第三十八話 『テスタメント』 13. アザゼル
とぼとぼと重い足取りで夕季が家へと向かう。
打ちひしがれ、さらに勢いを増した雪が頭に降り積もっても、払う気力すらなかった。
ひかるの言葉をいつまでも引きずっていた。
それは夕季の心の中に楔をつき立てた。
考えたことがなかったわけではない。だが心の奥に封じ込めた問いかけを思い起こさずにはいられなかったのである。
どうして戦わなければいけないのかと。
その答えはすでに出ている。
戦う理由があるから。
ならば戦う理由がなくなったのだとしたら。
たとえ嘘にまみれた世界であれど、満たされながら最期を迎えることができるのならばそれも一つの選択であるはずだった。
真実という檻に囚われ、苦しみだけの世界を求めることだけが必ずしも正しいとは限らない。
誰もが死を迎える時、安らかでありたいと願うはずであるのだから。
無論、その定義は直接的なものだけでなく、人それぞれ異なるものであろう。
少なくとも夕季の中の安らぎは、大切な人達の苦しみを見届けながらはつるものでは決してなかった。
愛する者達の苦しみにまみれた最期を看取らなければならないのならば、たとえまやかしであったとしても笑いながら消えてしまいたい。
誰もがそれを願うのならば、なおさらのことだった。
そこまで考えた時、玄関に辿り着いていたことを知った。
アパートのものとは違う形の鍵を差し込み、重い鉄のドアを開ける夕季。
「遅かったじゃない」
頭の雪を払うより先に、はつらつとした忍の声が飛び込んでくる。
その興奮気味のわけを、夕季は次の忍の言葉で理解した。
「お母さん、帰ってくるんだって」
「……いつ」
「今日だよ」
惚けていた夕季の目がカッと見開かれる。
「……お母さんが」
そのリアクションを満足そうに眺めて、忍は上機嫌でキッチンへと向かった。
「お父さんは無理みたいだけど、お母さんだけは帰ってこれるって。少しの間だけれどね」
動くこともままならない夕季に向け、キッチンから忍の声だけが重なる。
「突然だからびっくりしたよ。お母さんのことだからどうせドッキリでも狙ってたんだろうけど、根性足りないから黙ってられなかったんだね。しようがないから、今日は急遽、お母さんの好きなシーフード・カレーにしよう」
「……」
「一年ぶりだよね。せっかく久しぶりに帰って来るんだから、そんな顔してちゃ駄目だよ。心配するから。今、雪、降ってるよね。ちゃんと帰ってこれるかな」
突如として鳴り響くチャイムの音。
その後すぐさま、知らないはずなのにどこかで聞き覚えがあるような声がとびこんできた。
「ただいま」
忍がキッチンから顔だけを出す。
「あれ、もうきちゃったか。は~い、ちょっくらお待ちを」
それから、いまだ茫然と玄関先に立ちつくす夕季に目をやり、顎をしゃくった。
「夕季、鍵、開けてあげてよ。笑顔でね」
忍の声に呪縛を解かれる夕季。
はっとなり、口もとを結んでドアへと向かった。
不慣れなのと焦っていたせいもあって、がちゃがちゃと何度も鍵開けに失敗する。
ガチャリとドアが開き、わずかにのぞく隙間から母親の手だけが見えた。
「すごい雪だよ、もう。どうして今日に限って。あ、荷物、そこに置いてください」
「……お母さん」
「ただいま、夕季。元気にしてた」
扉が開き、母の微笑む口もとがあらわになったその時、背後からの雪の吹き込みと激しい光の照射に、夕季は手をかざすはめになった。
「お、母さん……」
目覚めた時、そこは一面が暗闇に閉ざされた死の世界だった。
廃墟となった暗黒の世界の中、多くの知った顔が雪の上に死体となって転がっているのを確認した。
わけがわからず、あてもなく夕季が歩みを進める。
誘われるように辿り着いた先は、見覚えのある公園のようだった。
何度もひかると話した公園。
光は途絶え、雪だと思っていたそれが、降り積もった灰や塵だということに気がついた。
「古閑、さん……」
かすかに聞こえたその声に反応し、夕季が神経を研ぎ澄ませる。
すると瓦礫と灰に埋もれた屍達の中に、みずきの姿を見つけた。
「みずき!」
クリスマスの残骸の入り混じった瓦礫を押しのけ、みずきの身体を抱き起こす。
みずきはすでに虫の息で、満足に目も開けられない状態だった。
「……やっぱり、古閑さんだった……。よかった、生きてたんだ。どこいってたの。あたし、すっかり……。あはは……」
「しっかりして、みずき!」
みずきの心に夕季が呼びかける。
が、その声すらみずきには届くことがなかった。
「穂村君、さっき死んじゃった。霧崎先輩も、みんな……」
「!」
「これ、返さなくちゃって思って……」
みずきが差し出した手の中には、ガイアストーンがあった。
「実はさ、ひょっとしたら最後の最後に神様が助けにきてくれるのかもって思ってたんだけど、やっぱり駄目だったね。あまかったな。古閑さんが言ってたとおりだった。やっぱり私達、神様に嫌われてたんだ。あいそをつかして出ていったのに、わざわざ嫌いな私達を助けになんかきてくれるわけないよね。私達だって死にそうになってる虫なんかを助けたりしないもの。ひょっとしたら……」
「……。みずき!」
「……どうしてこんなことに、なっちゃったんだろ……」
何も遺せずに静かにみずきが息を引き取る。
みずきの手のひらから転がり落ちた緑色の石を目で追い、夕季が唇を震わせてその亡骸を抱きしめた。
『夕季……』
「!」
ストーンから響く聞き覚えのある声に、夕季がカッと目を見開く。
「お姉ちゃん! お姉ちゃんなの!」
それ自体が小型の通信機になっているようだった。
『夕季……、無事だったんだね。よかった、あなた達だけでも逃げることができて』
「……」
『ゆう、き……』
「みずきはもう……」
『そう……』
「お姉ちゃん、今どこにいるの!」
『私は基地の中』
「待ってて、すぐにそっちに……」
『駄目!』
「……」
『すぐ目の前まで迫ってきている』
「!」
『桔平さんも木場さんもいなくなった。三田さんも。ここには私しかいない。もうすぐここもなくなる。この世界は地獄だよ、夕季』
「だったら私も!」
『駄目だよ。あなたや光ちゃん達がいてくれれば、私達はまだ戦うことができるかもしれない。だから、命がけであなた達を逃がしたの』
「……」
『あなた達はこの世界の希望なんだよ。わかって、夕季……』
「そんなのどうでもいい!」一気に感情があふれ出す。「お姉ちゃんと一緒がいい。誰もいない世界に一人だけ残るのはいや。一人きりの世界で求める希望なんていらない。私も一緒に……」
『いい加減にしなさい!』
「あ……」
『怒鳴ったりしてごめんね、夕季。わかってるよ。結局、あなた達を苦しめる結果になっただけだった。ずっと大人達が身勝手な理由でエゴを押しつけてたことも。でも私は、本当に失いたくなかったの。あなたの笑顔を』
「あ、あ……」
『もう二度と見られなくなるはずの笑顔がまだそこにある。それが私の希望だった。最後まで戦い抜こうとする力をくれた。でも、あなたにとってはそれも迷惑なわがままだったんだよね。苦しくてつらいだけなんだよね。本当にごめん。それでも私は、あなたにだけは生きていてほしかった。たとえあなたから恨まれたとしても』
「おねえ、ちゃん……」涙の濁流。「わたしの希望も、お姉ちゃんの笑顔だった。ずっと……」
『そう……。ありがとう、夕季……』
夕季がのどを詰まらせる。
そこにはっきりと忍の笑顔を読み取ることができたからだった。
『おかしいね。毎日見ていたはずなのに、今またあなたの笑顔が見たくてたまらない。でも二人ともいなくなってしまったら、きっと何もかも消えてしまうんだろうな。だからあなたには生きていてほしい。あなたさえいれば、いつかまた会えるような気がするから。ここ以外の別の世界でかもしれないけれど、きっと必ず。きっとそうだよ。必ず会える。あなたが前に進みさえすれば。それまでは、しばらくお別れだね』
「お姉ちゃん!」
『じゃあね、夕季……』
強烈な破壊音とノイズ。
そして訪れる静粛。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
『……』
「お姉ちゃん!」
漆黒の荒野に夕季の絶叫だけが響き渡っていた。
ふいに訪れるノイズに耳を塞ぐ。
『ア……ゼ……』
あふれ出る涙に視界がぼやけるその果てで、大きな暗黒の塊に世界が押し潰されようとしていた。
『ア……ル……』
暗闇の中、何も身にまとうこくなく、夕季はそこに立ちつくしていた。
完全な闇ではない。
正しくは、はるか彼方に瞬く無数の星達を見下ろしながらだった。
まるで宇宙にあるすべてを従えるように。
「これで君だけが唯一つの存在となった」
どこからか聞こえてくるその声に夕季が耳を傾ける。
振り返ることはなかった。
夕季にはその声の主がわかっていたのだから。
「永劫の時の果て、今、君という存在だけがここに残った。ここでは君にのみ選択権がある。無数に示された可能性の中から一つだけを選択する権利がある。ここにある世界は、すべてこの時のためだけに、君の選択肢として存在したものだからだ。すべてを否定すればことごとくが消滅し、君の存在した宇宙だけが今までどおり残る。それ以外を求めれば、望んだ世界以外が消滅する。当然、君達のもとの世界も。誠意なき答えであったとしても君の選択を尊重し、そのすべてを受け止めようと私は決めている」
「ここはどこなの」
「答えられない。それを理解する概念が君には存在し得ないからだ」
「……。ここは……。今は……」
「過去でも未来でもない。今としか言えない。君には今を選択する権利が生まれた。心でも身体でもなく、君の存在自体がそれを決める権利を得た」
「……」
光が流れ落ちる。
それは一つの星の消滅を意味していた。
或いは世界の。
「何故それを私に……。答えて」そして誰に聞いたわけでもなく、それを口にした。「アザゼル」
理由はわからない。
ただ夕季の意識の底から起き上がった名だった。
すると、白き影なる存在、アザゼルがかすかに笑みをたたえた。