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第三十八話 『テスタメント』 14. テスタメント

 


 夕季が振り返った。

 二人が互いの吐息を感じ取れるほどの距離で向かい合う。

 白き空間の中に時おり浮かびあがるその顔は、滅びゆく世界の長老によく似ていた。

 あの少女にも、少年にも。

 若くも、幼くも、そして夕季のすべての知り合いのようにも見える。

「何故私が。何故今それを決めなければならないの」

「君だけではない。誰にも等しく選択の機会は巡ってくる。存在するすべての命が君そのものであり、別のものでもある。君達は無限であると同時に、たった一つですらないのかもしれない。確かなのは、今、この時に、選択のありかが君にめぐってきたということだ」

 禅問答のようなアザゼルの回答に、夕季が眉を寄せる。

 たとえすべてを理解できたとしても、それが夕季本人の望みであることを証明する術がないからだ。

 それすらも見透かすようにアザゼルが笑った。

「すべてのあるべきものが必ずどこかで選択をしている。或いは生まれる以前か、或いは死んだのちか。或いは、遥か永劫の先にある輪廻の彼方か。それを記憶としてとどめられるのか否かは、前世そして来世にいたるまで、永遠にたどる必要がある。誰もが必ず選択の義務を負わなければならない。そして今が君のその時なのだ」

「……」

「この宇宙のどこかに、必ず君が求める世界がある。何よりも欲し、進むべき姿と未来の形が。君が望むのなら、君自身が理想とする世界へ誘うことも可能だ。死という概念がない世界。すべての生きとし生けるものが穏やかに幸せに暮らせる世界。そこにいる誰もが君のことを愛してくれる世界もある。誰もが君を信頼し、君のために笑う。もう二度と会えないと思っていた者達が君を優しく迎え入れてくれる。そこに偽りの心などは微塵もない。それは常に一つのつながりなのだ」

 会ったこともない父母の顔が脳裏に浮かんだ。

 すでにこの世にない、陵太郎やひかるの顔も。

 どこか見覚えのある眼前のまなざしを見つめ返し、眉一つ揺らさずに告げた。

「それは私の知っている人達ではない。私が本当に守りたい人達ではない。私が理想だと願う世界が他に存在したとしても、それは私の世界とは違う。そこにいる私も、本当の私ではない。もしそこに今の私が存在し続けるならば、その世界も、私の存在自体も意味がない」

「意味のないものなどどこにもない。この世界に起こっていること、存在するものには、すべて意味がある。すべてが必要であるからこそそこにあり、すべてが未来へとつながっていく。君にとっての未来へ」

「あなたが私に見せたものは幻だったの」

「そう思いたければそれでもいい。大切なのは、君にとってそれが自分を保つために必要な選択かどうかということだ。君の望みは必ず受け入れられるだろう。だがその先にある願いがかなうかどうかは、これからの君次第だ」

「あなたは、プログラムではないの」

「そうかもしれない。しかしそうでないのかもしれない。私は君達と同じであるとともに、君達の通念や概念では決してとらえられない異なるモノでもある」

 その危険な笑みから、夕季は顔をそむけることができなかった。

「刹那とも永遠とも呼べぬ時の中心で、君だけが無数の次元を見守ってきた。その中で最後まで切り捨てられなかったのが、心の奥深く突き刺さった世界であり、或いは望まずとも求めた世界なのかもしれない。そこには守るべき者のために戦うことを選んだ君の意志があり、望めども心のどこかでそれを受け入れられないものだと拒絶する求めてはならない世界もある。そして或いは、君達自身がプログラムと呼ばれる世界も存在するのかもしれない。それも一つの選択だ。すべてが真実であるとともに虚無でもある。それは君自身の可能性であり、無限なる宇宙の可能性でもあるからだ」

「あなたは……」

 夕季の問いかけに、アザゼルが意味ありげに笑う。

「私は無だ。ただその領域を知っているにすぎない。答えはすでに君の中にある」

 すべてを受け入れることはできない。

 だが受け止めるしかなかった。

 今目の前にあるものが真実である以上は。

 これまでに夕季が見てきたものは、多元宇宙の中のほんの一部なのかもしれない。向こうの世界のひかるが言うように、ほんの少しだけ軸がそれた世界。そしてそのパラレルワールドすべてを、アザゼルが包括しているのだとしたら。

「もし私が少しでも他の世界にある何かを羨ましいと思ったのなら、それは自分達の世界で作り上げた価値観に基づいた羨望であるはず。現実から逃げたくて目をそむけようとしているだけ。満たされない現状を認めたくなくて、見て見ぬ振りをしているだけ。それを否定して、今だけの感情に従って他人の持つ幸福を求めてしまえば、どの場所にたどりついたとしても、永久に心が満たされることはない。私達の住む世界が誤りだらけの愚かな世界だと言うのなら、その愚かな誤りを正す責任が私達にはある。私はそう思う。もしあなたが差し出すそれを受け入れられるのならば、今の私の心が存在する理由はなくなる。その世界に私が残る必要はない」

「君は自分の存在する世界すべてを自分自身のことのように語り、その反面でたった一つの命の尊厳すら見失うことはない。それは矛盾であると同時に、一人の人間のおごりでもある。君は人類の代表者でも、ましてやその責任者でもない。必要なのは一人の人間として、己の心に背かない選択をすることだ。むしろ君の尊い決断によって、報われることのなかった存在が救われることにもなる。ならば君の求める選択は、意味もなく自虐的な苦痛を受け入れようとしているだけではないのか」

「どの選択をしたとしても、その世界そのものが救われるわけではないはず。自分一人が逃げ出すために他の人達を見捨てることはできない。世界を作り直すのではなく、私一人だけがそこからすりかわれるのがそうだと言うのなら、それは私の求める世界じゃない」

「それが自分のみならず、他者への苦痛をともなうものだとしてもか。君の愛する者達の心の内すら汲み取ることなく」

「わからない。でもそれを受け入れてしまえば、もっと大切な何かを否定してしまう気がする。気高く生きて私達に大事なことを教えてくれた人達の心を踏みにじるような真似は、私にはできない。もしそれを受け入れてしまえるような私達なら、きっと、どの世界にいても先に進むことはできない」

「君は自分一人の幸福を人類全体がそうでなければ成り立たないものと捉える反面、自分一人の不幸などは取るに足らないものだと考えている。その上で君と接する者の不幸は、人類全体の不幸と同列だとすら感じている。その思想は君達の世界を構築する上で致命的な欠陥でしかなく、君の求める望みをかなえる上での障害でしかない。ゆがんだ理を正し、理想に近づけることこそが、君にとっての幸福ではないのか。誰よりも強く平和を望みながら、何故求めようとしない。何故己の心を偽ろうとする。争いの一切ない世界が存在するのに、それを求めないのは愚かだとは思わないのか」

「わからない。それが本当の平和や幸せなのかどうかすら」

「君を含むすべての人間が同じ理想を追い求める世界が存在するとは考えられないのか」

「それはきっと、今の私達には触れることもできないような場所にしか存在しないはず。私が私でいられなくなるほど遠くにある場所に。何故なら、私達はあなたが望むような存在ではないから」

「そこには己の求めるものは何もないと言うのか。たとえ罪と人とその際限なき業にまみれても」

 一旦言葉が途切れる。

「君が切り捨てようとするもの、捨てきれないもの、そして拾い上げようとするものに違いはない。もしそれらのすべてを救いたいと心の底から願うのならば、本当にすべきことは君にとって真なる幸福を求めることだ」

「それはそれぞれの世界に存在する私達に与えられた、それぞれの幸福であるはず。たとえ小さくても、どの世界にも希望はあるはずだから。私は彼女達の希望を奪うようなことはしたくない。きっと他の世界の自分もそうするはず」

「君がそれを選択した瞬間に、君の抱いた記憶の残りすべてが消滅する。交わした言葉のことごとくと同様に。消えてなくなるものを何故気にとめる必要がある。可能性であるということ以外には、夢ですらなく、君の記憶の片隅にも残らず、永久に浮かび上がってくることすらないものであるのに。君がそれまですごしてきた世界も同様に、多元であることや、平行であること、そしてそれらが同一の融合体であることなど、君達には到底理解できないはずであるのに」

「どこへ逃げても、元の世界の痛みは決してなくならない。私の心の中でいつまでもしこりとなって残る。そしてその違和感はいつか傷跡となって浮かび上がってくるはず」

「刹那の快楽のみに身をゆだねることをよしとするならば、君の今は何ら意味を持たない。過去から未来へのつながりを断ち切るだけの稚拙な行為そのものだ。それは時に愚かであり、時には正しい。しかし今の君にとっては、無意味であることが明白だ」

「もし今というものが本当に存在するのなら、その一つ一つのかさなりこそが過去や未来となるはず。その今を拒んでしまえば、これから先にあるものこそ私にとって何ら意味がない」

「何故だ。何故そう思う。君は過去を信じ、希望を信じる。だのに何故、そこに己のありかを求め、未来を求めないのか」

「どこへいこうと、自分一人だけが逃げた事実はなくならないから。それを忘れることを、私自身が拒み続けるはずだから」

「何故そんなに己を痛めつける必要がある。自ら苦しみの中に身を投じる必要がある。それは人の決断ではない。その選択を拒む理由は愚者であるからという他にない。君の愚かな選択が、君のまわりの多くの命を傷つけ苦しめることにもなる。それでいて尚も、愚かな己であり続けたいと願うのか」

「私達自身が変わろうと願うのと、ただ私達が変わってしまうのは違う。目の前の苦痛から逃れるだけのために今の世界を否定するのならば、きっと何も変えられない。その無意味な夢から覚めるまで、ただ目を閉じているのと同じこと。そしてまたいつかは元の場所へと戻っていくはず。そこにいるべき人を押しのけて得た幸福なんて、本当の幸福ではない。それはその場所にいる彼女達のものだから」

「何故そう考える」

「あなたは言った。誰もが選択をする時がくると。それは無数の世界にいる私以外の人達にとっても同じはず。無限の世界に存在する一人一人に、それぞれの選択肢がある。その中で私を含めた、私の知る人達、知らない人達が選んだのが、もとの私がいた世界。私が見てきた別の世界の人達も同様に、その世界の一人一人が求めたからそれが存在する。その世界を構成する一かけらの命として。きっと私も、多くの可能性の中から自分が存在する世界を選んできたはず。あなたは嘘をついた。私の選択は、すでに終わっている。すべての世界は存在している。その彼らが求めて得たものを、別の選択をした私が勝手に奪ってはいけない」

 静かに告げた夕季の顔を眺め、それでもアザゼルは眉一つ動かそうとはしなかった。

 まるですべてを予見していたかのように。

 そしてそれすらも承知ずみだと言わんばかりに、夕季も心穏やかにつなげて言うのだった。

「あなたの言うとおり、私は愚かで賢くない。それがわかっていながら、あなたは私に問答を仕向けてくる。私があなたの望む答えを出せないことを知っているはずなのに。それはきっと、あなたが私を救おうとしてくれているからだと私は考える。数知れない私が存在する中で、この私だけが新たな選択の権利を持つことができる理由は一つ。私達の世界にだけ、あなたが存在しているから。理由はわからないけれど、あなたが私を、私達の世界から救い出したいと思っているから」

「君を逃がすためだけに私がその取り決めを破ろうとしていると、君はそう言いたいのか」

「わからない。でもこれだけははっきりとわかる。私が選択をすべき時は、今ではないと。たとえどこへ逃げたとしても、私が私である限り、いつかは同じ結末を迎える。その取り決めだけは、決してなくならない。それはあなたが一番よくわかっているはず」

 頷くでなく、否定するでもなく、アザゼルが口もとにかすかな笑みをたたえた。

「君は頭がいい。のぞむべきものは、決して『世界』そのものではないからだ。だが君がそれをのぞむことを咎めるモノはどこにもない。私が拒みさえしなければ。君達の言葉を使い、わかりやすく伝えよう。君達の世界は地獄だ。もしそこから逃げ出す術があるのならば、それを拒む理由はどこにもない。そしてそれを責めるものもない。愛するものすべてがなくなるだけの未来を望む理由など、誰にも見つけられはしない」

 その時、夕季の中から怒涛のごとく記憶があふれ出た。

「!」


           *


 イヨリ達と笑い合う夕季の姿があった。

 姉のように慕い話しかけるカノルの頭を、腰に剣を携えた夕季が嬉しそうに撫でる。

 リョトウ達とともに戦士として認められ、強きまなざしと笑顔で仲間達を見守るその顔は、何があろうと決して折れることのない強さと優しさに満ちていた。


           *


 真剣な表情の茜がそこにはいた。

 トライアルで夕季に敗れ、悔しそうに唇を噛み締める。

『あかね……。ねえ、もし私が……』

『ストップ』

 心配そうに近づいた夕季に、噛みつくようなまなざしの茜が振り返った。

『それ以上言ったら駄目。私達はなれあうために競い合っているわけじゃない。お互いを憎んででも、それぞれが高め合う関係でいなければ意味がない。こんなことでいちいち関係を修復しなければならないのなら、顔も見るのもわずらわしいだけだよ。わかってるよね』

『でも……』

『あなたが私の憎むべきライバルであるのなら、することは一つだけでしょ』

『……。どうすれば……』

『なんかおごれ!』

『……』

 夕季がふっと笑う。

 その顔を見て、茜も笑ってみせた。


           *


『こらー、穂村ー!』

 夕季にたしなめられ、苦虫を噛み潰したような表情で光輔が振り返る。

 ぶすっとふて腐れる光輔の顔を、嬉しそうに笑って夕季が見つめた。

『はい、穂村君』

 夕季から差し出されたハンカチを光輔がバツが悪そうに受け取った。

『んだよ、君づけなんかしやがって。気持ちわりい』

 それをあふれんばかりの笑顔でいなす夕季。

『いいことした時くらいはね』

『はあー!』


           *


 カラオケボックスで眉間にしわを寄せて熱唱する夕季の姿があった。

『あっははは、ゆうぽんねっしょー! はら、ねじ切れそー!』

『おだまり、みずぴー!』


           *


 それは流れ込むようなものではなく、思い出したわけでもなく、もとより夕季が持ち得る記憶そのもののようだった。

 夕季が知る人間達と共有する現実の記憶として、すべてが確かに存在した証として。

 あたかもあらかじめそこにあったといわんばかりの取り決めのように。

 多くの想いに抱かれ、夕季が心地よさげに微笑む。

 そのすべてを何事もなかったかのように断ち切り、淀んだ暗闇に振り返った夕季がアザゼルに笑いかけた。

「たとえどれだけ遠回りをしてもかまわない。私は帰りたい。あの場所へ……」




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