第二十九話 『いびつな器』 2. いびつな器
昼の休憩時間に、桔平は滑走路の脇にある訓練施設を訪れていた。
眩しい陽射しに手をかざし、目を細めて凝らす。
物音と激しい息継ぎのする先に、お目当ての人物がいるはずだった。
「あんた、毎日ここにいるな」
桔平に声をかけられ、トレーニングウェアを着た長身の男が振り返る。細身で白髪まじりなため、第一印象はダンディな初老という印象だったが、均整の取れた肉づきと力強いまなざしが、接する相手に鋭利さを認識させていた。
「いつ我々も必要に迫られることになるのかわかりませんから」
眼光をぶつけるように、その男、三田が振り返る。穏やかな物言いの中にも隙は見られず、対する者に常に緊張感を与え続けていた。
そのプレッシャーをものともせず、懐から取り出したタバコに火を点けつつ、桔平が笑ってみせる。
「あんた、すげえな」
「何がです」
「鉄砲撃ったり、殺し合いするだけが戦争じゃない。どんな場所ででも戦っている人間ってのは、見りゃわかる」
そう言い、うまそうに煙をぷは~と吐き出した桔平を、三田は表情もなく眺めていた。
三田隆治は堅物で、常に周囲から疎まれていた。もともとはキャリアのラインでメガルへ携わってきたのだが、先の理由もあり上席者からの信用がえられず、むしろ厄介払いの意味合いが大きかったとも言えた。立場的には新参者の大城達より下へ追いやられていたが、桔平の抜擢によりそれより上の立ち位置となったのである。
序列だけで言えば、幹部の集まる会議で、あさみや桔平の次に名を連ねることとなっていた。
「私はあなたを恨んでいる」
「ん?」
ふいに桔平から顔をそむけ、三田が恨み言を言い始めた。
「たいした功績も裁量もない私を分不相応な人事で配置換えしたおかげで、私のことを縁故やえこ贔屓で昇進した卑怯者だとやっかむ連中が次々とわき出てくる。私を仕事のできない人間と認識し、それまで厄介者のように嫌悪してきたかつての上司達が、嫌味のように馬鹿丁寧な言葉遣いで媚びへつらってくる。私の周辺は、常に妬みと怨嗟に晒されているのです。あなたのせいで」
それを受け、当然といった様子で桔平がにやりとする。
「ザマミロってとこだな」
「ふむ」
再び三田が顔を向けると、嬉しそうに桔平はそのわけを語り始めた。
「昔あんたに似た先生がいてな。結構ガツンガツンやられたわけだ。俺の苦手なタイプだったしよ。クソマジメな上に面倒ごとからも逃げねえからタチが悪い。そっちのオーバーラップだから、こらえといてくんな」
「言いがかりも甚だしい。いい迷惑です」
タバコをくわえたまま、桔平がおもしろそうに笑ってみせた。
「あんただけだったな。最初っから俺に噛みついてきて、今でもそれを続けてるのは。他の腰の引けた連中なら、正論をゴリ押しでひっくり返すことも簡単だったが、あんたにはオドシなんざ一切通用しない。俺みたいな学の無い人間が屁理屈を論破されたら、ぐうの音もでねえからな。空気読めって感じだよ。おかげであんたの姿を見るだけで、胃がしくしくするようになってきちまった。あんたのせいだぜ。会議フケるくせがついちまったのは。ま、俺のささやかな復讐ってとこだ」
「私のせいにして、しょっちゅう会議をエスケイプするので困ると、局長がこぼしておられましたが」
相変わらずの無表情で三田がじっと桔平を見据える。
「私がいるいないにかかわらず」
「耳が痛えよ。あんたのずけずけは」
「すみません。昔からそうです。おかげで人に好かれたことがない」
「耳が痛えよ。そっちも」
「はい?」
何でもないと言いたげに、桔平がかぶりを振った。
「ま、気楽にやってくれ。こっちだって局長の気分一つで、いつ格下げになったっておかしかない。そしたら、改めてあんたの下っ端だ」
「その時は上司としてあなたに命令するだけです」
「カタイな、あんた。カタイくせに柔軟だ。世のお偉方すべてが、あんたみたいな人ばかりならおもしろいのにな」
「おもしろいだけでは社会は回っていきません。それに私の器ではこれ以上の出世は無理です」
「器なんて自分で決めるもんじゃねえよ。って、どっかの誰かが言ってたがな」
「……」
「なんでも、入れ物の底から見上げるだけじゃ、どんだけ端っこが高いのか低いのか、わかりゃしねえってさ」
「私の場合、すぐ目の前に縁が見えますが」
「そっからさらに外側に向かって広がってるんじゃねえか? ぐにょ~ん、てな感じで」
「だとしても、それはいびつな器だ。組織には必要とされない」
「へへっ、昔どっかの誰かにも同じようなこと言われたな。だが、そういう器は見えない底の方に毒をためておくことができる。一見何の変哲もない平らな皿のように見えて、腹の底にとっておきを隠し持てるんだ。便利じゃねえか。そういう人間こそが、組織には必要なんだろ? 汚れ役としてだけどな」
「ユニークだ。あなたは実にユニークだ」
「あんたほどじゃない」
表情を変えることなく三田に言われ、桔平が、ふっと笑った。
「だが、あいにく私は毒の使い方を知らない。自身が持て余すようなシロモノを、どうすればよろしいのですか」
「心配するな。あんたの毒は俺が使いこなす」
「私など足もとにも及ばないほどの猛毒を持つあなたが?」
「毒をもって毒を制す、ってやつだ」
「なるほど。実にあなたらしい。軸がずれているあたりも」
「軸がずれてるのはあんたの方だろ。もっと器用に立ち回ればいろいろとウマい目にもあえただろうにな」
「ウマい、とは何のことでしょうか」
「……そうストレートにこられるとな」
苦笑いの桔平から目線をずらし、三田が海岸線を眺める。
船の汽笛と海鳥の鳴き声が彼方まで響き渡っていた。
「私もタバコをやる方ですが、以前一本一万円以上もする葉巻をいただいた時、それをウマイとは思えなかった。いつも吸っている国産の安物の方が私の口には合っている。かと言って、そんなものを一日に何百本も吸いたいとは思わない。本当にウマいのは最初の一本だけだ」
「おっと、こりゃ失礼」
慌てて桔平がタバコを差し出し、火を点ける。
それを三田は遠慮なく受け取った。
「すみません」一口目から深く吸い込み、深々と吐き出す。「ウマい」
その表情に初めてリアリティが浮き上がった。
桔平がにやりとする。
「なるほどな。そんなウマそうな顔してタバコをふかすような人間は、このご時世に出世は無理だ」
「同感です。今の分不相応な立ち位置にいることが、いまだに信じられない」
「信じようが信じまいが、今ある状況が現実だ。それに俺と違って、あんたらは一度昇格しちまえばよっぽどのことがない限り降格はないだろうしな。もしものことがあったら、今度は俺をお茶くみにでも雇ってくれ」
「毒を盛られそうですな」
「そのつもりだ。ついでにボンクラどもにもまとめて下剤ブチこんでやるからな。覚悟しといてくれ」
「即通報しますので、そのお覚悟で」
「やれるモンならやってみろってか。大丈夫だ。俺も飲んだフリをするから」
「では私もそうしましょう」
「ズルいな、あんた」
「お互い様でしょう」
「俺はやる時ゃやる男だ。やらねえ時は何もしねえが」
くわえたタバコをぷらぷらさせながら、桔平がおもしろそうに笑った。
それを三田が見下げるように見つめる。
「私は、いざとなったらやると公言している人間が、何かを成し遂げたのを見たことがない」
「いざとなってねえんだろうな、まだ」
「いつおとずれるかわからないチャンスをあてにして惰眠を貪り続ける輩に、大事を託すような人間はどこにもいない。すべきことがわかっている人間は普段から準備を怠らないものです」
「人事をつくして天命を待つってやつだな。で、あんたは、くるあてのない天命のために、ずっと人事をつくしてきたってわけか。実際にきちまったんだから、あんたの理論は間違ってなかったってことなんだろうけどな」
「今のはただのたてまえです」
「ほ?」
「本音を言えば、天命なぞは知らずに一生を終えたかった。煩わしいだけですからな。本当の幸福とは、人事をつくしたその上で、何事もなく平穏な一生を終えることだと私は思っている。だから私は、あなたを恨んでいる」
「また言いやがったな……」
「人の価値はいかに死んだのかではなく、どう生きたかです。こつこつと積み上げることをよしとせず、最後の行いだけでそれまでの怠惰な人生や他人に及ぼした迷惑の数々が帳消しにできるのなら、誰も真面目に生きようとはしなくなるでしょう。もし仮にそういった人物が、誰もの記憶に残るような死を遂げられたとしたならば、その人間の人生は誠に惜しいものだったと言いかえることができる」
「昔、三年ぐーたらしてた奴は村人にすごく感謝されてたぜ」
「ついでに言わせていただくと、私はああいった類の話は大嫌いです」
「あっはっは。あんた、味がある。あんたになら仕えてやってもいいぜ」
「聞く耳も持たぬくせによく言うものです」
「耳ならあるさ、二つも。聞こえるかどうかはその声次第ってとこだ」
「便利な耳ですな」
「聞き手の粗相はいい手の粗相だって言うだろ」
「なるほど。ですが私は屁理屈が嫌いだ」
「何を言っても道理を曲げねえ奴にしてみりゃ、理屈も屁理屈も大差ねえだろ」
「違いない。だがそれもまた屁理屈だ」
「違いねえ」
「しかし」タバコを吸い終え、三田がまなざしの先に彼方を見据える。「自分のためだけでなく、もし他の誰かを救うことができるのならば、屁理屈も道理になる」
「そのための屁理屈だ」
「それはどうでしょうな」
顔を突き合わせた二人が、小さく笑い合った。
「いくらボンクラ揃いっつったって、何万人も集まりゃ中に何人かは鬼も潜む。そいつらが何もしねえで平々凡々と無駄な時間を貪ってるのが俺は気にくわねえ」
頃合いを見計らい本題を切り出した桔平を、三田はまばたきもせずに注視した。
「彼らを探し出すのが私の仕事ですな」
「俺があんたを見つけたようにな」
「……」
「あんたみたいに、目につくとこにいりゃまだなんとかなるが、引きこもってちゃ目星もつけられん。鬼の棲家がわかるのは、鬼だけだ」
「なるほど、うまいタバコの対価としては妥当だ」
「冗談に聞こえないところが怖いよ」
「それを嬉しそうに言うあなたの方がもっと怖い」
笑い合いながら、三田が桔平からもう一本タバコを受け取った。
「奇をてらっているばかりじゃ王道に打ち勝つことはできない。俺みたいなはみだし者が常識をひっくり返すためには、それを上回る整合性が裏づけとして必要だ。つまり、俺にとっての整合性があんたってわけだ」
「もっともらしい理屈ですが、それがあなたの座右の銘ですか」
「そんな大層なモンじゃない。スポーツライターの名言をパクっただけだ」
「なるほど、確かに名言だ。しかし、そんな考えでよく軍人が務まりましたな」
「自衛隊だ。別に愛国心が強くて、なったわけじゃない。国の中に大切なものがあるから、それを守るためになった。それだけだ」
「……」
「もし国を生かすために、誰かの大切な何かを奪わなければいけないのだとすれば、それは俺が住む国じゃない。一人一人の心に深い闇を植えつけて、弱い者を犠牲にしなければ救えないのが今の世界ならば、その数十億の命は俺にとって何の意味も持たない。従うものも、守るべきものも、全部この中にある」胸をドンと叩く。「おっほ!」
わずかにも眉を揺らすことなく、また決して桔平から目をそらすこともなく、三田は極めて真面目な顔を差し向けた。
「つまり王や国の民よりも大切な、守るべきものが他に存在すると」
「俺にはな」涙目で笑いかける。「他人に強制するつもりはない。だが自分一人と引き替えに大切なものを守れるのだとすれば、その命に価値があったとも思えるがね」
「なるほど」ふうむ、と三田が顎に手をやった。「力無き者が口にすれば、一笑にふされるだけのたわ言だ。しかし、あなたが言えばさまになる。そういった人間でなければ、国以上のものは守れない」
「あんた、ずるいよ」
何気ない桔平の一言に、三田の表情がわずかに変化をみせる。
「何がでしょう」
「自分だってそう思ってるくせによ」
それを三田は真顔で受け止めた。
「物事には頃合いというものがある。今はまだ何事も公言する時にあらず、と言っておきましょうか」
「だからズルいんだって」
「私は確かに愚か者だが、かと言ってあなたのようにずうずうしくはなれない。それでおわかりいただけましたか」
「言ってろよ」
笑い合うかわりに、二人でプカーと煙を吐き出した。