第三十八話 『テスタメント』 15. そして愛する者がただ苦しむだけの世界へ……
眉一つ揺らすことなくアザゼルは、夕季の存在そのものを見守っていた
「君が言うとおり、一人の運命はあらかじめ定められたられたものだ。結果の隔たりはあれど、いつかは一つの真実へと集約されていく。苦しみも、喜びも、悲しみもすべて。そして生命の起こりと終焉のはざ間においては、その隔たりすらちりあくたのごときものなのだ。私にできることは、痛みをほんのわずかの間和らげることだけだ。君が私の手を離れていくことも定められたことだ。誰も君をつなぎとめることはできない。ならば少しでも苦痛を取り除けたらいいと。たとえ君が君であることを否定しようとも」
その意味を夕季は理解していた。
「私達には定められた運命を変えることはできないの」
「できない。だが未来を変えることはできる。それが君の運命の範疇においてならば。異なる世界を求める心と、異なる未来を望む心は決して同義ではない。同様に、同じ世界を望む心と異なる未来を願う心も別のものだ。それは未来を変えたいと願いながら、今あるものが変わらないことを望むという矛盾にも通ずる。はたして自分の心すら偽れぬモノに、そのすべての未来を変えることができると君は思うのか」
「……」
「無数に存在する多元宇宙の中では、君の想いも願いもあまりに無力だ。その数知れぬ生命と源を押しのけ、未来永劫の輪廻を幻とし、これから君達だけが存在し続けることを受け止めなければならない。それができるのか。君達の世界に本当にそれだけの可能性があるのか。君ののぞむ未来は果てしなく険しい。私には何もできない。選択するのは君達だ。未来を変えることができるのも君達だけだ。忘れてはならない。のぞむのぞまざるにかかわらず、君達が求めたが故、世界はある。それでもそう思うのか」
夕季は何も答えなかった。やがて小さく頷く。
「それは苦しみから逃げているだけでは決して手に入らないものであるはず。ならば、私の選択はかわらない」
「そう言うと思っていた」アザゼルが満足そうに笑った。「君は常に同じことを言う。いつでも。ならばそれを信じて進むがいい」
「!」
ふいに夕季が周囲をせわしく見回す。
声が聞こえたからだった。
夕季とアザゼル以外の、そこに存在するはずがない、無数の声が。
『あなたはいつもそれをたずねる』
その声は夕季の内側から聞こえてくるようでもあった。
『同じ問いを何度も投げかける』
やがて無数の笑い声となって、星とともに消滅していく。
『答えは出ているはずなのに』
女であり、或いは男であり、若くも、老いたものすらも混在する声の束。
それは全宇宙にある星の数ほど存在するようでもあった。
拳を握り締めて打ち震える夕季を眺め、アザゼルが穏やかに笑う。
「そんな君だからこそ、私は救いたいと願った」
夕季を優しく包み込むように、しごく満足げに。
「君はすでに過去と今を手にしているようだ。ならば私はそこに未来とその先へ続く希望を付け加えることにしよう」
それからゆるやかに丸めた拳を夕季の前に差し出した。
「これだけは覚えておくがいい。君が求めた世界の中、そのすべてが君の胸の内にとどまることは決してない。手のひらに触れ、記憶に残り、願いが届くものはほんのごくわずかだ。残りはすべて君の手を離れ、時の彼方へと消えていく。そして彼らは決して君達を許さない。彼らの怒りは君達を永劫に燃やし尽くしたとしても消え去るものではないからだ」
「彼ら……」
「君を導くいくらかの可能性のうち、すでに過去は使い果たした。だが君にはまだ希望がある。たとえ彼らがすぐ隣に存在する世界であろうと」
アザゼルから手渡された何かを、戸惑いながらも夕季が受け取る。
それを見届けると、アザセルは心からの笑顔で夕季を見送った。
「今日と明日、そしてその先へと続く未来のために……」
その直後、光が割れた。
そこからあらわとなる空竜王の姿を、誰もがまばたきもできずに見守るだけだった。
ほんの一瞬の出来事だった。
時間にしてわずか数秒。
そして何事もなかったかのように、プログラム・アンノウンは消滅したのである。
時は、午後六時六分九秒を刻んでいた。
拍子抜けしたように軽口を叩き合う周囲から離れ、げんなりした様子で夕季がロッカールームへと向かう。
それを追いかけ、桔平が呼び止めた。
「結局、何だったんだろうな。プログラムとして認定されていたわけでもないし。ダミーだったてのか、なあ。おい、夕季……」
桔平の表情が豹変する。それから真顔で夕季を見据えた。
「なんて顔してやがる」
「……」
「何があった」
「……。アザゼル……」
「は?」一瞬のうちに桔平の顔色が変わる。「今なんて言った、おまえ」
「……何でもない」
それ以上夕季は何も答えようとはしなかった。
ただ疲れた身体を一刻も早く休めたいとだけ思っていた。
触れてはならない何事かを夕季の表情から感じ取り、桔平がそこから立ち去ろうとする。
すれ違うように笑顔の忍が現れた。
桔平同様、夕季の顔を見て、忍の顔が一変する。
そして入室した時とは別人のような厳しい表情で、問いただすようにそれを口にした。
「何があったの」
「……。何もない……」
「嘘おっしゃい」
「……」
忍の顔を見つめ、夕季が拳をぎゅっと握りしめる。
見かねた桔平が間に入ろうとしたが、忍の真剣な表情と夕季の泣きそうな顔を見比べて思いとどまった。
しばらくして様子を探るために再び桔平が訪れると、開け放たれたロッカールームのベンチの上で、忍の腿に突っ伏すように夕季が眠っているのを見た。
まるで泣いているようにも映る夕季のその頭を、忍はいとおしそうに撫でていた。
ふいに夕季の身体に毛布がかけられ、忍が顔を向ける。
そこには神妙な面持ちの桔平の姿があった。
「すみません。もう少ししたら帰りますから」
取り繕うようにそう言った忍に、桔平がかぶりを振る。
「今日はここに泊まってけ。好きな部屋使っていいから。明日は学校も休ませろ。俺が連絡しておいてやる」
「すみません」
「おまえもだ」
「は……」
「特別休暇だ。二人でゆっくりしろ」
「ですが……」
「言われたとおりにしねえとクビにするぞ。そのかわり今回は図書カードなしだってこいつに言っとけ」
「……すみません」
「……。何か言ってたのか」
「いいえ、何も。……でも」
桔平に問われると忍は申し訳なさそうに笑い、また夕季の頭をいとおしそうに撫で始めた。
「わかりますよ。この顔を見れば」
「……」
「誰かに呼ばれたような気がして振り向いたこと、ありませんか。私はあります。とても悲しげで、切なそうな呼びかけでした。綾さんも同じことを言っていました」
その問いに答えず、桔平はただ忍の顔を見つめていた。
その今にも崩れ落ちそうな、悲しげな顔を。
「振り返る時、その人の顔を想像するんです。それが、さっきのこの子の顔にそっくりだったんです。まるで悲しみしかないその世界に自ら戻ってきたような顔です。ひょっとしたらこの子、本当ならば二度と戻ってこられないような場所から、帰ってきてしまったんじゃないでしょうか。そんなふうに思えて、仕方がないんです」
「……」
「……桔平さん」
何も言わずに退出しようとした桔平が、忍に呼び止められ足を止める。
「変なこと言います。もし私達がいるこの世界が現実ではなく夢の世界か何かで、本当の現世が地獄だとしたら。それでも、安らかな眠りを捨ててまで、愛する者のためにもとの世界に戻りたいと思いますか。そこに悲しみしかないとわかっていながら」
「……さあな。俺にはよくわからん」
それだけ告げて桔平が部屋の外へ出て行く。
忍は何も言わずに夕季だけを見つめていた。先へ続くはずの言葉を想像しながら。
『愛する者達がただ苦しむだけの世界へ……』
その想いを自分の胸に残したまま。
了