第三十一話 『深い森の中で振り返った羊』 6. オセの恐怖
プログラム・オセは、夕刻と夜の闇間を縫うようにそこに現れた。
山凌市の中心街で、異次元への扉を開こうとするかのように。
周辺住民の避難はすでに完了しており、遠巻きに取り囲むメック隊が見守る中、高さ百メートルあまりの縦長の白もやを作り上げていた。
『あの煙が本体なのか』
「わからん」
現地からの映像を確認し、マイクスタンドをつかんだ桔平が木場へ応答する。
「まだ動きがないうちは、行動は控えてくれ。奴がどんな手を使ってくるのか、まるで読めん」
『実態獣なのか』
「それもわからん。現象も何も起こってないから、あのもやの中から、得体の知らない何かが出てきても不思議じゃない。礼也達に探らせるから、おまえらはバック・アップに専念してくれ。もし細かいのが出てきやがったら、そっちで何とかしてくれ」
『わかった。もしインプの類が現れたら、俺達で処理する。とりあえず、もう一度避難状況を確認してみる』
「ああ、頼む」目線を変えた。「夕季は」
『ここにいる』
「切りかえてくれ」
『了解だ』
木場が消え、ディスプレイの中に真剣な表情の夕季が現れる。
「夕季、オセを周囲から探ってみてくれ」
『了解』
「あまり近づくな。集束の判断はおまえらに任せるから、みっちゃんや礼也達と示し合わせとけ」
『了解』
応答が途切れ、スクリーンの中の空竜王が飛び立っていく。
「またノーモーションか……」組んだ両腕に被せるように、桔平が憤りを吐き出す。「もうカウンターの意味もねえな」
その時、桔平が何かを振り返った。
あさみの発した小さな吐息を感じ取ったからだった。
「どうかしたのか」
桔平の問いかけに、腕組みをしたままあさみが眉をひそめる。
「……たいしたことじゃないわ」
あさみの顔を桔平がじっと見つめる。
それを受け、あさみが確信のない事実を口にした。
「……。なんとなく、誰かに呼ばれたような気がしたから……」
「……」
桔平が畏怖のまなざしであさみを眺める。
その不安は、次の忍の一言で確定的となった。
「……私もです」
桔平とあさみが同時に振り返る。
受け止めた忍と同じ表情で。
「僕も……」
ショーンの呟きは、もはや桔平の耳には届かなかった。
闇夜を切り裂き、空竜王が疾駆する。
プログラム発動中は街中至る場所から光が消える。二次災害に備え、必要な場所以外の電力供給をストップさせるからである。
常日頃は煌々と光り輝く街の灯りがぷっつりと無くなるのは壮観でもあった。
光がなければこれほどまでに広い世界が見通せるのだと。
オセの気配を意識しつつ夕季が海の彼方へと視線を向けると、遠くに懐中電灯のような灯台と船の灯りがかすかに見えた。
避難区域から外れた隣接の市街も淡く光りを放つ。
それはまるで現世から放り出されてしまったような違和感を夕季にもたらした。
『どんな感じだって』
礼也に問われ、任務を遂行すべく夕季が現実と向かい合った。
「よくわからない。白っぽい煙か霧みたい」
『大きさはどれくらいなの』
光輔の横入りにちらと目線を向ける。
「高さは百から百五十メートルくらい。幅は一番広いところで五十メートルくらい。横から見ても同じ。反対側は見通せない」
『一発、飛び込んでみるか』
「やめた方がいいかも」
『はあ!』
『異次元に飛ばされちゃったりしてね』
『んなバカなことが!……』何気なく発した光輔に、礼也がキッとなって振り返る。『……ありそうだな、よく』
「不用意な行動は控えた方がいい。相手が動かないなら、こちらが焦る必要もない」
夕季からの進言に複雑な表情で二人が頷く。
夕季がほっと一息ついた時にそれは起きた。
巨大な白い霧の中から、人の形が浮かび上がったのである。
「!」
危険を察知した猫のように飛び退き、夕季が他の二人へと振り返った。
「光輔、礼也!」
二人からの応答はない
何らかの事情があったものと憂慮し、周囲を目まぐるしく見回す夕季。
すると白霧の中の人影が、全長百メートルの人間の姿に変わりつつあった。
どこか見覚えのある面影のその顔に。
「これは……」
『あ、ああ……』
上ずった光輔の声に、夕季が反応する。
「光輔!」
『……んだ、こりゃ……』
次は礼也の声だった。
二人は地上で竜王を完全に制止させ、ただ呻くように声を発するだけだった。
「光輔、礼也、どうしたの!」
『……ぃちゃん』
「!」
別の声に夕季が、はっとなる。
それは涙をまじえた雅の悲痛な呻き声だった。
『お兄ちゃん……』
「どうした!」
異変を感じ取った桔平が、司令室特設スペースでマイクを握りしめ声を張り上げた。
「何があった! おい、返事をしろ!」
『お兄ちゃん……』
雅の声が聞こえ、スクリーンを切り替える。
御神体の中の雅は、怯えるような顔で一心に前だけを見つめていた。
白霧状態のオセの姿が映り込む、その画面に向けて。
「おい、みっちゃん、どうした! 何があった! 陵太郎がどうかしたのか!」
『なんで、こんな……』
次に聞こえてきたのは、光輔の震える声だった。
『姉さん……、どうして……』
「おい、光輔! おまえまで、どうした!」ちっ、と舌打ちし、スイッチを切りかえる。「夕季、礼也、聞こえるか。光輔とみっちゃんが変だ。何か……」
『なんでだ……』
「……」桔平が言葉を失う。礼也の放心したような呟きを聞き。
『なんでなんだ! なんで、陵太郎さんが、ここに!』
「!」カッと目を見開いた。何故ならスクリーンに映るオセの姿は、人型ではあれど桔平にはただの白いもやでしかなかったのだから。「……何が、いったい……」
「そんな……」
信じがたいものを見るような表情で桔平が振り返る。
その視線の先で忍が口に手を当て、のけぞるように涙声を震わせていた。
「……おかあさん」
「!」
咄嗟にショーンへ振り返る桔平。
そこで桔平は見た。
感極まり涙を流して天を仰ぐショーンの姿を。
「……パパ」
く、と歯がみし、桔平があさみを返り見る。
そしてまたもや言葉を失うこととなった。
悲痛な表情で自分を抱きしめるように泣きじゃくるあさみの姿を目の当りにして。
「……兄、さん……」
「あさみ……」
何が起こったのか夕季にはわけがわからなかった。
オセの姿を目にした途端、突然雅を含む三人が、陵太郎やひかるの名を口にして動きを止めてしまったのだから。
「桔平さん」
桔平に助けを求めようとするも、司令室からは何の反応も得られなかった。
通信障害の可能性も考慮し、現場の責任者である木場との連絡を試みる。
が、返ってきた答えは、夕季の想像を絶するものだった。
『杏子……、杏子……』
「!」
木場のすすり泣く声がスピーカーから伝わってくる。
まるで目の前に死んだはずの実の妹が現れたかのように。
「……これは」
『姉さん……』
「!」はっ、と我に返り、夕季が口もとを引きしめた。「光輔、どうしたの。何があったの」
『てめえこそ、何言ってやがる』
押し殺した礼也の声に、眉をひそめる夕季。
『あれが見えねえのかよ!』怒りさえこもる声。『あんな、陵太郎さんが苦しんでんだぞ……』
「……」
桔平の顔には焦りの色が浮き上がっていた。
自分を除く周辺の仲間達の精神状態が、のきなみ崩壊してしまったためである。
ショーンはともかく、精神面で頼りになると思われた忍やあさみまでが、存在しえない人間の名前を呼びながら虚ろな目を泳がせ続ける。
雅や光輔らも同じ状態であることから、集束は難しいと判断し、次なる一手を模索すべく奔走しようとする桔平。
対応に窮し、意見を求めようとした木場も同じ状態であることを知り、八方塞となった。
木場だけでなく、その場でオセを目撃した隊員達すべてが、何らかの幻影を見て同じリアクションを取っているようだった。
それぞれが口にする名前を元に、桔平が不確定な仮説を打ち立てる。
それは、見る者により幻覚の対象がすべて異なり、それらはおそらくその者にとって、失われてしまったかけがえのない人間であるということらしかった。
光輔にとってのひかる、雅や礼也の陵太郎、木場の妹、忍の母親、そしてあさみの大切な人間がその兄であることからだった。
それはコントロール・センターに従事する職員達にしても同じらしく、皆一様に己とゆかりのある者の名を口にしながら、人格を浮遊させていたのである。
しかし何故、と桔平が首を捻る。
何故自分にはそれが起こらないのだと。
先の仮定が正しければオセを見た者達は、一様に自分にとって無視できない人間の姿を幻覚として見せられる。そしてその反応から、死した家族が苦しみ悶える姿だと推察できた。
それが桔平には見えてこない。
不用意に見てしまえば最後だと慎重になる以前に、すでに桔平はそれを目にしているはずなのにである。
その時のオセの姿は、人の形をしていながらぼやけて何者だか判別できないものだった。
もし自分に関係のある人物で、かつトラウマを引き起こす人選があるのだとすれば、思い当たる名前はいくつもあった。
陵太郎でもあれば、幼い頃に死に別れた父でもいいはずだ。職業柄、人の死に接する機会も決して少なくはない。だが、同僚、先輩、世話になった恩師、そのどれもが桔平の目の前には現れてこなかったのである。
何かトリガーがあるはずなのに、そのシステムがわからず、焦りばかりが積み重なっていった。
く、と奥歯を噛みしめ、桔平がスクリーンに向き直る。
何があったのか理解することができず、混乱する頭を制御できないまま、ただ白い霧の塊を眺め続けるだけだった。
やがてそれが形を整え、桔平の視界の中で一人の人間の姿へと変貌していった。
「なんだ、これは……」
顔をゆがめ、桔平が絶句する。
それは喉もとを押さえ苦しげに喘ぐ、少女の頃の進藤あさみの姿そのものだった。




