱい、バシバシと桔平の背中を叩きまくった。「ハナゲ出まくったりなんかしちゃったりして~」
「いて! 何!」ぶちぶち抜き始める。「くわっ! いて!」
「おまえはいくつになってもだらしないねえ」
「うるせえって、……いてっ!」ぶちぶちと鼻毛を毟り取り、ムッとなった桔平が立ち上がった。「おい、木場、飲み物を買いにいくぞ」
「ちゃんと手を洗え」
「うるせえな」
「あたしも行く」
「おい、その手で触るな!」
無理やり木場を連れ、顔を引きつらせながら桔平が雅とともに自販機の方へと逃げていく。
その後ろ姿をそれぞれが複雑そうに見守っていた。
「あ、そうだ」ふと気がつき、詠江が荷物の中から風呂敷包みを取り出す。「これ、よかったら、食べて」
重箱の中を覗き込む面々の表情がキラキラと輝きだす。
「すげえ、肉じゃがじゃねえか」
礼也のその横顔を、表情もなく夕季が眺めた。
「筑前煮」
「はあ!」
「だから筑前煮」
「わかってんだろって、んなの!」
「顔真っ赤にして」
「うるせえって!」
「あ~、ウマ!」
「てめ、光輔、何勝手に食ってやがる! ぶっ殺すぞ!」
「いや、食べてって……」
「俺も食うって!」
「あ~! てめえら、何勝手に食ってやがる! 俺の好物の里芋を!」
木場らとともに大量の飲料水のカップを抱えて戻った桔平の表情が、一瞬で豹変する。
光の速さで桔平が取ろうとした好物の里芋を、横から雅があっさりインターセプトした。
「ん~、んまい!」
「あのな、みっちゃん……」
それを眺め、詠江が懐かしそうに目を細める。
「ほんと、昔のあんた達を見ているようだねえ」
ん? と顔を向ける雅。
すると詠江が取り繕うような笑みを向けた。
「あ、ごめんなさいね。あさみちゃんもそれが大好きだったから」
複雑そうに顔をしかめた桔平の手の先から、雅によってまたもや里芋が抜き取られる。
「そういや、よく同じことされたような……」
「ん?」
もぐもぐさせる口もとを手で押さえ、雅が悲しげな桔平の視線に目を合わせた。
「おいひ~」
「……」
やや苦笑いし、別の重箱を手に取る詠江。
「あさみちゃんの分も作ってきたんだけどね」
すると一瞬その場に静粛がおとずれる。
それを不思議に思い詠江が目線を向けると、桔平と木場が苦虫を噛み潰したような顔を緩やかに見合わせた。
その間隙を縫うように、桔平の箸から雅が横目一つで里芋を奪い取る。
「んま~!」
「あ~」言いづらそうに桔平が口を開く。「あいつはもう、そういうの食わないよ。たぶん」
「本当かい?」
「ああ、まあ……」木場にヘルプを求めた。「な」
「う~む……」
「好みが変わっちゃったのかね」
「いろいろな……」
そう言いつつ、桔平が好物の里芋に狙いを定める。
その軌道をキラリ光るまなざしで追いつつ、雅がロックオンした。
「あ!」
「とったど~!」
恨めしそうに横目で眺める桔平を見つめ返し、手で口を押さえた雅が頬をいっぱいに膨らませてもぐもぐし続けた。
「口ん中、ぱんぱんじゃねえか……」
「む~ん、実においひい。まったりとして渾然としてしつこくなくてまったりとして、味の冠婚葬祭やあ~。もう、いくらでも食べれる~」突然目をくわと見開く。「うぶっ! もう無理かも!」
「ほら見ろ、欲張って詰め込みすぎるからそうなるんだ」
「らって……」
「リスでもそんなに入れねえぞ」
光輔と礼也が表情のない横目を見合わせた。
「冠婚葬祭って葬式も入ってるんだよね」
「法事もだって」
「食いしんぼなとこまで、昔のあいつにそっくりだな……」遠い目をしながら重箱の中身を確認した後、桔平が愕然となった。「あ、もう一個しか残ってねえじゃねえか! シャレんなんねえぞ!」
焦って手を伸ばす桔平を阻止すべく、慌てて雅が手を伸ばした。
「何やってんだ! もう入んねえだろうが!」
「らって! うぶっ!」
「らってってなんだ! 涙目になってまですることか! さては何が何でも俺に食わせねえ魂胆か!」
「あたひの!」
「口ん中、ぐちゃぐちゃだぞ! そんなみっともねえ女子大生、見たことねえ!」
「むひ~!」
「何やってんだろな……」
礼也と光輔が冷めた目を差し向ける。
「なんで二人ともあんなに意地汚いんだろ……」
「ちょっと待て、光輔。俺はまだ一つも食ってねえぞ。意地汚ねえのはみっちゃんだけだろ!」
「とったどー!」
「あ!」
一瞬の隙をつき、雅が里芋を争奪する。
それを口へ運ぼうとした時、満パンの口の中が拒絶した。
「うぶっ! やっぱムリ。残念だけどあたしはここまでの女かもしれない!」
「よっしゃ!」
桔平が奪い返した。
「とったど~!」
「まあ、おいしそう」
「あ!」
最後の里芋を高々と掲げ桔平が雄たけびをあげるや、ふいに横から里芋がつまみ取られ奪い去られる。
誰もがあっけにとられる中、その最後の里芋は満面の笑みの中に吸い込まれていった。
「ん~、おいしい」その声の主、進藤あさみが嬉しそうに詠江に笑いかけた。「お久しぶりです、おばさま」
「あら、あさみちゃん」
「いらしてくださるなら、言っていただければよかったのに」
「ああ、急だったからね。ちょっと余裕ができて」
「そうでしたの。でも、おばさまのお料理が食べられてよかったわ。懐かしすぎて、感激しちゃった。できればもう少しお芋をいただきたかったけれど、少し来るのが遅かったみたい」
「あ、これよかったら、どう? 同じ物だけど」
詠江が差し出した風呂敷包みを確認した途端、あさみの顔がぱあっと光り輝く。
「いいんですか」
「ええ。あさみちゃんが食べるかなって思って作ってきたんだから。多かったら少しだけでも……」
「全部いただきます」
「……あら、そう」
「遠慮とかしねえんだな」
「桔平!」
「しなくちゃいけなかった?」
仏頂面の桔平をあさみが真っ直ぐに見つめる。
いたたまれなくなり顔をそむけた桔平を眺め、おもしろそうにあさみが笑った。
「ありがとうございます。すみません、気を遣っていただいちゃって」詠江に笑いかける。「器に移したら、ちゃんと洗って返しますから」
「あ、ええ……」
「当たり前じゃねえか」
「何か言いましたか、柊副局長」
「言ってねえよ!」
「それではまた」
「あ、うん。そうだね」
満面の笑みをまといながら消えていくあさみの後ろ姿を、しりこだまを抜かれたような表情で残された面々が見守る。
最初に口を開いたのは、放心状態の礼也だった。
「今の笑顔の素敵なお姉さんは誰だ……」
「……なんだかそとっつらのいい時の雅みたいだったけど」
「あたしのドッペゲンガかな……」
「ドッペゲンガ?」
放心状態の光輔と雅が間抜けな顔を見合わせた。
「生霊?」
「何言ってんの……」
「こええって、もうよ!」
「おいしい」
一同が顔を向けると、忍と木場が残りのほとんどを平らげようとしているところだった。
「あ~、てめえら、食いすぎだろ!」
目をつり上げて激高する桔平に、笑顔の忍が振り返る。
「あたひ、れんほん大好きなんれすよ」
「聞いてねえだろ!」
「とおもっはら、たへのこらった」
「食うまでわかんなかったのか! すげえな!」
「あ!」しいたけを横取りした忍を、木場が睨みつけた。「こら、忍! 何故俺が取ろうとするのをわざわざ横取りする!」
「れも、ひいたけもおいひいれすよ」
「それがどうした! 貴様、許さんぞ!」
「ほんと、いくられも入りますよ」いくらでも忍の口の中に吸い込まれていく椎茸。「うぼっ! 突然限界きた!」
「……なんか、意地汚ねえ奴ばっかだな」
礼也の呟きを受け、光輔が卑屈な笑みを夕季に向けた。
「しぃたけのしぃは、しぃちゃんのしぃ。なんちゃって」
「ちっともうまくない」
「あ、光ちゃん、うまい! あっははは!」忍一人がバカ受けだった。突然涙目をくわと見開く。「うぼんっ!」
「口ん中いっぱいなのにバカ笑いするからだって……」
「入れすぎだよね、あれ……」
「……お姉ちゃん、みっともない」
「しぃちゃん、みっともないよ! あっははは!」
「いや、おまえが言うなって……」
「はあ~、死ぬはと思った……」
涙目で安堵の表情に包まれる忍を、桔平があきれ顔で見やる。
「だから口にもの入れてしゃべんなって」
「リスみたいですよね」
「いや、そんなかわいかねーやな」
「そんなことないですよ」
「いや、そんなことないことない」
「かわいーですよ!」
「だから、かわいかねー!」
「何ででーすか! あ、なまった」
「今外人みたいだったぞ、おまえ!」
「そんなことないですよ!」
「いや、外人みたいだった!」
「日本人ですって!」
「いや、そんなことねー! だいたいユーニンなんて名前の日本人がいるか! 何ジンなんだ!」
「愛称でしょうが! そんなこともわかんないんですか! アホなんですか!」
「ニンてなんだ、ニンて! 愛称だかパンティーだか知らねえがな!」
「パンティーとか言うのやめてください! 不愉快です!」
「何だと! ほざいたな、てめえ!」
「何ムキになってんだって……」
「わけわかんないね……」
「よし、復活」んがふぐ、と口の中のものをすべて飲み込み、やや涙目のままで忍が詠江と向き合う。「これって、どうやって作ってるんですか。私もレシピ見ながら作ったことはあるんですけれど、思ったふうにできなくて」
それを見て、詠江が嬉しそうに笑った。
「教えてあげようか」
「ええ、ぜひ!」
「おい、どうでもいいが、今日どこに泊まる気だ。俺の部屋は場所がねえぞ」
からになった重箱をちらと見て、不貞腐れたように頬杖をついた桔平が、不機嫌な声を漏らした。
「どこでもいいよ。押し入れでも」
こともなげにそう答えた詠江に、桔平があきれ顔を差し向ける。
「なわけにゃいかねえだろ」
「じゃあビジネスホテルでもとっておくれ」
「ああ……」ふん、と考え直す。「おい、木場、今日おまえんとこに泊めてくれ」
「それはかまわんが」
そのやり取りを横から眺め、忍がおずおずと手をあげた。
「あの、よかったらうちに泊まりませんか。いろいろ教えていただきたいこともあるし」
「おまえ、何言ってんだ……」
「いいじゃないですか。お夕飯もみんなで食べれば。せまいですけれど、一人くらいならなんとか……」
「あ、じゃあ、あたしも泊まります!」
きびきびと手を上げた雅を、みなが恨めしそうに眺めた。
「今、なんとか一人くらいって言ったばっかじゃねえか……」
きょとんと礼也を見つめる雅。
それを苦笑いの光輔が補足した。
「もう一人分、枠があるとかん違いしちゃったんだね」
「違うよ、光ちゃん」ドヤ顔で否定する雅。「あと一人しか入れない枠に、あえて二人目としてエントリーしたの。せまいの承知のすけで」
「おまえ、バカだろ……」
「バカだよね……」
「……」
「まあ、夕季まで!」
「何も言ってない……」
「言ってよ!」
「……」




