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第三十一話 『深い森の中で振り返った羊』 5. 呼びかけ

 


 その日の礼也の登校時刻は、二時限目が過ぎた後の放課中だった。

 ガッツリ寝坊をし、ボサボサの頭のまま自分の席へどっかと腰を下ろす。

 大あくびをかましたその目の前に、ふいに大きな紙袋が差し出された。

「?」

 見上げれば、フレールの紙袋を礼也の机の上に置き、そそくさと立ち去ろうとする楓の背中があった。

「おい、待て」

 ギクリとなり、立ち止まる楓。

 礼也は楓の方を見ることなく、フレールの紙袋をごそごそとさばくり始めた。

「なんだ、こりゃ?」袋の中から新作マンゴー・メロンパンを二つほど取り出す。それからぶすっと表情を豹変させた。「俺を毒殺しようってハラか」

「……入ってないわよ、毒なんて」

「んじゃ、うまい死にでもさせる気か」

「……。?」考えるだけ無駄だと気づき、眉間に皺を寄せた。「わけわかんないし!」

「だから、何怒ってやがんだ、てめえは」

 するとバツが悪そうに楓がもじもじし始める。

 明確な理由を提示できるはずもなく、小声をやっとしぼり出した。

「……私より先に新作食べたから」

「なんだそりゃ!」

 ビクッと肩をすくませ、すぐに楓が両拳を握りしめた。

「だから、悪かったと思ってるから!」

「おい、こら、全然誠意が伝わってこねえぞ」

「……」

 くるりと楓が振り返る。

 その顔は今にも崩れ落ちそうなほど脆いものだった。

「もういい。それ返して」

 すすり上げるように涙を飲み込んで袋をつかみ取ろうと手を出した楓に対し、礼也が大事なものを守るようにがっちりガードを固めた。

「バカ、一度もらったモン返せるかって。しかも新作なのに!」

「……」怒り気味の礼也の顔を切なげに見つめ、楓が口を結ぶ。「……やめた方がいい?」

「何を」

「嫌いなんだよね。……名前で呼ばれるの」

「はあ?」ポカンと礼也が見つめ返した。「ふざけんなって、バーカ!」

 急激に沸騰し出した礼也に、楓が泣きそうな顔のまま後退した。

「……何。どうして怒るの……」

「てめえがバカだからだ、バーカ!」

「何よ……」

「だからふざけんなって、バーカ!」

「……何」

「ああ! バーカ! この、バーカ!」

「の……」

「ほんとにバカだな。もう、諦めて死ね!」

「死ねってどういうこと!」

「あ、切れやがった……」

「諦めて死ねって、おかしいじゃない! 諦めるって!」

「いや、今のは悪かったって……」

 目尻に涙を浮かべ、楓が口をつぐむ。心持ち、ほっと安心したような表情で。

「……。……ねえ」むずむずと口もとを結び、小さな声をしぼり出した。「写真、撮ってもいい?」

「はあ?」

 一歩後退し、顎を引く。それから上ずる声をからしながら、楓が次の言葉を何とか押し出した。

「……お、とうと達が、着信の待ち受けにしたいからって」

「は?」

「……」

「……」

「……」

 特に深い意味もなく、ふうむと考えをめぐらせる礼也。

 その様子を楓はいたたまれない心境で見守っていた。

「んじゃ、てめえらのもよこせ」

「!」思わず心臓が爆発しかけた。「……いいけど」

「んでもって、俺のケータイにもセットしとけ」

「……いいですけど」

 ほっと一息つくようにへなへなになる楓の姿を、礼也は不思議そうに眺めていた。

 ふいに礼也が振り返る。

「……どうしたの」

「……。いや……」

 誰かに呼ばれたような気がしていた。


 夕刻のメック・トルーパーの事務所で、修学旅行から帰ってきた光輔と桔平が談笑していた。

 光輔のホカホカの体験談に対し、桔平の、俺の時はこうだった談義の繰り返しだったのだが。

「でな、私立金剛力高校とかいうゴツい名前の高校が同じ旅館だったんで、全国進出がてら攻めてってやったらよ、すげえお嬢様学校で、なんか盛り上がっちゃって即席コンパとかしちゃってよ、んで俺らは帰ってからこっぴどく叱られてまとめてつるつるボウズよ」

「あっははは。すごいっすね」ふっ、と表情を曇らせた。「楽しかったのにな。夕季、なんで修学旅行こなかったんだろ。そんなに体調悪そうには見えなかったんだけどな。クラス全員で旅行なんて、この先もう二度とないのにさ」

「なんだ、まだ聞いてなかったのか」

「何がすか」

 桔平が、えっ? という顔を向けると、光輔も、えっ? という顔で見つめ返した。

 その天然丸出し加減に、さしもの桔平も苦笑いせざるをえなかった。

「おまえはホントにダメダメ王子だな」

「なんすか、それ。……でも一応、王子なんすね」

「勘違いすんな、褒め言葉じゃねえ。鼻毛大臣で言うところの大臣みたいな役職だと思っとけ」

「それ、もっとわかんないんすけど……」

 ふ~ん、と息をつき、桔平が少しだけ考えるそぶりをする。

 まあいいか、という様子で真相を打ち明け始めた。

「言うなって言われてたんだが、もう終わっちまったからいいだろ。なんだかあいつが不憫だしな」

「何がすか。あいつ? 夕季のことすか」

「おまえには言ってなかったが、事前に上層部からのおうかがいがあってな。もし何かあった時に、オビィが二人もメガルから離れてちゃマズいだろってことになったらしい。礼也の時はもともとあいつも行く気がなかったし、おまえらが揃って遠方に出かけてくケースも今までなかったしな。んで、おまえか夕季かどっちかは残らせろって、あさみの奴が言ってきたわけだ」

「……そんなの、俺、聞いてないすよ」

「おう。先に夕季に話を持ってったら、即答で、自分が残るって答えたからな」

「なんで教えてくれなかったんすか」

「もう決まったんなら、それ以上言う必要もないかと思ってな。それに、あいつもおまえには言うなって条件出してきたしな。だから、俺がここで言ったことは内緒だ。聞かなかったことだぞ」

「……」桔平の念押しも耳に届かず、ぐむむむ、と光輔が口もとを結ぶ。「教えてくれればよかったのに。あいつ、またそんな……」

「あいつが行くのをやめるって聞いて、おまえは修学旅行を楽しめたのか?」

 もっともな桔平の説明に、光輔が、はっとなって顔を向ける。

「……それは。でも……」

「んでもって、もしおまえが行かないって言ったら、あいつならどうすると思う」

「……。やめるって言うかも」

 そうか、と考え込む光輔を眺め、桔平もニヤッと笑ってみせた。

「面倒だったから口実ができてちょうどよかった、とか言い訳してやがったけどな。どうせ照れ隠しだろ。悪い奴じゃないんだが、根がヒネくれてやがるからな。そういうのはおまえの方がよくわかってるだろ。とりあえず知らなかったことにしとけよ。でないと、ほんとにダメダメ王子だぞ、おまえ」

「……はあ」


 帰りしな、光輔と夕季が鉢合わせする。

 慌てて光輔がみんなからのお土産を差し出すと、夕季は笑ってそれを受け取った。

「ありがとう」

「あ、うん……」

「……。楽しかった?」

「あ、ああ……」思いどおりに言葉が出てこない。

 それを夕季は不思議そうに眺めていた。

「……俺ってほんと、ダメダメ王子様かも」

「王子様?」

「いやいや……」

 すう~っと深呼吸し、光輔が不甲斐ない自分に気合を入れた。

「みんなさ、おまえがいないの、残念がってた。篠原と茂樹は特に。あ、小川も」

「……そう」

「だからさ、またみんなでどっか遊びに行こうよ」

「……いいけど」

「よし、決定な!」

「……。どうしたの」

「いや、なんでもない」

 妙なテンションだったと、光輔が自制する。

 取り繕うように笑うその顔を、夕季は不思議そうに眺め続けていた。

「!」

 ふいに後ろを振り返る光輔。

 それから首を傾げてもとへ戻ったのを見て、夕季がまた不思議そうに眺めた。

「どうしたの」

「いや……」腑に落ちない様子で光輔が眉を寄せた。「今、誰かに呼ばれたような気がしたんだけど……」


 休憩所で一人喫煙をする桔平の姿があった。

 何を考えるでもなく、ぼう~っと煙を吐き出す。

 いつしか遠い過去の記憶をひとりでにたぐり寄せ始めていた。


           *


 桜の花びらが舞い落ちる並木道を、桔平とあさみは並んで歩いていた。

 はしゃぎ気味で先行していくあさみに対し、桔平はと言えば浮かぬ顔を川面に向ける。

 二人の制服の胸には祝い用の花飾りがあり、手には卒業証書の詰め込まれた筒が無造作に握られていた。

 突然くるりと振り返り、あさみが笑顔を振りまく。

「卒業しちゃったね」

「……おお」

 さばさばとした様子のあさみをあらためて眺め、桔平のテンションがさらに下降する。

 その理由を桔平は漠然とではあるものの、確実な答えとして受け止めていた。

「学校違っちゃうと、今までみたいにはいかなくなるね」

 わざわざ口にするまでもないそれを、あさみが形にする。

「早起き苦手なんだけどなあ」

 春からあさみは、一時間以上も電車を乗り継ぎ、県下でも有数の進学校に通うことになっていた。

 対して桔平はと言えば、地元の三流高校に滑り込むのがやっとだった。

 もともと頭の出来がかなり隔たっていたこともあり、その結果は極めて妥当というところなのだが、生活環境がガラリと変わることで、接点を維持し続けるのも困難だと思われた。

「朝はゼロ時限目があって、午後は七時限までだって。でもって宿題どっちゃりで、土曜日とかも補修らしいよ。夏休みなんてあってないようなものだって。特待生だと部活も読書部に名前入れてるだけって話だし、勉強地獄だよ、まったく」恐ろしいことを平然とあさみが口にする。「他の遠距離の子、みんな寮に入るみたい。電車通学、あたしだけだよ、たぶん。ああ、毎日ずたぼろになる予感」

 証書入れを桔平がぎゅっと握りしめる。

 その決意とともに。

「おまえも寮に入った方がいいんじゃないのか」

「ええ~」桔平の気遣いに露骨に顔をゆがめるあさみ。「嫌ですがな」

「……ってよ、つらいだろ、実際」

「そんなことしたら、毎日会えなくなるじゃんか」

「……」

 言葉に芯がないのもしごく当然だった。桔平にとっては、あさみの足を引っ張らないための最低限の気配りのつもりだったからである。

 そしてそれを瞬時に否定されようなどとは、桔平は思いもしなかった。

「わ~、キレイだね。見て見て、桔平君」

 言葉をなくす桔平を置き去りにし、水面に舞う桜の花びらを楽しそうに眺めるあさみ。

 桔平はその濁りのない横顔をただ見つめるだけだった。

「ねえ、聞いてる?」

 振り返るあさみ。

 水面に反射する光に射し込まれ、その顔をまともに見ることができなかった。

『ねえ、桔平君……』


           *


 その時、誰かに呼ばれたような気がして、桔平が表情を一変させた。

 振り返っても誰もいない。

 だが桔平には確かに聞こえていた。

 数日前から、聞き覚えのある声が、自分の名を呼び続けるのを。

『……ぺいくん、きっぺいくん……』


 突然深い闇の中に現れたそのプログラムは、思わぬ形で抗う彼らの弱点を浮き彫りにさせることとなった。






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