第三十九話 『ゴルディアスの結び目』 6. 選ばれし存在
夕季は制服の上にコートを羽織ったままの格好でエレベーターの中にいた。
この高級ホテルの最上階にある大広間に向かうためである。
エレベーターを降りると広く長いスペースが眼前に広がった。真っ赤な絨毯が敷き詰められたそれ自体が、まるでパーティー会場のような豪華さだった。
夕季の顔を遠くから確認し合い、受け付けにいた六人のボーイのうちの一人が足早に近寄って来る。
「古閑夕季様でいらっしゃいますね」
満面の、それでいて感情をともなわない笑みで出迎えると、夕季が頷くのも待たずにエスコートを始めた。
「湖邨様がお待ちです」
差し出した招待状すら確認もせず、夕季が大広間へと招き入れられる。
大型トラックの出入りも可能なほど巨大な入り口の扉が開くと、中はさらに規格外の広さだった。
そのレイアウトを夕季は以前テレビの画面を通じて眺めたことがある。ただ広いだけのメガルの集会場とは違い、政治家のパーティーや大物芸能人が結婚式に利用するような広大で高級なフロアーは、多くの人々にとってほとんど縁がないはずだった。ここに招かれる前の夕季とて。
「やあ、古閑さん。よく来てくれたね」
湖邨界の声がして、夕季が振り返る。
様々ないでたちの数百名もの人間達が無関心を装う中、主催者の界が一番に夕季のもとへと駆けつけた。
「本当に来てくれるとは思わなかった。嬉しいよ」
笑顔で出迎える界に小さくお辞儀をし、夕季が周囲の気配を確認する。
界に話を遮られ振り切られた数名の輩は不思議そうに夕季の顔を眺めていた。が、すぐさま関心が薄れたのか、また自分達の話題へとリターンしていった。
よくよく見回すと煌びやかなパーティー用の衣装を身にまとう者から学生服を着用する者までそのスタイルは様々であり、夕季の格好も違和感なくそこに溶け込んでしまっていた。数十人のグループもあれば、誰とも交流をせずに一人で考えにふける者も少なくない。彼らは新参者の夕季に対して決して無関心を装っていたわけではなく、ただ興味がなかったのだと理解した。
「驚いたかい。この会は変わり者の集まりだからね」
界の声に夕季の心が引き戻される。
「ごめんなさい、遅くなって」
握り締めた招待状の時間からはすでに三十分以上が経過していた。
それを咎めることもなく、スーツ姿の界が嬉しそうな顔を向けた。
「謝らなくてもいいよ。ここは自由な会合の場なんだから。いつ来て、いつ帰ってくれても全然オーケー。一分前に来る人間もいれば、終わってから現れる人だっている。僕としては、いかにして時間内にすべての人間と交流するかのチャレンジの場でもある」
またもや夕季が会場を見渡す。
その真意に気づいたのか、にっこり笑って界は説明を始めた。
「ここにいるのは全員僕が集めた人間ばかりだよ。なるべくなら湖邨の名は出さずにね。君の場合はそれを晒すことが誠意だと思ったから、不本意ながら使用させてもらった。我ながら恥ずかしくて、情けなかったよ」
「……」
「その名前を出しただけで離れていく人間もいる。反対に近づいてくる人間も。そういう人達にはすぐに決別してもらっているけれどね。たぶんここに残ったメンツは、僕の素性になんて興味がない変人達ばかりだろうね」
ざっと確認しただけで二百人。視界に入らない場所にいる者も含めれば、さらに人数は増えそうだった。
それらを集める界の求心力がどれほどのものかと考える。
「彼らとの交流のために、最低月に一度はこういった会合を設けるようにしている。以前はリクエストがあって遊園地やコンサートを貸し切ったこともあったよ。主催者側には何も伝えていないから、変な客達だなくらいに思われていたんだろうけれどね。本当はこんな格好もしたくないんだけど、今日は特別にね」窮屈そうに首もとを指で広げ、苦笑いしてみせる。「急遽、みんなを呼んだから。君のために」
目をそらすことなく、夕季が界と向き合う。
「こんな遠方で集まることなんて滅多にないけれど今回は特別だ。こっち方面の人間はそんなにいないのにもかかわらず、これだけ集まってくれた。主催者としては嬉しい限りだよ」
その時、一人の青年が航の背中を思い切りゲンコツで叩いてきた。
「いてっ!」
目尻に涙を浮かべ、苦笑いの界が振り返る。
「なんだ、桑田氏か……」
その暴行の主は野暮ったいトレンチコートを着込み、まばたきもせずに界を睨みつけていた。
「コムラ氏、あとで卓球で勝負しよう」
「ああ、後でね」
「絶対取れないサーブを発明した。今日こそ君をこの鉄の拳で叩いて砕く」
「いつもそうじゃないか。君にはかなわない。砕かれっぱなしだ」
「そう言いながら君はいつも僕に追従してくる。それが気に食わない」
「必死なだけだよ。僕だって負けたくないからね」
「今日こそは完膚なきまでに叩いて砕く。クワタがやらねば誰がやる」
「まばたきしなよ。ドライアイになるよ」
ペッと唾を吐き捨て、桑田という男が去っていく。夕季を一瞬たりと意識すらせずに。
桑田が吐いた唾は、まるでそれが当たり前のように、ごく自然に給仕の人間が清掃していった。
「ははっ、変わった男だろ」苦笑いのまま夕季へと振り返る界。「あれでも高校三年間、一度も全国模試で一位から落ちなかった秀才なんだよ。そして来年僕が入学する予定の大学の先輩でもある。彼のすごいのは勉強だけじゃない。いまだかつて卓球では誰にも負けたことがないんだ。全国大会の常連選手にもね。そんな人間がどうして知られてないか不思議だろ。答えは簡単。彼は一度も公式戦に出場したことがないからだ。それどころか卓球部に所属したことすらない」
「……」
「彼は極めて特異な理論を用いてスポーツを独自に解析する。いろいろな分野でほぼ最強となれる理屈を持っているんだ。中学生の時に思いついて、それを実践できる肉体年齢と自分の身体能力の兼ね合いから、卓球を選んだ。あくまでも理屈だから、実践できるかどうかは別みたいだけれどね。でも条件さえ揃えば実現することを自ら証明してみせた。彼の場合はもともと人並みはずれた動体視力があったから、それをさらに磨く方向に持っていったようだ。接触プレーが苦手でなければ、他の選択肢も二、三あったらしい。彼に言わせればどんなスポーツにもやり時というものがあるそうで、身体能力がピークに達する以前に極めなければならないものもあれば、肉体年齢が未熟なうちはなるべく控えた方がいいジャンルもあるそうだ。ピークを過ぎてから始めた方がいいものもあるらしい。以前彼からゴルフを本格的に始めるよう薦められたことがあったが断ったよ。ゴルフはだらだらしながらやる方がおもしろい。きっと君が望めば、世界一になれる種目とそのトレーニング方法をレクチャーしてくれるよ。もちろん人には個体差があるし、検証の結果何も得られない可能性もあるそうだから確約はできないけれど、君くらい身体能力が高ければかなり期待できると思う。彼も誘えばいつだって来てくれる。どんなに忙しくても、遠くにいても必ず。大事な友達だ。本当にありがたいよ。そんな人間が僕の周りには何千人もいる。ここにいるのはほんの一部さ」
「……」
「みな、これからの僕にとってブレインとなる人間達だ。直接くどいたのは君を含めて百名にも満たないが、すべて僕自身の目で見極め、選んだ人間達だ。このネットワークを駆使して兄を押しのけることもできるが、それは何の意味ももたない。僕達が目指すものはそれよりもはるか先の、もっと上の方にある。僕のパートナーになってくれないか。数百名しかいない特別なパートナーの一人に」
反応が薄いことに気づいた界が表情を改める。
そして夕季が望み、予め用意していた答えを連ね始めた。
「気づいているだろう。僕らは君達のはるか先にいる」
「……」
「君達を常に上から眺めている存在があることは知っているよね。決して手の届かない場所から、ものも言わずに。もちろん彼らに君達の真似をすることはできない。だが彼らの存在なくしては君達も成立しない。決して対等ではないが、レースに勝つためには最高のレースカーと優れたドライバーが不可欠だ。当然そのどちらが欠けても勝ち上がることはできない。ただオーナーならば、それを選ぶことも捨てることも自由にできる」
「あなたは選べる側にいるの」
久々に興味を示した夕季からの問いかけに、界は残念そうに眉を寄せてみせた。
「まさか。彼らははるか彼方の存在だ。彼らの視点から眺めれば、世界のコムラだってちっぽけなものさ。君が知る人間の名を出していいのなら、たとえば凪野守人という人物はどうだろうか。彼は世界中の国々を買い取るだけの財力があると聞く。その気になれば、彼一人だけでこの世界を破壊することも可能だ。いつでも、今すぐにでも。それだけの力を持つ彼が、本当に君達を特別な存在だと認識していると思うか。賢明な君なら薄々はわかっているだろう。選ばれし存在が何も知らされずにこんな場所にいる方がおかしい」
「……」
「だが彼らが無視できない存在になることはできる。僕はその方法を知っているし、それを君に伝えることもできる。君だけに。他の二人には興味がない。いや、彼らには無理だろう」
夕季が顎を引いてかまえる。
明らかに界の目つきが変わったことを感じ取ったからだ。
「いずれ凪野博士の手によって必要な人間が淘汰される時がくる。いつか必ず。地位や権力などの無粋な理由で生き残ることを約束されたわけではなく、これからを戦うために選ばれた人間達だ。そこには君達の知る顔は一人もいないだろう。皮肉ではなく、選考基準そのものが僕達の想像をはるかに超えているものだと予想する。我々の感覚からはじきだす人とはまったく異なる存在。それは愛情や他人とのつながりをも超越した人種だからだ。その選ばれた存在が人としての営みを求め、またそれができるのかすらもわからないがね」
「……」
「カタストロフィの暁には、先人達が構築してきたフォーマットはすべて崩壊する。それがIQ三百の原始人だらけの世界なのか、或いはスーパーコンピュータ並みの知能を持ったバクテリアなのかもわからない。そこに凪野博士自身が含まれるのかすらも。生き残った彼らがどんな世界を築き、それがどんな意味を持つのか、今の時点では誰にも想像もできない。さて、こんなところでいいかな」
にっこり笑い、界が両腕を大きく広げる。
「じゃあ、さよならだね」
「ええ」
まるで動じることなく頷いた夕季に、感心したように界が笑う。
力の抜けた本当の笑顔だった。
その時、二人の前を一人の少女が通り抜けた。
水杜茜だった。