第三十九話 『ゴルディアスの結び目』 4. コンタクト
やにわにクラスがざわめき出したことを不思議に思い、読んでいた漫画雑誌から光輔が顔を上げた。
「穂村、お客さん」
「ん?」
「バトルガール」
「夕季?」
緊張の面持ちのクラスメイトに促がされるまま入り口へと向かうと、幾重もの遠巻きなギャラリーに包囲されて気まずそうに身をよじる夕季の姿があった。
「お、夕季」
たったそれだけのことで、おお~、とクラス中がどよめく。
淋しい男子クラス特有のリアクションを苦笑いで流し、光輔が夕季を室外へと連れ出した。
「なんか用?」
興味津々に覗き込むギャラリー達をちらちら牽制しながら、光輔が夕季を気遣うように言う。
「……お姉ちゃんが、今日一緒にご飯食べに行かないかって」夕季も光輔と同じように周囲を気にかけながら、それを口にした。「こないだあたしが迷惑かけたから」
「迷惑なんて思ってないって。珍しいものも見れたし」
ふいに夕季にキッと睨まれ、びくっと身をすくませる光輔。
男子クラスのどよめきが絶頂に達する中、夕季は照れたように顔を赤らめ口を固く結んだ。
「忙しいの」
「いや、別に。でもなんか悪いしな……」
「オーケーなら、七時頃、迎えに行くからって」
「あ、うん……」
夕季の様子がおかしいことに気づいて、光輔が不思議そうに眺める。
夕季はもじもじと身をよじった後、キュッと口もとを結ぶと、何かを決意したように予め手に持ったそれを光輔へと突き出した。
「これ」
「……何、これ?」
おそらくは弁当箱であろうことは予想できたが、その行為の真意が理解できない光輔が惚けた顔でそう返すと、夕季は眉に力を込め、睨みつけるように続けて言った。
「お弁当。……お姉ちゃんが持っていけって」
「サンキュ。しぃちゃんにありがとうって言っといて」一瞬で表情を切り替え、嬉しそうに光輔が笑った。「んじゃ、さっそく」
早速その場で開けようとする光輔に、顔を引きつらせ、夕季が一歩退く。
「まだ一限目が終わったばかりだよ……」
そんなことなどまるでおかまいなし、光輔がカパッと大きな弁当箱を開いてみせた。
「俺、朝飯食ってこないから、ぺこぺこだったんだよ。うおっ、うまそ」
「……せめて教室に戻ってからにして」
遠巻きだったギャラリーが徐々にその間合いを詰めつつあることに気づき、夕季がそこから去ろうとする。
「何、ホム。うまそ」
「バトルガールが作ってくれたのか?」
「違う、違う。あいつのお姉さんが作ってくれたんだよ」
そのあいつの姿はすでにない。
が、ハイエナ達の襲撃を防ぐのに手一杯の光輔には、もはや他のことなどどうでもいいことだった。
「俺にもくれ」
「駄目」
「ケチ」
「あ~、勝手に食うなって!」
光輔の下宿先の前に一台のコンパクトカーが停車し、助手席から光輔が降車した。
遅れて運転席から現れた忍に笑いかける。
「あ~、うまかった。ごちそうさま、しぃちゃん」
「いいって。また夕季に何かあったらお願いね」
後部座席から外の景色を眺めている夕季を、光輔がちらと見やった。
「そんなのお互い様だよ。どっちかっていうとこっちの方が世話になってるぐらいなのに、弁当まで作ってもらっちゃってさ。うまかったよ。クラスの奴らが襲撃してきたから半分ぐらいしか食べられなかったけどさ」
「ああ、あの子ね、すごく頑張ったんだよ」
「へ?」
夕季の方へと目をやった忍を、光輔が意外そうに眺める。
「たまにはそういうことすればって言ったのはあたしなんだけどね。あいつ、朝五時に起きちゃってさ。卵焼きだって、あれ実は三回目のやつなんだよ。失敗した分は自分のおべんと箱に詰めてった。おかげでがっつり玉子焼き弁当になってたよ。これ、あの子には黙っててね」
「……」
「お姉ちゃん、後ろから車来てるよ」
「ああ、わかったわかった。すぐ行くから」
忍が嬉しそうに光輔に笑いかける。
光輔はぽかんとなりながら、夕季の方を眺め続けていた。
その日の朝、教室に足を踏み入れるや、夕季は満面の笑みのみずきに声をかけられた。
「ゆうちゃん、卵焼き作るのうまいんだってね」
途端に夕季の目がカッと見開かれる。
「誰にそんなこと聞いたの!」
「穂村君」
「光輔が……」
「みんなに言いふらしてたよ。すごくおいしかったって」
「何~!」
遅れて現れた茂樹の顔をみずきが笑顔で押しのける。
「あたしも今度作ってあげる約束した。負けてられないから、やる気出そうっと」
「……」
真っ白けになる夕季の頭。
追い討ちをかけるようにみずきが続けた。
「あ、あれも言ってたよ。ゆうちゃん風邪ひいてさ……」
「!」顔を赤らめ、焦ったようにみずきに詰め寄る。「あれは、熱で頭が変な感じになってて、思わず!」
鼻と鼻がくっつきそうな位置まで近づいた夕季にも、顔色一つ変えることなくみずきが続ける。
「ガガルガガがにくいって言ってたって」
「……」ほっと目じりが下がった。「そのこと……」
「たぶん、あたしの風邪がうつったんだよね。非常に申しわけないよ」
「……違うと思う」
「でも思いっきりはっくしょんして、ゆうちゃんの顔、ごはん粒だらけになってたよね。すごくかたじけない」
「……うん」
「あれみたいになってた。あれみたいだったよ。あれ。わかる?」
「わからない」
「わからないの」
「うん」
「なんで」
「……。ごめん」
「いいけど。むしろこっちがごめんだよ。絶対切れられると思ったもの」
「切れないよ……」
「ゆうちゃん、大人~」
「そんなことない……」
「あとね、三回もげろげろしちゃったんだってね?」
「あああ~っ!」
「あ、切れた」
「え! げろげろしたの! 古閑さんが!」
「ねえ、なんで鼻息ふんごふんごしてるの」
「いや、古閑さんがげろげろしちゃったの想像しちゃって」
「うわ! キモッ! もうおしまいだよ! まるごと全部腐ってるもの。まことにいかんだよね、ゆうちゃん」
「光輔か……」
「違うよ。腐ってるのは穂村君じゃなくって曽我君」
「いやいやいや! 勘違いするな、篠原君。古閑さんのことだから、さぞかしカッコよくげろげろしたんだろうなあって思ったんだよ、僕はね」
「聞いててやるせねーよ、もう。こっちの耳が腐ってきたもの。生きてるだけでヤバい雰囲気だよ。もうこの先どれだけいいことしたって取り返しがつかないもの。自分の顔を鏡でじっくり見て絶望してよ」
「あの、さっきから攻撃力が女子高生のレベルじゃないんすが……」
「そんなことないよね、ゆうちゃん」
「光輔……」赤い顔をそむけ、そこにたまたまいた茂樹を睨みつける。「……のやろー」
「え! マジで! ごめんなさい!」
「あ、違……、ごめんなさい!」
「ねえ、なんでうれしそうなの」
「だって、古閑さんに睨まれたんだぜ。なんかうれしー!」
「やっぱ、キモいよ。ね?」
「……」
「否定なし! ひゃあ~!」
「ねえ、ガガルガガって何?」
誰ともタイミングが合わず、夕季は一人きりで学校からの帰り道を歩いていた。
それを絶好の機会だと考えを巡らせる。
一人になって考えたいことが山ほどあった。
特にこの数日間は病気のせいもあってか喪失感が著しく、思い出せない何かを取り戻そうと躍起になっていたからだった。
思い出せない大事な何かがあるはずだった。
何を忘れてしまったのかを思い出すことが、何故忘れたのかという疑問に対する答えにもつながる。
だがそれが何であるのかを、一向に思い出せなかったのだ。
まだどこかぼんやりとまどろむような意識の中、握り締めた手を開き、そこにあるはずのない感触を何度も確認する。
そのことを誰にも話してはいけないような気がしていた。
「古閑夕季さんだね」
背後から声がして、夕季が振り返る。
そこにはコートを着込んだ長身の青年が立っていた。
年の頃は二十歳前後。細身だがバランスのよさそうな体格で、眼鏡をかけた穏やかな顔は優しげな笑みにつつまれていた。
夕季の記憶にはない顔だった。
学校の関係者か、或いはホームページでメガルのことを知った何がしかと夕季が推測する。
あまり関わりたくなかったため、小さくお辞儀をして立ち去ろうとする夕季。
が、その青年は、意外なことを口にして夕季の足を止めたのだった。
「空竜王のオビディエンサー、古閑夕季さんだよね」
振り返り戦慄のまなざしを差し向ける夕季に対し、その青年はあくまでも穏やかな姿勢を崩すことなく夕季を見つめていた。
夕季は鏡の前に立ち、長い時間自分の顔を眺め続けた。
何一つかわらない、いつもの自分がそこにいるだけだった。
物憂げに目を細めた時、ふいに後ろから忍の声が聞こえてきた。
「どうしたの、ずっと鏡ばかり見ちゃって」
鏡越しに忍を見やり、少しだけ表情を戻す。
「別に……。ちょっと切りすぎたかなって思っただけ」
「あ~、そうかもね。そんなに短くしたの初めてだもんね。違和感あるでしょ」
「うん……」
夕季の表情からわずかに後悔の気持ちを感じ取り、忍がおもしろそうに笑った。
「すぐ伸びるよ。また伸ばすんでしょ」
「うん」また物憂げに目を細め、小さくため息をついた。「そのつもりだけど……」
それから夕季は一通の封筒をバッグから取り出し、明かりにかざした。
封筒を開き、すでに何度も確認したその中身をまた読み返す。
いつぞやの青年から渡されたものだった。
招待状と書かれたそれには、場所と日時だけが記されていた。
物憂げにため息をつき、また彼の顔を思い返した。
*
戸惑い硬直してしまった夕季を楽しそうに眺め、青年が笑う。
「初めましてだったね。ごめん。君に会えたのが嬉しくて、順番が飛んでしまった」そう言って目がなくなるほどの笑顔を構築し、青年が右手を差し出す。「湖邨界です。よろしく」
夕季は握手を受け取らず、表情のない顔で、こむらかいと名乗った青年のことを眺め続けていた。
まばたきもせず見つめたまま、小さな咳払いを一度だけする。
それに不快そうな顔一つ見せず、穏やかに笑いながら、差し向けた手を界が引き上げた。
「そりゃそうだよね。こんな不審な人間の握手を受け取る方がおかしい」
自嘲気味に笑い、界が夕季から顔をそむける。
その横顔が夕季には淋しげに映った。
「誤解は解けないだろうけれど、今から僕自身の説明をさせてくれないか。それで安心できたのなら、少しだけ話を聞いてほしい。それでいい?」
振り返り、笑う界。
夕季は何も答えようとせず、黙ってその顔を見続けるだけだった。
それを夕季なりのオーケーだと解釈したのか、界はふっと笑って説明を始めた。
「まず僕を構成する要素のほぼすべてを占めているのが、コムラグループっていう集団の次期総裁の次男坊ってこと。知ってるよね、君なら」
「……」夕季が軽く顎を引く。「……ええ」
知っているどころの騒ぎではない。この国においては、コムラの名を知らぬ方が少数派であると言い切れるほどのビッグネームなのだから。
むしろそのネームバリューがメジャーすぎて、それを軽々しく語る人間にこそ大いなる不信感を抱くべきだった。
そんな疑念をまたもや読み取ったのか、界が自嘲気味に笑ってみせた。
「それで聞けば大抵のことはわかるはずだ。表向きのことならばね」
コムラは戦前からの巨大資本の一つで、軍需産業を含む各分野でトップシェアを誇る企業体は、世界に名だたる日本のシンボルの一つでもあった。おそらくは世界中の誰もが、自身の気づかぬうちに、その息のかかった何がしかに常に触れている状況下にある。表向きはメガルと対等の位置関係にもあった。
戸惑いを隠すことなく、不可解そうに夕季が目を細める。
界の素性や発言をはなから疑うわけではないが、それ以上に突然目の前に現れた人物との距離を、夕季ははかりかねていた。
そのリアクションを当然だとばかりに流す、迷いのない界の行動にも。
「そこから先は時を改めて、君自身の意思で、僕から直接求めるべきだろう。今はまだ詳しくは話せないけれど、君達に関する情報を手に入れることなら可能だ。すべてではないけれど、君達の存在を把握できる場所にいることは確かだよ。少なくとも、君のことならばなんでも知っているつもりだ。知らなかったのは髪を切ったことくらいかな。別人かと思ったよ」
「……」
「本当は長い髪の方が好きなんだけれど、君にはその髪型がよく似合っている。自分にとって本当に必要なものが何かをよくわかっていて、それを迷いなく選択できる意志の現れのようだから。戦うために生まれてきた人間にはふさわしいと思うよ」
「……」
何も答えず、ただ品定めするように界を見続ける夕季。
それすらも予想の範疇とし、界が夕季を動かすためのカードを切る。
夕季が無視できないそれを。
「プログラムはすでに終わっている。これ以上君が真実を知らされない場所にいるのは、何の意味ももたない」
「!」
その顔つきが豹変したことを見抜き、界が満足げに笑った。
「もう一つだけ教えようか……」