第三十八話 『テスタメント』 12. ひかるの願い
「ぷは~、きく~!」
先の公園で前回と同じようにひかると並び、夕季がコーンポタージュに口をつける。
最初に飲んだ時ほどおいしいとは感じなかったが、より温かさを感じていた。
それもそのはず。
「あれ。雪だね」
ひかるの声に惹かれるように目を向けると、空から粉雪が降り始めていたのだ。
「どうりで寒いと思ったよ」
ぶるるっと身を震わせ、ひかるがマフラーを巻き直す。
「やっぱり、喫茶店とかに行く?」
「いえ、ここでいいです……」
明かりに照らされる雪の舞が、スポットライトに照らし出されるように幻想的に煌いて映っていた。
「そう」
それを別段嫌がる様子もなく、ひかるが嬉しそうに笑いかける。
それから、ほっ、ほっ、と白い息を吐き出しながら、突然自分達の両親のことを話し始めた。
「私達の両親ね、災害で逃げ遅れた人達を助けるために出ていって死んじゃったの。遺体も見つからなかったんだけれど、だからといって私も弟も二人が生きているとも思っていなかったな。別にあの人達が自ら死を選んだとか、覚悟を決めて出ていったからだとか言ってるわけじゃないよ。でもわかるんだ。あの人達は当たり前のようにそうしていたから。きっと一人でも逃げ遅れた人がいたら、最後までそうしていたはずだから」
「……」缶を両手で抱き、夕季がひかるの顔に注目し続ける。
それに応えるように、ひかるは嬉しそうに笑ってみせた。
「お父さんね、まるで朝起きて仕事にいくみたいに、行ってくる、って言って出ていったんだよ。お母さんはそんなお父さんを玄関先まで見送るようにごく自然とついていった。結局それが二人の最期の言葉になったわけなんだけれど、私も弟も二人のそういうところを知っていたから、それを当然のように笑顔で見守っていたの。本当は今にも泣きそうだったんだけれどね」
じっと見つめる夕季の視線から逃れるように、ひかるが目をそらす。
「やっぱり、あなた達の世界とは違うのかな」
「私が聞いていた話とは違う」
「……だよね」
「その時光輔は、わんわん泣いていたって」
「……」
嬉しそうに笑って、ひかるが夕季を見つめ返す。
「そっか」
夕季はライトに照らされたその顔が眩しくて、目を細めながら続けた。
「そうお姉ちゃんから聞いた。だからひかるさんは、自分もそんなふうになれたらいいって、いつも言っていたって」
「そっか……」自嘲気味に笑い、また夕季から顔をそむけた。「そこはちょっと違うかも。私や弟じゃ、あの人達みたいにはなれないから」
「同じだと思う」
「?」
「同じだと思います……」
そう言って照れたように顔をそむけた夕季を眺め、ひかるが残りのポタージュをくぴくぴと飲み干した。
「そうかもしれないね」
そして、にこっ、と笑う。
「どんなに世界が違っても、絶対に変わらないものもあるのかもしれない。お父さんやお母さんみたいに。きっとあなたの心も、何も違っていないんだよ。私は今のでそう確信した」
「光輔は、私の知っている光輔とは、まるで違っていた。……たぶん、ひかるさんも」
「あなた本人もね」
「……」
「みんな、あなたが変わってしまったことを心配している。あんなに明るくて活発だったのにどうなってしまったんだろうって。あなたと私達の知っている古閑さんは別人なのに、誰もそうは思わない。ただあなたが変わってしまったと考えるのが自然だから。こんなことを言っている私ですらね。でも、まだ戸惑いながらだけれど、みんな、ごく自然にあなたを受け入れようとしている。昔のあなたを取り返そうとするわけでもなく、今のあなたを否定するでもなく、ありのままのあなたを。これがどういう意味なのか、わかる」
「……」
「あなたはすでにここの人間なんだよ。彼らの、私達の大切な仲間。敵だとか味方だとか、そんな小さなくくりでははかれない、あなたという存在がかけがえのないものであることを知っているから」
「でも私は……」
「もしあなたが私達のことを知らないのなら、これから知っていけばいいじゃない。みんながあなたのことを知っていて、大切な存在だと思っているのは間違いないんだから。存在しない記憶を取り戻すことはできない。でもみんなの心の中にあるあなたへの想いは、あなたの記憶そのものだよ。そのことはわかってほしいの。あなたが言うことが真実ならば、もしかしたら私達は争いを避けられない関係なのかもしれない。それでもこれだけは理解してほしい。誰も決して好き好んで争っているわけではないことを。何の意味もなく、騙したり欺いたりしているわけではないことを。あなたが元の世界に戻れたのなら、こんな記憶は邪魔になるだけなのかもしれない。だけど、私達もあなた達も、きっと同じ心を持っているに違いないから」
返す言葉もなくうつむくだけの夕季をちらと眺め、ひかるがわずかに目を細める。
「前に、この世界があなた一人の夢なのかもしれないって言ったよね」
「はい」
「それを証明する根拠はない。否定する理由も。もし私があなたしか知らない質問に答えたとしても、私自身があなたの分身ならば知っていて当然だから。逆に的外れな回答を出したとしても、ここがあなたとは別の時間軸を持った世界である以上、何一つ否定できない。あなたはただ夢の一部としてとらえるだけ。でも、今ここにあるものすべてが、私やあなたが、決して夢ではない確実な理由がある。もしこの世界に存在するものが夢であるのならば、あなたはこの世界を受け入れていなければならない。何故なら、夢を見ている瞬間に、人はその夢に対して疑問を持つことがないから」
「……。それすらも包括した、私自身が望んだ夢なのだとしたら……」
「だったら目を覚ませばいい」
「!」
「そこまで理解できているのなら、あなたは自らの意思で目覚めることができるはず」
「……どうやって」
「理由なんていくらでもあるでしょ。朝がくるだけで、人はそろそろ起きなければと感じる。学校に行くため、人との約束のため、目的のため、今日一日をしっかりと生きるため。でもそのどれよりも、あなたには目を覚まさなければいけない明確な理由があるはず。私達には理解できない、あなたにとっての理由が。もしその上で、あなたがそれを自分の意思で行えないのならば、或いは、あなた自身が目覚めることを拒んでいる可能性があるかもしれない。残酷な言い方だけれど、目が覚めた瞬間に自らが死を迎えてしまうことに気づいてしまっているから、とか」
「……すでに私が死んでいるかもしれないってことですか。この世界のなんらかの力によって。……敵である私を封じ込めるために」
「……」
じっと見つめ続ける夕季から、ひかるが目をそむける。
その表情の持つ違和感に背中を押され、夕季が封印していた言葉を口にした。
「異文明って……」
そろりとまなざしから顔を差し向けるひかる。
夕季の発したその一言で、何を求めているのかに気づいたようだった。
「そんなもの、ない。この世界の反対側に、あなた達の住む世界なんて実在しない。だから、あなたと私達が敵対することは、絶対にありえないの」
「!」
衝撃につつまれる夕季。
薄々予想はしていたが、ひかるがそれをはっきりと口にしたことがショックだった。
それすらも見抜き、ひかるは心を痛めるように先へとつないだ。
「異文明の存在は、この世界を一つにまとめるために必要なまやかしなの。それがこの世界のただ一つのひずみであり、決して治癒することのない死の病でもある」
「……どういうことなんですか」
「この星には、私達が知っている他にもいくつかの大陸が存在する。あらゆる経路や航路からはずされ、誰もそれを直接見たことも行ったこともない言い伝えだけの世界。なぜなら、そこを目指した人間で無事に帰ってこれた人は誰もいないから。人工衛星からの探知も除外されているから、地図上に表されることもない。厳密に言えば、人が存在できない世界と表現した方が正確かもしれない。そこでは毎日のように地殻変動と火山帯の爆発が繰り返され、この国と同じ幅を持つマグマの通り道の上を、山を削り取るような大嵐が頻繁に訪れる。一メートル先も見通せないような蒸気にまみれた大地は、日中は八十度を超える灼熱地獄なのに、夜になれば一瞬で人間が凍りつくような死の世界へと変わる。まさしく地獄としか言い表しようのない場所。そしてそこから、この星が確実に破滅を迎えようとしていることも、この世界の人達は知っている」
「!」
「最初の診断ではこの星の寿命は、約二千年だった。自分達の今に直接の影響はないだろうけれど、その先へと続く未来のために努力しようという気持ちが私達人類にも自然と芽生えた。あくまでも芽生えただけだけれどね。だって二千年も経つうちには、きっと科学も目まぐるしいほどの進歩を遂げるだろうし、その時、その場に立つ彼らにすべてを任せた方が現実的だから。私達は最後の日のことをいつからか『約束の日』と呼び始めた。世間一般ではそれを、異文明からの開放の日だという意味合いでとらえているはず。でもそれからすぐに、測定の見直しや地殻変動の急変によって、自分達の未来すらも危ういと感じ始めたの。それが残された猶予が二百年を数えだした頃。それからもこの星の寿命はみるみる縮まって、残りが百年を切った頃になって、ようやく背中に火がつきだした。そうこうしている間にも約束の日までの猶予はどんどんせばまり、あと五十年も余力がなくなった頃ようやく人類は気づいたの。自分達には未来はおろか、明日さえも保証されていないことに。そして、今ですらも。誰も口にはしないけれど、薄々はみんな気づいているはずよ。あなた以外は」
衝撃の事実に言葉もない夕季。
それを知り、なおもひかるは補足しなければならなかった。
「私達は真実に気づいた時からあえて、人類の希望の象徴として、それらを異文明としてとらえてきた。大地震や落雷を、無理やり外部からの攻撃だと思い込もうとしてね。まるで病気に怯える獣のよう。異文明駆逐兵器と称した地殻の破壊を食い止める方法を模索し続けてはいたけれど、それが無駄であることは誰もが知っていた。もはや、この世界の崩壊は防ぎようがないところにまできてしまった。それを知りながら、私達はまやかしの希望にすがって生き続けることしかできなかったの。おそらくは、専門的にそれを学んだ私達の他にも、かなりの人達がその本質をとらえているはずよ。あなたのご両親もそう。でも私達はそれを知りながらも、笑いながら破滅を迎えることを選択した。悲観に暮れ怯えるだけの未来よりも、まやかしでも希望を持つ最期を選んだの。それがいつなのかはわからない。一年後か、ひょっとしたら百年先までもつのか、もっと先か、或いは明日そうなるのかもしれない。わかっているのは、それが近いうちに必ず訪れるということだけ。この世界はミルクの上に浮かべられたクッキーと同じ。いつかは端から崩れていく。私達にできることは、それをなるべく刺激しないようおとなしくしていることだけ。約束の日がくるその時まで。ある日突然地球が真っ二つに割れる。なんの前触れもなく起きる、それまで私達が目にしたこともないほどの大規模な地殻変動は、それがもたらす未曾有の大嵐と、大地をバターのように削り取る大洪水すら見る間もなく、私達すべての存在を飲み込んでいくでしょうね。地獄よりももっともっと深い、永劫の闇の世界へと。それから時を刻むこともなく、この星は宇宙の塵の一つにかわる。それがわかっていながら、私達は確実に迫る死から目をそむけて、今の快楽に逃げることしかできない。変だよね。こんなに毎日楽しいのに。みんな笑顔なのに」
「……」
きつねにつままれたような状況で夕季が立ちつくす。
すべてを鵜呑みにするわけにはいかなかったが、それを否定する材料もまた存在しなかった。
「なら、その上で私の話に合わせてくれたのは何故。本当のことを教えてくれた理由は」
思わず口をついた夕季の疑問に、ひかるが顔を向ける。
「どうしてだろう。うまく説明できない」
差し向けた笑顔は、愁いと哀しみを帯びたものだった。
「きっと嘘だらけのこの世界の中で、あなただけが本当のことを知っていそうな気がしたからかもしれない。ひょっとしたら、この世界を救うためにあなたがやってきたのかもしれないって、あの時私は思ってしまった。あなたがどれだけイレギュラーな存在だったとしても、滅びゆく世界を救えるはずなんてないのにね。それなのに私はそう思ってしまった。いいえ、願ってしまったの。誰の責任でも、誰が背負うべきでもないこの星の住人として。でもそれが間違いだと気づいた。どんな結果になるにせよ、それはあなた自身が決めなければならないことだと思ったから……」
ひかるはそれ以上何も言わなかった。
夕季もその横顔を黙って見つめることしかできなかった。
「これ」
ふいにひかるが差し出した手のひらの中を覗き、夕季が目を見開く。
それは色こそ違っていたが、雅から渡されたガイアストーンと同様のものだった。少し小さく、やや形がいびつであること以外は。
「このお守り、私の父が大切な人から貰ったの。きっとあなたの知らない人。いつも肌身離さず持っていたのに、その日に限って置いていっちゃったんだ」
深海のように深く、そして透き通るようにも輝く青い石に夕季の目が釘付けとなる。
言葉もない夕季に、ひかるはさらに驚くようなことを口にした。
「あなたにあげる。きっとあなたの方が必要だと思うから」
諦めにも似た、すべてを見通したような微笑みだった。
幼い頃に見た、記憶の中のひかるそのものの面影を浮かび上がらせて。
「さようなら、ゆうき……」