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第三十一話 『深い森の中で振り返った羊』 7. 幻

 


『ねえ、今日、映画につき合ってよ』

 自宅であさみからの電話を受け、桔平が露骨に顔をゆがめる。

「ああ! メンドくせえ」

 それでも嫌そうな様子ではなかった。

 待ち合わせの場所で桔平を迎え、中学生のあさみが嬉しそうに手を振ってきた。

 周囲の目を気にし仏頂面の桔平にも気に止めず、あさみが大声で笑ってみせた。

「チケットの期限、今日までなの。一緒に行こうとしてた子が急に来れなくなっちゃって、ごめんだけど」

 バツが悪そうに桔平がそっぽを向く。

 目が合った通りすがりを睨みつけ、足早に立ち去らせた。

「……しかたねえな。何の映画だ」

「愛と青春の谷町」

「タニマチ……。相撲の映画か」

「そうとも言う」

「そうなのかよ……」

「違うっちゅうに!」

 映画を見終え、劇場から二人が現れる。

 満足顔のあさみに対し、桔平は不満気な様子を眉間の皺で露骨に表現していた。

「あ~、おもしろかった。よかったね、二人が一緒になれて」

「俺は隣でやってたジャッキーが気になって仕方がなかったっての」

「そういうこと言わない」まるで気にする様子もなく、あさみがけらけらと笑った。「ねえ、つき合ってくれたお礼におごってあげるよ」

 少し遅い昼食をファミレスですまし、あさみがレジへと向かう。

「先に外行ってて」

 そう言われたものの居心地悪そうに桔平が後を追っていくと、あさみの手から店員がポイントカードを受け取ろうとしているところだった。

「おい、やっぱ俺が」

「いいよ、そんなの」

 慌てて押しとどめようとしたあさみを、桔平が不思議そうに眺める。

 めずらしく取り乱したその様子のわけを、桔平は店員の口から知ることとなった。

「本日はお客様のお誕生日ですから、ポイントを五倍にさせていただきます」

「……」

「……」

 気まずい空気の中、無言で二人が見つめ合う。

「……早く言えっての」

「……だって」

 複雑そうな表情で支払いをすませ、困惑したような顔をあさみは桔平に向けた。

「……。木場と行く予定だったのか。で、奴のかわりに俺を……」

 桔平のその言葉に、あさみが焦りながら両手を押し出す。

「違うよ! 違うってば!」

「……」

 いつもと異なる様子のあさみに、調子が狂い普段どおりに接することができない桔平。

 こんなに取り乱したあさみの姿を見るのは初めてだった。

「違うよ……、違う……」

 何か後ろめたいものを感じ取ったのか、あさみがうつむく。

 その元気のない顔に、桔平はそれ以上何も言えなくなった。

 ふいに顔を上げ、あさみが笑いかける。

 それは桔平の知らない、感情のない微笑みだった。

「……。ごめんね、無理やりつき合わせちゃって。ありがと。楽しかった。……じゃ」

「待てって」

 背中を向けたあさみを、桔平が呼び止める。

 何の期待も示さない表情で振り返ったあさみに対し、桔平はバツが悪そうに顔をそむけてみせた。

「こんな中途半端な時間に放り出しやがって、今から俺に何しろってんだ。とりあえず責任とって今日はつき合えって」

「……」あさみが嬉しそうに笑う。心からの笑顔で。「しようがないなあ」

「どっちがだ」

「どっちもだよ」

「……んだ、そりゃ」

「あははは」

「ったくよ」

「ありがとね」

 その笑顔に心が吸い込まれていく。

「桔平君……」

『桔平さん!』


           *


『桔平さん! 返事をして!』

 夕季の声が聞こえ、トリップしかけていた記憶の底から桔平の心が呼び戻される。

 知らぬ間にフィードバックが強引に割り込んでいたのだ。

 それはそのまま身をゆだねれば、過去の記憶と現実を結ぶ境界線を崩壊させるほどのリアルさをともなっていた。まるでそれが今そこにあるかのような存在感を持つ、生々しい情報として。

 最近やけに過去の記憶が浮かび上がってきたわけもこれだったのかもしれないと、桔平が思い返す。

 弾かれたように前のめりになり、ディスプレイにしがみついた。

「夕季か!」

 連絡用のスイッチレベルを全開にし、食い入るようにスクリーンを確認する桔平。

 どうやら夕季は一連の現象には取り込まれていない様子だった。

 かすかな望みが、その呼びかけによって引き寄せられる。

「大丈夫か、おまえ!」

『うん……』小さく頷き、夕季が心配げに桔平を見上げた。『いったい、何が起こったの』

「わからん。が、それぞれ違うが、みな同じ類の幻覚を見ているようだ」悲しみに身をよじる、あさみや忍の姿をちらと見やった。「自分にとって大切な人間が苦しんでいるような幻覚を」

『……。お姉ちゃんは』

「母親らしき何かの姿が見えているようだ」

『お母さんの……』

「……」やや言いづらそうに桔平がトーンを落とす。「おまえ達のお袋さんは、どんな最期だったんだ」

 夕季が少しだけ顎を引く。だが必要な情報であることを認識していたため、躊躇することなくそれを口にした。

『交通事故で亡くなったって聞いた。お父さんも一緒に』

「そうか。おまえは、それを……」

『あたしはまだ小さかったから知らない。でもお姉ちゃんはきっと、お母さん達の最期の姿を見ているはず。生きていたのか亡くなってからなのかはわからないけれど』

「そうか……」桔平が考えにふける。「おまえ、今、何が見える」

『……』夕季が頭の中を整理し始める。そしてありのままを報告することにした。『いろいろな人の顔』

「死んだ人間のか」

『たぶん。でもそれが誰かは明確には答えられない。陵太郎さんやひかるさんのように見えることもあれば、昔少しだけ話したことのある近所のお爺さんやお婆さんのようにも見える時もある。見たことのない人の顔もたまにある。とにかく、それがごちゃごちゃになってて、見るたびに違ってる』

「そうか」

『……。桔平さんは』

「……」

 その問いかけに桔平は答えようとせず、難しい顔で思案し続けるだけだった。

 それを心配そうに眺め、夕季が最大の疑問を口にした。

『どうしてあたし達は……』

「わからん」桔平が口もとを引きしめる。「だが必ずオセは俺達にも仕掛けてくるはずだ。その時になっても、おまえは正気でいられる自信はあるか」

『わからない』

「俺もだ。正直、自信がない。だが、こうなってしまった以上、今はおまえだけが頼りだ。なんとか正気でい続けてくれ」

『……』桔平の顔を見つめ、夕季がうん、と頷く。『あたし、もう一度、光輔達に呼びかけてみる』

「おい、無理はするな」

『わかってる』

 夕季との通信を終え、桔平が深く長いため息を吐き出した。

 その目線の先には、忍やショーンを飛び越え、崩れ落ち泣き喚く、迷い子のようなあさみの姿があった。


 オセの姿をもう一度確認し、夕季は光輔らのもとへと降り立った。

 まるきり動きを止めてしまった二体の竜王は、オセの幻覚の前に心さえ奪われてしまったかのようだった。

「光輔、礼也」

 何度呼びかけても返事はない。

 それどころか、二人は悲痛な呻き声を発し続けていたのである。

『姉さん……』

「光輔……」

『お兄ちゃん……』

 雅の泣き声が聞こえ、夕季が耳を澄ます。

「みやちゃん」

 雅を呼び出す夕季。

 が、雅は応答すらすることなく、その何かに対し、涙まじりの謝罪をするだけだった。

『ごめん、お兄ちゃん……』

「みやちゃん……」心が後退しかけていた夕季が、気持ちを何とか立て直す。「みやちゃん、どうしたの。答えて。何があったの」

『お兄ちゃん、ごめんなさい。ごめん……』

「みやちゃん!」

『バカ野郎!』

 突然の礼也の叱責に、はっとなる夕季。

 幻覚から目が覚めたのかと、ほっとしかけた夕季の期待は、次の礼也の一言で無残にも打ち砕かれることとなった。

『あれが見えねえのか、てめえ!』

「……礼也」

『あんな、苦しんでんだろうが。陵太郎さんが』

「!」

『おまえには見えねえのかって!』

『お兄ちゃん、ごめんなさい。助けられなかった。ごめん……』

 気持ちを高ぶらせ泣き続ける雅と礼也の声を聞きながら、夕季は何も次の行動に移すことができなかった。

『姉さん、そんなに苦しいのか……』

 光輔へと振り返る夕季。

「光輔。ひかるさんなの! ひかるさんが見えるの?」

『……そうだよな、苦しいよな。でも俺には、何もしてやれない。ごめん、姉さん。俺のせいなのに……』

 話がまるで噛み合わない。

 光輔らの反応から推測するに、オセが作り出した幻影は、光輔に対してはひかるを、雅と礼也には陵太郎の姿を浮かび上がらせ、それぞれが見る者に苦しみを訴えかけているものと思われた。

 そしてそれを目の当りにしながらどうすることもできない光輔らが、彼らの苦しみを取り除けないことを嘆き、ひたすら謝罪し続けているのだと推測できた。

「しっかりして、光輔、礼也」不安に気後れせぬよう、夕季が口もとを引き締める。「そこには誰もいない。騙されないで」

『姉さん、苦しんでるだろうが! わからないのかよ! 俺のせいで苦しんでるんだよ!』

『ふざけんな、てめえ! あんなつらそうな陵太郎さんの姿、俺は見たことねえぞ! あんな苦しそうな顔で、俺のことを……』

 ぶれかけた心を精神力でつなぎとめる夕季。

「だからだよ。陵太郎さんやひかるさんが、そんなこと言うわけない。あの二人が、あたし達の前でそんな泣き言を言うわけない。目を覚まして、二人とも。それはオセが作り出した幻覚なの。ニセモノなの。あたし達の敵なんだよ!」

 しかし懸命の夕季の説得も虚しく、礼也と光輔の次の反応はいまだオセの手のひらの中にあった。

『もう死んじまってんだぞ。永遠に解放されない苦しみが、おまえには受け入れられるのか! おまえなんかにわかんのか! 絶対泣き入れねえって、おまえは言い切れんのか!』

『なんで平気でそんなこと言えるんだよ。おまえには人の心がないのかよ! 血がかよってないのかよ! なんで、そんなに冷酷になれるんだよ……』

「……」

 取りつく島もない二人の様子に、夕季が言葉を失う。

 それを、本部からうかがっていた桔平が支えようとした。

『夕季、しっかりしろ。おまえは間違っていない!』

「桔平さん……」

『諦めるな、おまえは正しい。冷酷なんかじゃない。おかしいのは他の奴らの方だ。自分を信じろ』

『はあ! トチ狂ってんじゃねえぞ、あんた!』

『おい、礼也』

『どいつもこいつも、どうかなっちまったのかよ! おかしいだろ。なんで、こんな簡単なことがわからねえ。こんなわかりきったことから、目をそむけようとすんだ……』

『礼也……』

 く、と奥歯を噛みしめ、夕季が一キロメートルほど先のオセの方を向く。

「桔平さん。あたしだけでもやってみる。プログラムと戦ってみる」

『夕季、慎重にだぞ』

「わかってる」

 オセを見据え、重々しく頷く夕季。

 ブレードをかまえ、切りかかろうとしたところを、礼也の陸竜王が立ち塞がった。

『行かせねえぞ、夕季』

「礼也……」

 礼也の起こしたアクションに、認めたくないものを夕季が飲み込む。

 それに対する行動は、もっとも容易に想像しうるものだった。

『てめえ、どうかしちまったんじゃねえのか。あれがプログラムだってのか。あんなせつねえもんが。あんなもんに斬りかかれるなんて、とても正気とは思えねえ』

「……」不安定な意識を払拭しきれず、夕季が唇を噛みしめる。「礼也、目を覚まして」

『目を覚ますのはてめえの方だ』

「しっかりして。あれは魔獣……」

『どっちが魔獣だ』

 目の据わった様子の礼也に、生唾を飲む夕季。

『てめえがどうにかなっちまったんだろ。プログラムにのっとられてよ。いや……』

 凶悪なるそのまなざしに、最悪のシナリオを予感して。

『てめえが、プログラムか!』

 はてしない憎悪とともに、陸竜王が怒りの色へと染まりつつあった。






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