第三十一話 『深い森の中で振り返った羊』 4. なくしたもの
その日夕季は、職員室に顔を出した後で一人図書室へと向かった。
修学旅行に参加しなかった生徒は図書室での自習を告げられていたからである。
もともと予定のある不参加という形なのでメガルで時間を潰していてもよかったのだが、出席日数の調整もあって、なるべく出席してほしいとの担任からの要請があったため、顔を出すことにしたのである。
図書室の扉を開けて中に入った途端、ピクンと反応して足を止める。
先客が夕季の方を向いて出迎えたからだった。
他に欠席者がいることも聞かされていなかったため、夕季は完全に無防備状態だった。
気を抜いていた場面を見られたことのばつの悪さから、やや気まずそうな面持ちで、キョトンと見つめるその女生徒から一番離れた席へと夕季が腰を下ろす。
同じ学年かすらもわからなかったが、とりあえず持ち前の人見知りスキル発動中もあってか、あえて視界を狭めてバッグの中の用具を取り出すことに神経を集中させた。
「あなた、バトルガールの人?」
先よりもビクッと身体をすくませ、反射的に夕季が振り返る。
その声の主を確認し、さらに脊髄を反応させた。
妙に声が近いと感じたのも当然、彼女は夕季のすぐ背後から声をかけていたのだった。
思わず夕季が顔を引きつらせてのけぞる。
いくら気を抜いていたからは言え、まるで気配に気づかなかったからだ。
そういった戸惑いを隠せないでいる夕季に、殺気や悪意からは程遠い表情をした彼女がにっこりと笑いかけてきた。
「あ~、やっぱりそうだ。髪の毛切ってたから、一瞬わからなかった」
こめかみを引くつかせ、夕季がただ彼女の笑顔に注目する。
それを楽しそうに眺め、彼女はさらなる笑顔で夕季を包み込もうとした。
「あなた、古閑さんでしょ。ごめんなさい、突然。学校新聞で見てたから、知ってる人みたいな気がしちゃって、つい話しかけちゃった。私、A組に転校してきた、水杜茜っていうの」
「みなもり、さん……」
「うん、そう」
そう言って屈託なく笑った茜に、夕季が少しだけ警戒を解いた。
「隣に座ってもいい」
「……いいけど」
首を傾けながら笑いかける茜に、やや押される形で夕季が頷く。
すると嬉しそうに茜は夕季の隣に腰掛けてきた。
よくよく見れば、制服も指定の物とは違っていた。
その視線に気がつき、茜が疑問を先取りしてみせる。
「制服、手違いでまだできていないから前の学校のやつ。転校してきて二週間近く経ってるんだけどね。修学旅行も参加しろって言われてたんだけど断った。早くクラスに慣れるためにも行った方がいいって先生は言ってくれてたんだけど、転校前だったし、知ってる人いないのが不安だったからパスしたんだ。クラスのみんなとはすぐに仲良くなったから、実は今になって後悔しちゃってるんだけどね。欠席者、私一人だけだと思ってたんだけど、古閑さんもだったんだね」
まばたきもせずに茜の顔に注目し、夕季が小さく頷く。
「よかった、仲間がいて。やっぱり一人で何日もこんなところにいたら、ちょっとブルー入ってきてさ。あと二日だって思って何とかしのごうと気合入れてたところなんだけど、ちょっとだけほっとした。新聞で古閑さんのこと読んで、どんな人だろうって思ってたんだよ。ずっと成績一番なのに、選抜クラスにもいなかったし。私も体育大会、見たかったなあ。私、運動神経切れかかってるから、そういう人って憧れちゃう。想像してた感じに近くてよかった。その髪型も似合ってるね。かっこいいと思うよ。あ、雨、夕方までもつかな。一応傘持ってきたけど」
「……」
「古閑さん、どうして修学旅行に行かなかったの」
「……別に」
「別にかあ」はははっと笑って、茜が席を立つ。「ごめん、うざかったね。一人で喋ってるし。私、あっち行くね」
わずかに顎を引き、夕季が申し訳なさそうな顔になる。茜から顔をそむけ、ぼそりと声を出した。
「ごめんなさい。そういうつもりじゃ……」
するとまた首を傾けながら茜が笑いかけてきた。
「隣に座ってもいい? なるべく静かにしてるから。何も話さないで同じ部屋にいるのも息苦しいし」
そろりと顔を向け、夕季が小さく頷いた。
横目でちらと夕季を眺め、茜が嬉しそうに笑った。
きゃっきゃとまとわりつく女子達に愛想笑いを返し、礼也が横を向く。
すると二列向こうの席に楓の後ろ姿を認めた。
頬杖をつき、風に揺れる髪を晒しながら、雲の立ちこめた窓の外を眺める淋しそうな背中を。
「礼也君」
一人が無造作にそう呼んだのを聞き、礼也がジロリと顔を向ける。
「……。名前呼びとかやめてくんねえかな」
「いいじゃん。礼也君、礼也君」
「マジやめとけって」
その迫力に、忘れていた本来の姿を思い出す。
「……ごめん」
「……。わりいけど……」
表情もなく、礼也が横を向いた。
「なんだって?」
あきれた様子の桔平を、夕季が真顔で見つめる。
「お土産にこけし買ってくって」
「なんだ、あのヤローもセンスねえなあ」目を閉じて腕組みをし、は~あ、と首を振った。「あんなにチョウチンにしとけって言っといたのによ」
「……どういうこと」
「チョウチンなら万人に喜ばれるはずだからな」
「どうして」
何とはなしに事情が飲み込めてきた夕季に、キッとなって桔平が食らいついた。
「どうしてって、そりゃ、コレクターズ・アイテムの最高峰だからに決まってんじゃねえか」
「そんなの集めてる人、見たことない」
「マジか、てめえ」再びあきれたように夕季を眺め、それから自慢気に鼻を高くして胸を張った。「今度俺の部屋に来い。とっときのスペシャル・ラインナップ見せてやる。東海道シリーズのフル装備は圧巻だぞ」
「……」ここにきて、すべての真実にたどりつく。「ひょっとして、木場さんって木刀……」
「おお、集めてやがんだ。笑っちまうだろ。趣味悪! ちなみに一番のお気に入りは、八丁味噌、って書いてあるやつだ! 決めポーズの写真もあるぞ。今度見せてやる。あ、いかん、もうこんな時間か。雨が降り出す前にドラやんに送るモナカ買いにいかねえと。なんかザザザザってきそうだな。おまえも行くか?」
「……」
表情をなくした夕季を、桔平が不思議そうに眺めた。
「ん? どうした?」
「お願いだから巻き込まないで」
「?」
連絡通路で夕季が足を止める。
向かい側からあさみがやって来たのに気づいたからだった。
周囲の輩はあさみの姿を認めると怯えたように直立し、会釈の後そそくさと遠ざかっていく。
それも致し方のないことだった。
若くはあったが、あさみは自分達が属する組織の実質的なトップなのだから。
普段一般職員が従事するフロアへ足を踏み入れることもほとんどなかったため、夕季がこの場所であさみを見かけたのは初めてのことだった。
もともとほとんど接点もないため、ろくに話をした記憶すらない。
正直、あまりいい印象を持ってはいなかったが、綾音が大事にしている人物だからと、履き違えないようにだけは常に意識していた。
案の定、面と向かい合っても、何も話題が思い浮かばなかった。
あさみの斜め向かいで夕季がお辞儀をする。
するとあさみの反応が少しだけ変わった。
それまでの作り笑顔に素っ気無い対応ではなく、表情を落として夕季と対したのである。
「髪、切ったのね」
夕季が顔を上げる。
はからずも、同じ髪型の二人が向かい合うこととなった。
その空虚な瞳の奥に、夕季の視線が吸い込まれていく。
あさみが何を考えているのか、見当もつかなかった。
それに気がついたのか、あさみはまた、ふっと笑って、その場を後にした。
「おう」
背中で木場の声がして、夕季が我に返る。
振り向くと、木場とあさみが挨拶を交わしているのが見えた。
「頼んだわよ」
「おお、了解した。まったく、どうしようもない奴だな」
「ええ、ほんとにね」
あさみとのやり取りを終え、じっと見つめている夕季に気づき、木場がその足を止めた。
「……。びっくりするだろ……」
「……」
「……さすがに二人並べるとまるで違うな」
「……」
「そうだ。おまえ、桔平を見なかったか。大事な会議をまたすっぽかしたらしい。いつもの定例会議ではなく、偉い方を招いての報告会も兼ねていたから、さすがに進藤もカンカンだ」
「……」
夕季からのリアクションがないことに木場は不安になった。
「……どうした。今度は間違えなかっただろ」
「……。モナカを……」
「モナカ!」
「……なんでもない」物憂げに夕季が後ろへと振り返る。「……。あの人って……」
「?」その見えざるまなざしの先にあさみがいることに、木場が気づいた。「進藤局長のことか」
木場の顔を見つめ、夕季がこくんと頷いた。
「何を考えているんだろうって思って。あまり笑わないし」
小さく息をつき、木場が窓の外へ目をやる。
今にも雨が降り出しそうな曇天の空が、木場の重い心を押し上げた。
「あれでも昔はよく笑ったんだがな。むしろ知り合ったばかりの頃は、俺も桔平も進藤の笑顔以外を見たことがなかった。身内の葬式の時ですら、参列した俺達に笑ってみせたくらいだ」
「……」それ以上踏み込むべきか否か躊躇し、夕季がぐっと顎を引く。「……それなのに、どうして」
「それだけのことがあった」
振り返りはしない。
だが夕季には見えていた。かすかに木場の表情が曇ったことが。
「……もし身近な人間が、たとえばみっちゃんがあんなふうになったとしたら、おまえならばどうする」
夕季が、はっ、となる。
言うべきか否かを迷い、しぼり出した木場のその一言で、夕季はすべてが理解できたような気がしていた。
「俺も桔平も、彼女の苦しみを知っている。心が痛むほどわかっている。だから俺達はあいつを見捨てることができない。おそらく綾音もそうだ」
淡々とそう告げ、窓の外を眺め続ける。
「あいつの本当の笑顔を知っている人間はみな……」
景色を暗く染めた視線の先で、突然訪れた土砂降りの雨が、突き刺すように地面に叩きつけられていた。




