第三十九話 『ゴルディアスの結び目』 2. ドラグノフからの手紙
食堂で難しい顔をしながら、桔平が首を傾げる。
「どうかしたんすか」
光輔の声に恨めしそうに振り返ると、桔平はテーブルの上を顎でしゃくってみせた。
そこには定番のモナカが一箱と、コップに注がれた牛乳が見えた。
「これがどうかしたんすか」
「ヤベえんだわ、これが」
「え、何がすか」
「何やってんの」
はてなマーク全開状態の光輔をおきざりにしたまま、笑顔の雅が礼也とともに現れる。
先と同様、恨めしげに雅を見上げる桔平。
「いやな、みっちゃん。ちょっとこれやってみてくれよ」
「ほへん?」
それに誰より反応したのは、礼也の方だった。
「マジか! これと牛乳いっしょにやれってのか。ふざけんなって!」
「だろ。俺もそう思って……。おい、モナカだけ食ってんじゃねえ! みっちゃんも二個食い禁止な! これけっこうたけえんだから!」
「いや、でもよ」老舗銘菓湖満堂の高級モナカにかぶりつき、礼也が改めて眉をゆがめる。「普通モナカっつったらしぶ~い日本茶だろ。牛乳はねえわな。……うめーな、これ!」
「てか、それ以外ないっしょ」光輔も続く。「あと抹茶とか。……うまっ。これマジうま! 甘すぎだけど、ウマ!」
「ったりめえだ。普通それっかねえだろ。もともと和菓子ってのは日本のお茶に最適化する感じで作られてるんだからよ」
「そのとおりです。元茶道部として、そんなイカサマは断固許せません」
「みっちゃん、それ三個目だろ!」
「意地汚いな……」
「元茶道部が聞いてあきれるって……」
「そんなこと急に言われても!」
「で、試してみたんすか」
「おう、まあ」
「あわねえだろって。おい、雅、こぼすなって!」
「ふんが、ふぐ!」
「いや、それがよ……」苦悩を込めた表情で、桔平が眉間に皺を寄せる。「実にヤベえんだって、これが」
「はあ!」
「あうってことすか」
「ううん……」まだ腑に落ちない顔を光輔へと向けた。「正直、俺にもよくわかんねえんだわ。で、おまえらの意見を聞きたいものだと思ってな」
「珍しいすね、桔平さんがそんな弱気なのも」
「おうよ」
「情けねえ。いつもまったく根拠のねえ自信のカタマリのくせによ。だが、おりゃあ、パスだな。きしょくわりい」
「礼也……」
ふいに桔平が頭を下げる。
「頼む! このとおりだ!」
「珍しいすね、桔平さんが人に頭を下げるの……」
「おりゃ、初めて見たわ……」
「それくらいの大事件だってことだ」
「何言ってんだ、あんた。しょーがねえな」礼也が腕組みをして桔平を見下ろす。「いけ、光輔」
「ええっ! 俺!」
「当然だ」
「いや、今の流れはおまえが人柱になる感じだろ」
「牛乳じゃ茶柱も立たねえのに、人柱になってたまるか」
「うまいこと言うな、おまえ」
「だろ」
「いや、全然うまくないんだけど……」二人からの強烈なプレッシャーを真正面から浴び、顔を引きつらせつつも光輔がモナカを含んだ口の中に牛乳をちびりと注ぎこむ。途端にその表情に変化が現れた。「……。あれ?」
「な」
「……ヤバい、かも……」
「なあ……」
腑に落ちない顔を向け合う二人を、途端に蚊帳の外に放り出されたような淋しさを感じつつ礼也が眺めた。
「マジかって!」
「こればっかりは口じゃ説明できんな」
「口じゃ無理だよ。だまされたと思って、おまえもやってみろって」
「ふざけんなって!」悪態をつきながらも好奇心には勝てず、おそるおそる礼也もモナカと牛乳を試してみたところ。「ヤベえって!」
「な」
「だろ」
「なんだこりゃ!」
「びっくり仰天だろ」
「びっくら仰天だって!」
びっくら仰天の二人にため息をかまし、桔平がまた難しそうな顔になった。
「こいつをよ、ドラやんの奴が言ってきやがったんだぜ」
「ドラグノフさんがすか」
「おう。ありえねえだろ。あんな日本人がドン引きするくらいガッツリ和風びいきのカタマリが。あいつ自身、和菓子には日本茶以外絶対認めない派だったはずなのに。こうやってわざわざ毛筆で手紙までしたためてよこしやがって。字、うめーな、こいつ! 本当にロシア人か!」
「そういや病室でおみやげのドラ焼き、アレクシアがいれてくれた紅茶と一緒に食おうとしたら、えれえこええ顔で怒られたって」
「俺も。夕季がそれやっても何も言われなかったから同じことしたら、鬼のように怒られた。夕季のことは、すごく残念そうな顔して見てた」
「桐嶋ん時もな。あんなんでも女にゃ嫌われたくねえんだな。マーシャにロシア語でクソ怒られて泣きそうな顔してやがったし」
「そりゃ俺が買ってったドラ焼きだな、たぶん。ドラやんとドラ焼きをかけてディスるつもりで持ってったのに、アレクシアにめちゃくちゃ礼言われて言い出せなかった」
「あ、それ聞いたことあるす。ヤバそうだったから早めに潰しといたとかなんとか」
「俺もアレクシアから聞いたって。もう少しでめちゃくちゃヤバいことになるとこだったって!」
「そもそも言いだしっぺはケイゴらしいんだけどな」桔平が説明を続ける。「もともとはモナカと組み合わせ最強の茶を決めたくてドラやんと綾っぺで銘柄別にランキングしてたみたいなんだが、それをケイゴが横から出てきてとうとつに牛乳がヤバいですよとか言い出しやがって。ほら、あいつ、小豆オーレとか飲んでやがっただろ」
「ああ、飲んでやがったな、あの野郎」
「あれ、なくなっちゃったんだよね。人気なかったのかな」
「当然、綾っぺもドラやんも大激怒だったんだけどよ。さんざん必殺技かけられて瀕死の状態なのに、なおも死を覚悟したあいつに試しにって言われて、いやいや飲んでみた綾っぺの動きがそこでピタリと止まったらしい」
「うますぎて、このままじゃフーセンみたいになるまで止まんなくなるって予感したんだろうな。まるわかりだって」
「大激怒されたんだ、ケイちゃん」
「だったらロシア人が握った寿司をおまえは食えるのか、とか大騒ぎだったらしいぜ」
「別にいいんじゃないすか」
「ロシア人だって寿司握るのうめえ奴はいるだろうしな」
「違ったかな。酢飯のかわりにバターで練ったメシで、俺が握った寿司だったかな」
「それは嫌すね……」
「あのオッサンが握ったってとこがアウトだな!」
「その後ケイゴ側に寝返った綾っぺと、そんなの絶対認めない派のドラやんの間で一触即発の空気が流れたらしいんだが、まずメロンパンにつられたマーシャがケイゴに泣きつかれて助けに入って、説得しようとしたマーシャをドラやんが思わず叱りつけて、マーシャがわんわん泣いて、あたふたして、嫌われて、落ち込んで、謝って、ようやく反省したドラやんが不本意ながらしぶしぶ一口試すことになったわけだ。ってここに書いてある」
「さいてーだな。ま、メロンパン相手じゃしょーがねえが」
「その内容をわざわざ毛筆でそこにしたためてきたんすか。ほんとだ、字、ウマ!」
「その結論が、これは認めざるをえない、ってことだ。モナカだけでなく、あんこ系すべてにおいて、ナイスマッチングだとまで奴は言ってきやがった。強気の発言だ。綾っぺもすべてを受け入れたわけじゃないが、それまで和菓子や日本茶が苦手だったアメリカのギャル達にもおおむね好評らしいってよ。あの木場ですら、これなら何個でもいけそうだ、とご満悦な様子だった。二つ食ったとこでくどくなって、うっぷってなってやがったが。まあ、あいつはもともと牛乳好きが高じて人間ばなれしたでかさに育っちまったわけだからカウントには疑問が残るとこだがな。それを差し引いても、敗北必至なのはほぼ確定だ。残念なことにな。ちなみに甘納豆にミルクをかけて食う時は事前によ~く浸しておくのがいいでそ~ろ~、だとよ。あの野郎、すっかり魂売っちまったみたいだな」
「いや、そうはそうなんだろうがよ、あんた的にどうしてそんなに抵抗しなきゃなんねえんだ」
「そうだね。素直に認めちゃえばいいのに」
二人の疑問にキッと振り返る桔平。
「負けを認めたらモナカを倍送る約束を綾っぺとしちまったからだ!」
「だろうと思ったけどよ……」
「小さいな、みんな……」
そんなことなどおかまいなしの雅が、五個目の高級モナカをまるごといただく。
「うますぎ!」
「ちょっと待て、みっちゃん、ストッピ! なくなる!」
「聞こえません。あ、のどにひっかかった! 光ちゃん、お茶! お茶!」
「ないけど」
「買ってきて! 自腹で」
「しょうがないな……。お金払えよな!」
「いや、今からいってたんじゃ、とても間に合わねえ。諦めてこれ飲みな」
「いや!」礼也が差し出した牛乳をはねのける雅。「そんなの飲むくらいなら、悪魔に魂を売った方がまし!」
「んだと。試しもしねえで、てめえ! このままじゃ本当にあんこがのどにべったりからみついて、おえってなるぞ。あのバカ女のようにな」
「やだ、夕季みたいになりたくない! 助けて、光ちゃん!」
「ちょっと待ってろよ。……夕季に怒られるよ」
「もう駄目! 間に合わない!」
「そう言いながら、なんでもう一口食べたの……」
「そんなこと言われても困る!」
「地獄で後悔しろって」
「ああ、みんな、さようなら!」
「自販機、すぐそこなんだけど……」
「いや! あ、本当にヤバい! ふんが、ふんぐ!」咄嗟に目の前のミルクをゴキュゴキュと流し込み、ぱああっと目を輝かせた。「あ、これヤバいかも!」
「な」
「何、この小芝居……」
「うーまいにゃ~!」
「……」
「まあ、そういうことなんだけどな……」いまだ釈然としない様子で桔平がしこりを露呈する。「普通よ、お茶うけっつうくらいだから、お茶に合うお菓子を探すよな。で、その最適なマッチングとして和菓子がある。全部が全部とは言わねえが、そのために作られたものだというのはほぼ間違いがないだろう。違うか」
「ま、あ」
「そうすね」
「それがお茶よりも合うものが他にあるってことにでもなったら、お茶自体が存在意義を失うことになる。お茶のために作られたはずなのに、お茶そのものを必要としなくなってしまうからだ。お茶にとっちゃ、死活問題だぞ。なんか納得できねえだろ」
「そうとも言い切れねえような……」
「う~ん……」
「んじゃ、こう言えばわかりやすいだろ。本来の用途としては今いちなのに、プラモデルの乾燥ブースとしては一流の評価をいただいた某食器乾燥機がオーバーラップするとこだな」
「全然わかんねえな」
「うん、全然わかんない」
「まあいい。それは百歩譲る。何より解せないのは、ケイゴの思考回路だ」
「はあ?」
「え?」
「普通はお茶に合わせてお茶うけを選ぶ。だがあいつはそうではなく、モナカに合う飲み物の方を逆にチョイスしやがった。普通そんなふうに人間は考えられねえはずだ」
「は?」
「意味不明すけど」
「普通はな、人間ってのは、苦いお茶があってその反対側から甘いモンを導くもんなんだ。逆もまたしかりだ。甘いモンが食いやすいように、対極にある苦いお茶をチョイスする。互いが求め合って、支え合って成り立っているんだ。だがあいつは違った。あま~いあま~いモナカを苦味で打ち消すわけでなく、牛乳なんぞでマイルドにする道を選択したんだ。それまで先人達が築き上げた、信頼関係やギブアンドテイクをガン無視しやがってな。そんなこと、普通の人間には到底できねえぞ。邪道もいいところだ。あいつは人間ばなれしてやがる。おそろしい奴だ」
「そりゃ、単に牛乳に合う食べモンを偶然あいつが見つけてただけってこったろ」
「なんだと!」
「ケイちゃん、牛乳もあんこも大好きだからね」
「それがどうした!」
「アンパンと牛乳なら何十年も前から通勤サラリーマンの定番だって」
「あ!」
「ていうか、モナカの甘みをわざわざ打ち消すためにお茶を飲むんすか。いやいやなんすか。だったら最初からそんなに甘くないやつを選んで食べればいいのに」
「く!……」
「たまたまだな」
「たまたまだね」
「……。みっちゃん、食いすぎだろ!」
「だって、これマイルドだからいくらでもいけちゃうし。うーまいにゃ~!」
「あ~、あと一個しかねえ!」
「マジかって!」
「俺まだ一個しか……」
「でもちょっとくどくなってきた!」
「まるでゴルディアスの結び目ね」
四人が一斉に振り返る。
そこには意味深な笑みをたたえながら最後の一つを手にした進藤あさみの姿があった。