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第三十九話 『ゴルディアスの結び目』 8. 湖邨界

 


 控え室で明かりも点さずに界は考えにふけっていた。

 高層ホテルの最上階から夜の街を見下ろす。

 そこにはほんの数時間前までのような陽気さはかけらも見られなかった。

「まるで、かー君が一人ぼっちだとでも言いたそうな口ぶりだったね」

 部屋の入り口から声をかけられても界は振り返らない。

 それでもその声の主が茜だということはわかっていた。

「ゲームだって。するわけないでしょ、そんなヒマなんてないのに。ちょっと話しかけてもらったからって、自分とかー君が一緒だと勘違いしちゃったみたい」

「その呼び方はやめろ、茜」

 冷たい物言いに、茜がわずかに顎を引く。

「ごめんなさい。……。何故彼女に声をかけたの。誘う気なんてなかったくせに」

 すると界のまとった雰囲気がすうっと軟化した。

「茜が興味を持った人間だからな。この目で確かめておきたいと思った。おまえが言うとおり誘う気だってなかったのに、本人を目の前にしたらつい。どうしてだか自分でもわからない」

「……」

「君らしくもないね」

 別の声にピクリと眉をうごめかせる界。その反応は茜の時とは明らかに違うものだった。

「来ていたのか、航」

 戸惑い振り返る界を、声の主が満面の笑みで迎え入れる。

 界にわたると呼ばれたその笑顔の主こそ、いつか光輔と河原で会話を交わしたあの人物だった。

 常に笑みを絶やさずに相手と接するその人物、島津航は、線のようなまなざしと微笑で界の前に立つ。

 しかし、その表情とは裏腹に、航は憮然とした口調で界を問い詰め出したのだった。

「何故彼女に惹かれた。一体彼女に何を求めようとした」

 航に一瞥をくれ、界が再び夜の世界を見下ろし始める。

「或いは、と思った。俺達にないものを彼女が持ちうるのならば、欠けていた何かを補えるのかも知れないと。でもそんなものは何もなかった。ただの勘違いだった。話しているうちに、みるみる熱が冷めていく自分に気がついた。誘いを断ってくれた時、内心ほっとした。彼女に幻滅しながらも笑顔を崩さずにいることが苦痛でしかなかった。まだ自分にもこんな感情があったんだなって思えるほどに。彼らがこの先に残せるものは何もない。幼稚園のお遊戯会のような茶番劇が幕を閉じれば、その後エントリーすら許されずに消えていくだろう。所詮はそれだけの輩だ。彼らの思考は普遍でしかない。いくらあがいても優秀な歯車どまりだ」

「本当にそうか。むしろその線引きこそが、凡人の思考そのものじゃないのか」

「どういう意味だ、航」

 その表情は珍しく感情にまみれていた。

 そんな界の心情を見抜いてか、穏やかな笑顔を崩すことなく、航は両手を差し出しながら全面降伏をしてみせた。

「そんなつもりはなかったんだ。自分の対戦相手より、他人のマッチアップの方が気になっているのかなって思ってね。結果は決まっているのに」

「私達が負けるはずない」

 界を見つめたまま、茜が呟く。

 その横顔をまじまじと眺め、航が小さく息をついた。

 茜の表情は山凌高校で光輔達と接した頃とはまるで異なる、刺々しいものだった。

 それですら穏やかに受け止め、航は嬉しそうに茜に笑いかけた。

「何か得られるものはあったかい、みなちゃん」

「いいえ」

 表情を揺らすこともなく平坦に切り捨てる茜。

 その存在を航は満面の笑みでつつみ込んだ。

「彼女にできることは、君ならすべてできる。だが彼女には、君にできることのすべてができるわけではない」

「ええ」無表情に遠くを見つめる。「わかってる」

 それを当然とすることに何のためらいも見せずに。

「そのわりに、やけに彼女にこだわるね」

「……なんだかムカつくから」

「何か嫌なことでもあったの」

「少し……。そっちは」

「うん」茜に問われ、航が微妙に目を細める。「普通の子だったよ」

「……」

 期待どおりの返答にがっかりしたような素振りをしてみせた茜に、航が付け加えた。

「普通すぎて不思議だった」

「不思議……」

 わずかに興味を示し、茜が目線だけを差し向けた。

 そのリアクションに航が満足げに笑う。

「はっきり言って取るに足らない人間だった。特に印象に残るようなことも言わなかったしね。誰かを比較に出すのもどうかってくらい普通だった。どこにでもいるような普通の高校生。なのに、どうしてかわからないけれど、彼を認めてしまいたくなった。みなちゃんも会ってるだろ。穂村光輔君とは」

「ええ」

「どんなふうに思った」

「どうって……」茜が口ごもる。そこから航を満足させるような内容は到底導き出せそうになかった。「普通としか」

「ちっとも普通じゃないのにね」

「……」

「彼がしていることはどう考えても普通じゃない。誰にもできないことをしていて、普通でいられるはずがないはずなのに、自然体のまま、当たり前のようにずっと普通でいる。誰が見ても普通なんだ。それってすごいことなんじゃないかな。みなちゃんならわかるだろ。それがどれだけ難しいことか」

「……」

 航が言わんとすることを薄々感じ取る茜。

 それを察し、航は揺るぐことのない確信をあえて仲間の前で晒すのだった。

「理由はわからないけれど、何故だか、何をしてもかなわないんじゃないかって気がした。上からの目線とは違う、同類嫌悪みたいな感覚かな。ずっと一緒にいたら、嫉妬で彼を殺してしまうかもしれない。そんな風にも思った。本当に自分でもよくわからないけれど」

「珍しいね。わたる君がそんなことを言うなんて」

 茜に言われ、航が朗らかに笑ってみせた。

「ああ。初めてだよ、あんな気持ち」

「誰にも負けたことないのに」

「あるよ、一人だけ」

「負けたとは思ってないんでしょ」

「どうかな。でもそんなふうに思ったのは、生まれて初めてだ。きっと彼は、他の人間が複雑な計算式を経て何千手も先読みしながら導き出した答えを、当たり前のように思いつき、なんのためらいももたずに実行する。偶然や天然って言われればそれまでなんだけど、それは……。いや、なんでもない」

 何かを言いかけ、航が口をつぐむ。

 それを見た茜の表情がわずかに曇った。

「みなちゃんの言うとおりだ。俺達が彼らに負けるはずがない。そう思うよ。でもどこか危ういものを感じているから、仲間のことが心配になったんじゃないのか。違うか、かい」

「……。霧崎礼也は」

 目線だけを茜に向け、界がたずねる。

 送る側も受け止める側も、さして興味がないことを承知の上で。

「問題外だった。彼でなければならないどころか、彼である理由すら見当たらない」

「……」

 沈黙は予想を裏切らない幻滅ですらあった。

 同じように表情を濁らせ、それでも航だけは心情とは違う言葉を繰り出すのだった。

「そうならいいがな。よかったのか、界」

「何が言いたい」

「この世界を目覚めさせたのが本当に彼女ならば、俺達に勝ち目はないな。君は創造主を引き込むチャンスをふいにしたことになる」

「……」

「思い上がりとかいうレベルじゃないでしょ」不快げに茜が顔をそむける。「彼女があんなひどい妄想を口にするとは思わなかった。もう少しマシな人間だと思っていた自分に腹が立つ」

 それに柔らかな笑みを向ける航。

「前にみなちゃんも同じことを言ってなかった? 私には前世の記憶があるとか」

「それは! ……そういう可能性もあるかも、って話で……。本気じゃないってわかってるでしょ!」表情に赤みをまじえた茜がキッと航に振り返った。「わたる君だっておもしろがって聞いてたじゃない!」

「おもしろかったよ。すごくおもしろかった。だから彼女の発する言葉がおもしろいと感じたんだ。彼女のことを誤解していた。もっとリアリストでつまらない子だと思っていたから。どっこい、君と同じく、夢見る十代の少女だったわけだ。ひょっとして、みなちゃんが彼女に話したのかい。前みたいに楽しそうに目を輝かせながら」

「……いいえ」

「ということは、彼女もみなちゃんと同じ感性を持っていたということになるね」

「……。感性の問題じゃない。あんなふうにぬけぬけと言えることが恥ずかしいって言っているの……」

 気まずそうにまた顔をそむけた茜を、航がおもしろそうに眺めた。

「そうだね。なかなかいないよ。あの場所であんなことを言える人間は。それも界に」

「悔しかったんじゃないの。あのままだとかー、……かい君にやられっぱなしだったから」

「しゃくだから思わずあんなたわごとを口走ったって言うのかい」

「……たぶん」

「かもしれないね。でもそれは、界にとって十二分に予想外の行動だった。彼女があんなことを口にする人間だとは、誰も知らなかったはずだ。少なくとも界があらゆるネットワークを駆使して集めた情報の中からははじき出せなかった。違うかい」

「……」

 航が含んだような笑みを界に向けた。

「びっくりしただろ」

「何がだ」

「いや、あんなこと聞くかって思ってね」真顔の界に降伏し、天井を見上げる航。「甘納豆にミルク、か」

「信じられない」

 拒絶反応を示した茜に、航が顔を向ける。

「やってみたら、みなちゃん。案外といけるかもよ」

「無理。気持ち悪い」

「だそうだ」

 何も言わずに二人のやりとりを眺める界に、航がおもしろそうに笑ってみせた。

「どうしてわかったんだろうね、君の好物が。一瞬ドキッとしただろ」

 驚きに目を見開く茜。

 界はただ不快げに航の顔を見続けていた。

 そんなことなどおかまいなしに、航が楽しそうに昔の事を思い返す。

「うちに来た時、よく食べてたな。自分の家でするとおばさんに叱られるから」

「……。おまえだってうまそうに食べていたじゃないか」

「まあね。悪くはないけれど、好んで食べたいかと言われれば微妙かな。俺はぜんざいに牛乳をまぜた方がいけると思った。あと、牛乳は焼き芋とも結構相性がいい。結局牛乳が好きなだけなのかもしれない。よかったら、また今度やってみてくれ」

「……」

「母さんには俺が食べたことにしておいたけど、わかってたみたいだったよ。母さんは界のことを信頼していたから、君が何をしてもオールオッケーだった。一緒にゲームをして何も言われなかったのは、君の時だけだ。彼女の言う仲間の人っていうのが俺のことなら、半分当たっていたことになる。もう随分と昔のことのように感じるけれどね。今思い返すと、あの頃が一番楽しかったな」いまだ気まずそうな顔の茜に、ほがらかな笑みを向ける。「不思議だよね。みなちゃんでも知らないことを、何故彼女が知っていたのか。たぶん、偶然なんだろうと思う。でも運や偶然って、タイミングしだいでどんな必然すらひっくり返す力がある。俺はサッカーで嫌というほどそれを思い知ったよ。思いどおりにならないことを人のせいにしがちだけど、そうじゃない。結局、すべてをひっくるめて、その人間の実力なんだろうなって思うことにしている。俺達は彼らをもっと潔く認めなければならないのかもしれない」

「買いかぶりすぎだ。彼らのアドバンテージは、俺達より先にその世界を知ったということだけだ」

「だがそれは、最大のアドバンテージでもある。現時点で俺達は彼らの足もとにも及ばないことを自覚すべきだ。平凡なのは、むしろ彼らを理解しようともしない俺達の方なのかもしれない」

 それからもう一度、界へと向き直った。

「俺達が知っていることは所詮うわっつらの知識だ。コムラの名を利用して、スタンドプレイを見逃してもらっていたにすぎない。いや、彼らにとっては世界のコムラですらすでにブランド価値を持たない。相手にもされていないんだ。ささいな違いはあっても所詮同じ穴のムジナだ。平凡な思考の枠にとらわれている限り、決して特別な存在にはなれないぞ、界」

「……。おまえの言うとおりだ、航。俺達は凡人だ。凡人は凡人の殻に守られているからこそ凡人でいられる。無理をして殻の外に出れば簡単に自滅するだろう。ならどうする。天才の反対側にいるのが秀才ならば、凡人の逆は何だ。それ以外じゃないのか」

「人が人である以上、それ以外にはなれないぞ」

「だったら人であることをやめるまでだ」

「それに何の意味がある」

「意味なんてない。負けながら生き続ける苦痛がなくなるのならそれでいい」

「それは君より強い者すべてを消し去れば実現できるのか。君以外の誰も存在しない世界でも」

「それでもいい。この痛みさえななくなれば」

「君の痛みは永遠になくならないよ。何故なら、君が誰より恐れているのは、君自身だから」

「……。あと少しだ。あと少しですべてが変わる。価値観も何もかも」

「君も、君の仲間も、すべてか」

「……。仲間か……」界が飲み込めない感情を露呈させる。「古閑夕季の言うとおり、俺は一人だ。そんなこと、言われなくてもわかっている」

「そんなことないよ」ふいに茜の表情が感情にまみれる。「かーくんは一人じゃない。仲間だって味方だって、数え切れないくらいいるじゃない。あんなコミュ症の言うこと、真に受けないでよ」

「……」

「……あ、ごめんなさい……」

 界に見つめられ、茜がうつむく。

「誰も俺のことなんて認めていない。集まってくるのはコムラの名前にだけだ。どれだけの人間に囲まれていようが、俺の姿は誰の目にも映りはしない。そして俺は、それを受け入れられない」

「……」

「俺も彼女は不要だと思うよ」

 注目する二人に、航は笑顔の奥に映る氷のまなざしを尖らせてみせた。

「彼女は何も見えていない。そんな信用に値しない人間には、何も託せない」

 界が闇の彼方へと視線を泳がせる。

「もう少しだけ、つついてみたくなった……」


 何本もの電車を乗り継ぎ、ようやく夕季は最寄りの駅まで辿り着いていた。

 招かれたホテルのあった市街とはまるで雰囲気の異なる緩やかさがそこにはあった。

 そこに安堵を感じて見回すと、すでに街中がクリスマス一色であることに改めて気づかされた。

「へっくちん!」

 肌寒さにくしゃみをもよおし、吹き抜けた木枯らしに震えながらコートの襟を合わせる。

 まだ微熱があるのか、わずかに寒気がしていた。

 早く帰って横になろうと思ったその時だった。

 忍からの連絡が入ったのは。

『夕季、今、なにしているの』

「なにも。今、駅だから、もうすぐ帰るけど」

『すぐに帰ってきて。メガルから招集がかかったの。一緒に行くから』

「何があったの」

 それがプログラムでないことを知りながら、夕季が様子をうかがう。

 が、忍の口から飛び出したのは、夕季の想定を超えた状況だった。

『またニセモノが現れたの』

「どこに」

『上矢田市』

「!」

 それは先まで界らといたホテルがある場所だった。








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