第三十八話 『テスタメント』 10. 何もかわらない
「映画とかでね、タイムマシンに乗って過去に行ったりするのってあるじゃない」
翌日の帰り道で並んで歩きながら、やにわにひかるが夕季に問いかける。
「でね、過去の世界に干渉すると未来が変わってしまうから、そこでは何もしてはいけないっていうパターンとか約束事。あれって、どう思う?」
ひかるの方から待ち伏せした上での、すっかり打ち解けたその口調に、夕季が戸惑いをみせた。
「どうって……」
また何かの謎かけかと勘ぐり、夕季が、ぐっと顎を引いてかまえる。
そんな夕季にも誇るような笑みを向け、自ら持ち出した話題に夢中な様子でひかるは勝手に続けた。
「私はね、何も変わらないと思う派」
「……」自信満々に自論を言い切ったひかるから感想を求められているように感じて、夕季が自らの知識を並べてみる。「もし自分が生まれる前の過去の世界で自分の両親を殺したとしたら、その人は生まれなくなるから、未来である自分達の世界で存在できなくなる。その人が最初からいなければ、過去へ行く行為自体がなくなるはずだけど、その人が過去に戻れないなら、その人の両親も殺されなかったことになるから、結局その人が未来の世界で存在することになる。そうするとまた過去へ行くことになるかもしれないし、延々と矛盾が繰り返される結果になるかもしれない。だから不用意に過去に干渉してはいけないはず」
「パラドックスっていうやつですな。でもそれは結局ありえないと思うんだよね」
「どうしてですか」
「故意に操作しようとしても、どこかで何らかの力が作用して、結果的に未来を変えるようなことは何もできなくなるから。誰かの存在を抹消してしまえば途端にそれまであった記憶が消滅するなんてことでもない。あったことは何も変わらない。その人がやって来たことも、その人がそうしたであろうことも、何かを変えたくて操作しようとしたことも、全部ひっくるめてその後の未来ができているっていう考え。すべてが森羅万象の取り決めにのっとった必然だったって結論かな。タイムマシンで歴史を遡ったことも、歴史を変えようとしたことも、それが何か一つですら変えられないことも、すべてあらかじめ定められていたプログラムのようなものなんだから、何も変わりようがないの。夢のない話だけれどね。どちらかというと、今はこっちの考えの方が定説っぽい風潮かな。でも『もし』はあるのかもしれない」
表情はむしろ二人とも、親しげな人間と意見を交し合うそれに近いものだった。
「さっきの話だけれど、結局それって何も変わってないってことだよね。パラドックスで、両親が死んだり生き返ったりって話」
「?……」
「ぽか~ん、としちゃってるね。この人何言っちゃってんだろ、みたいな」
「そんなことは……」
「あるある」楽しそうに笑う。「でもちょっと違うのは、たとえ自分のご両親を過去で殺害したとしても、その人はいなくならないし、過去へ戻らなかった未来ではなくて、ちゃんと時間旅行をした行為も、その人の両親を殺害した現実も残るはずってところかな」
「……どういう理屈ですか」
「考えられるこじつけとしては、ズバリ、その人達が実は本当の両親ではなかったということ。殺されてしまった人達はもともと過去の世界で別の理由で殺されていた記録があったはず。当然未来の世界に存在するご両親は彼らとは別人で、本当のご両親である。もしくはその人達も里親で、本当の本当の父親と母親は全然関係ないところにいるとか。で、それがわかってもう一度時間旅行をしようとしたら、時間管理法とかいう法律違反でタイムパトロールに捕まって二度と過去へ戻れなくなるってとこでどう?」
「……ずるい」
「だからこじつけだって言ったじゃんか」いたずらっぽくけらけらと笑う。「それが『もし』っていう意味。そういう感じであなたが本来は存在しえない世界に放り込まれてしまったら、とかね」
「!」
まばたきも忘れて硬直する夕季に、ふっ、と笑いかけ、ひかるは先へとつないで言った。
「『もし』って前提なんだから、気を悪くしないでね。『もし』あなたが私達と敵対関係にあるのだとしたらなんだけれど、実際、こっちの視点から見たら、あなたは、私達の世界を征服しようとしている悪の組織の女戦士みたいなものなんだろうなって、思っちゃったの。物語とかでよくあるパターンで、偵察に来たら意外とこっちの世界になじんじゃいました、とかいうパターン。うう~む、どうも綾先輩の影響でおかしな思考回路ができあがってる気がするな」
「……」
「おや、変な宗教にかぶれた人だなって顔だね。さっきから、ちょいちょい」
「……そういうわけじゃ」
「でもね。その『もし』が当たっているとしたなら、私達の方からしたらあなた達の方が異質なんだけれどね。危険な思想を持つテロ国家ってイメージかな。種族って言った方が的を射ているかもしれない。妖怪とか悪魔の類の」
「!」
「どっちにしろパラレルな話になってきちゃうんだけれど、結局のところ、タイムスリップとパラレルはまったく違うものなの。もしタイムスリップであるのならば、過去へいこうと未来へいこうと一つの同じ時間軸にとどまっている。でもパラレルはまるで違う世界。多元軸にある、まったく同じ時間進行を持った異世界だから。そこに時間軸のずれが加わると、これまたややこしくなってきちゃうんだけれどね。同時にそれは一つの可能性でもあるよ」
同じことを夕季も感じていた。
ここに連れてこられてすぐに思い浮かべたのが、似て非なる世界、いわゆるパラレルワールドだということだった。
あくまでも夕季の側面から見た見解ではあったが。
『もし』という言葉をひかるが何度も口にした。
それは夕季の世界にいた人間達とすべて同じ登場人物というのみならず、すでにいなくなっているはずの人間や、おそらくは元の世界には存在しない生まれる可能性のあった命も含まれる。陵太郎や、すぐそばにいるひかるもそうだろう。人口が何十億人も多いことからも、ここは夕季達のいた世界よりも人がより死なない世界、新しい命が生まれる可能性が高い世界だと定義することができた。
ウォリアーの世界の人間達が死滅寸前だったことからも、それが一つの可能性の方向だと仮定することで多元軸の分類を整理することができたのだ。
「ひょっとしたら、この世界のあなたの体に、向こうの世界のあなたの人格がインストールされてしまったのかもしれないね。本来ならばここでは絶対に露呈するはずのない人格が、バグのような何らかの力によって浮き上がってしまったとか。でも、私は思うんだ。あなたとこの世界の古閑さんは別々の人間じゃないって。きっとここで生まれていたのなら、あなたも私達の知っている古閑さんと同じ選択をしたと思うから。だから、あなたがここへ来て何をしようとしたとしても、それはすでに決められていたことなの。少なくともこの世界の中では、何も変えることなんてできない。だからあなたは、自分の思うままに行動すればいい」
「……」
「もしかしたらだけれど、世界がどうとかより、あなた自身が自分を変えたいっていう願望があったのかもしれないよ」
「……私は何も変わっていない」
「今はね」
「!」
「きっと変われるはずだよ。あなたにその気があるのならば」
ひかるが言おうとしていることがおぼろげに見え始めていた。
決して突拍子もない話題を振ってきたわけではなく、彼女なりに夕季を元気づけようとしてくれているのだ。
そんな夕季の複雑な心境を、その表情からひかるが読み取った。
「……」
「どうかした?」
まばたきもせずに凝視し続ける夕季を、ひかるが不思議そうに眺める。
「思っていたより、よくしゃべると思って」
「不愉快?」
「そ! そんなこと、ありません……」
「普段はあなたも私に負けないくらいおしゃべりなのにね」
「……」少しだけ口を曲げ、ばつが悪そうに顔をそむけた。「綾先輩って……」
「ん?」
「伏見綾音さんのことですか」
「そうだよ。大学の先輩。近所に住んでいるんでしょ」
「そうだけど……」
「まさかあなたの知り合いだなんて、夢にも思わなかったけれどね。向こうの世界にも綾先輩っているんだよね」
「いるけど……」口を一直線に結んだ。「もっと乱暴でがさつで下品な人だった」
「すごい言われようだね……」苦笑い。「だけれどあなたは、そっちの綾先輩の方が好きなんでしょ」
「……」夕季が目を伏せる。「ここにいる綾さんも、優しくてすごくいい人だった。でも、私が知っている綾さんとは違ってた」
ふん、と柔らかな息をつき、ひかるが穏やかに笑った。
「あなたは私が知っている穂村ひかるじゃない、か」
「!」
目を見開いて夕季がひかると向かい合う。
次に飛び出すであろう否定の声を制して、ひかるはおもしろそうに続けて言った。
「仕方ないよね。人間なんて立場や環境が違うだけでまるで変わって見えるから。ましてや出会いが違うのならばなおさらね。向こうの世界でのあなたと私がどういう関係なのかはまるでわからないけれど、ここでは教師と生徒であることが大前提なのだもの」
「……。そう、ですね……」
「あ、弟の恋人さんだったかも」
「! ……。……樹神先生とつきあってるんですか」
「な……、にを言っているのかな」
「樹神先生はそんな感じだったから」
「あの人、ちょっとかわってるから。悪い人じゃないんだけれどね……。向こうの世界ではそうだったの」
「……」
「タイプじゃないけど、嫌いでもないってところかな」複雑そうな表情で片目をつむって笑う。「優しそうだけれど、ちょっと頼りない感じ」
「うちのお姉ちゃん、知っていますか」
「しのぶちゃんでしょ。綾先輩の関係で、何回かは会ったことあるよ」
「仲、いいんですか」
「ん~、まだ友達ってまではいってないかな。私は好きな方だけれど、彼女がどう思っているのかよくわからないし。ひょっとして、そっちの世界では親友だったりして」
「……」
何も答えない夕季に、背中を向けたままでひかるが楽しそうに笑う。
ただじっと見つめている夕季に気がつき、また嬉しそうに顔を向けた。
「さっきの、気に障った?」
夕季がふるふると首を振る。
「ガッカリさせちゃったかな。私があなたの記憶とは違いすぎて」
「そんなことは、……ないです」
「でも警戒させちゃったみたいだね。なんだか、ごめんなさい」
「そういうことじゃ……。ひかるさんって、こんな人だったんだなって」
「違うでしょ、あなた達の世界では」
そう言って笑ったひかるを、夕季が熱いまなざしで見つめた。
ひかるとは何年も一緒だったが、夕季が幼かったせいもあり、こんなふうに話したことはなかった。
もしひかるが生き続けていたならばこんな感じで話せたのだろうかと、次第に夕季は思い始めていた。
「私の記憶の中のひかるさんは、ずっと、優しくて、強くて、温かかった……」わずかに顎を引く。「違ってないと思う……」
するとひかるが、ふっ、と笑った。
何かに気づき、少しだけ淋しそうに。
「あなたと私は、あなた達の世界でも知り合いだったんだよね。たぶん、今の私達よりも、もっと近くて深い関係で」
「……」
「その世界で関わりを持っていた人達は、別の世界でも、いつかどこかで必ず関わりを持つことになるのかもしれないね。それを当人同士が知らないとしても、どんな形であれ、たとえ間接的にでも必ず関わっていく。今の私達のように」
「……」
「よかった。あなたと話せて。きっとあなたのいる世界では、あなたと私はろくに話もできなかっただろうから」
「……」
「ねえ」夕季から顔をそむけ、ひかるが静かに目を伏せる。「あなたの知っている私は、あなた達をかばって死ねるような人間だった?」
「!」