第三十一話 『深い森の中で振り返った羊』 OP
「おまえ、俺が怖くないのかよ」
夕暮れ時の下校途中で、凶悪な人相の桔平が振り返る。
その視線の先には、不思議そうな表情で見つめるあさみの顔があった。
「ないよ、ぜんぜん。なんで?」
「……」
「あ、ひょっとして、怖がらせてたの? ひゃ~、後から怖い!」
「……てめえ」
「あっははは」いかにもおかしいといった様子で、目尻の涙を指で拭う。「怖がらなくちゃいけなかった?」
「……」むぐ、と口をつぐむ桔平。それからあさみから顔をそむけて、もごもごと己を吐き出し始めた。「なれあいなんざ、くそくらえだ。俺はこの世界中の人間すべてを屈服させてやる。気に入らない奴、全部だ」
「あたしも?」
そのきょとんとした様子に調子を崩されながらも、中学生の桔平がむっとする。
「人間なんざみんな同じだ。どいつもこいつも勝手な奴ばっかで、生きる意味も守る価値もねえ」
「好きな人も?」
「……んなもん、いねえよ」
「好きな人が一人もいないのに生きていけるの?」
「……関係ねえよ」
桔平が口ごもる。
その心情を見透かすように、あさみが笑った。
「嘘だね。好きな人がいるからみんな笑えるんだよ」
「うざってえこと言ってんじゃねえ」
「本当だよ。あたしはそうだもん。きっと気がついていないだけだよ。桔平君にも好きな人がいるはずだよ」
「……そんなはずねえ」
「自分が一番好きだったりもするかもね。それもありかな。あっははは」
おもしろそうにあさみが笑う。
夕陽に染まるその笑顔が、桔平にはひたすら眩しかった。
*
ふいに誰かに呼ばれたような気がして桔平が振り返る。
が、そこには誰もおらず、ただ夕陽に染まる海面が波打っているだけだった。
小さなため息をもらし、司令室で部下達に指示を出すあさみの姿を、桔平が目で追う。
時折り彼方へ目を向けるその顔に表情はなかった。
夕陽に焼かれ、まるで本当の笑顔を忘れてしまったかのように。




