第三十八話 『テスタメント』 9. 受け入れる理由
通学路の途中にある公園のベンチで、二人は並んで腰かけていた。
ファミリー・レストランへ行こうというひかるの誘いを夕季が断ったため、この場所が選ばれたのである。
すっかり暗くなってしまった今時分はすでに子供達の姿もなく、辺りには夕季ら二人だけだった。
ベンチの周囲にはちょうどついたてのような風除けがあったので、それほど寒さは感じなかった。
公園中に配置された常夜灯が無機質な光をばら撒く。
その後ろに見えるのは夕季が見慣れた光景でもあった。
ただ夕季がもといた世界よりも、この公園は設備も管理もゆきとどいているようだった。
「はい」
ひかるが差し出した缶飲料を夕季が受け取る。
「すみません……」
「それでよかったよね」
温かいそれをよく見ると、缶コーヒーではなく、コーンポタージュと書かれてあった。
まじまじと缶を見つめる夕季の隣で、同じ物をひかるが飲み始める。
「ぷはあっ」おいしそうにそう言い、ひかるが夕季に笑いかけた。「やっぱ冬はこれだよね。五臓六腑にしみわたる~」
ひかるの笑顔に押されるように、プルタブを起こしそっと口をつけてみる夕季。
普段は好んでまで飲まないものだったが、何故だか妙においしく感じた。
夕季が最後にひかると接したのは、ひかるがまだ高校生になったばかりのころだった。
髪型こそ似ていたものの、成人した目の前の人物とは、顔つきも雰囲気も違う。
が、ひかるがあのまま年齢を重ねれば、このような感じになるのだろうなという雰囲気だけは認められた。
「古閑さんには感謝してるよ」
夕季の心情を察するように、ひかるがおもしろそうに笑いかけた。
「あんなに荒れてた光輔がおとなしくなったのって、結局あなたのおかげだものね。私がほうったらかしにしていたのもいけないんだけど、自分のことだけで手がいっぱいだったから。そんなの言いわけにならないか。保護者失格だね。保護者っていっても、結局は親戚のうちにご厄介になってたんだから、偉そうなことは言えないしね」
ひかるとは教師と生徒という立場であっても、何年も前から光輔と夕季は知り合いだったのだから、以前から二人が知り合いだったということは充分考えられる。
収拾した情報を引き出し、せわしく思い返す夕季。
その埋まり切らない詳細を、まるで夕季の心の内を見透かすようにひかるが補足してきた。
「あなたと会ったのは教育実習で私が山凌に来た時が初めてだったはずなのに、全然そんな感じがしなかったな。ずっと前から弟に聞かされていたからね。あいつ、クラスにやかましい女がいるとか、おせっかいな女がいるとか、すごく事細かに報告してくれてたんだよ。嬉しそ~にね。だから一目あなたを見た時、あっ、て思っちゃったんだよね。ほんと、イメージどおりって言うのかな。思わず抱きつきたくなっちゃった」
「……」
まだ温かい缶を両手で包み込みながら、夕季が表情のない顔をひかるに差し向け続ける。
その様子を、ずっとひかるは目がなくなるほどの笑顔で見守っていた。
光源に浮き上がる白い息を漏らし、夕季が口を開こうとすると、その疑問をまたひかるが先取りした。
「ちょっと説明くさかったかな。でもだいたいわかったでしょ。あなたと私の関係が」
夕季がまたもや言葉を失う。
どうして、という一言すら。
すると黙って自分の顔を見続ける夕季に、ひかるが意味ありげに笑ってみせた。
まるですべてを見抜いているかのように。
「記憶をなくしているわけじゃないんでしょ」
まばたきもせずにその顔を眺め、夕季が小さく頷いた。
「はい」躊躇もせずにそう答える。少なくとも、今の状況を自分よりも理解しているように思えたからだった。「どうしてそう思ったんですか」
それに対するひかるの答えは、夕季の想像をはるかに上回るものだった。
「あなたからはこの世界の匂いがしないから」
「……」夕季が顎を引く。いまだ半信半疑ではあったものの、すべてを目の前の人間に託す覚悟を今決めた。「信じてもらえないかもしれないけれど、私は……、たぶんこの世界の人間じゃない」
「そう。やっぱりね」衝撃的なカミングアウトにもひかるは顔色一つ変えず、それをしごく当然だと言わんばかりに受け入れた。「なんとなくだけれど、そんな感じがしていたの。たまにいるんだけれど、生まれる時代を間違えてしまった人って言うのかな。戦国時代や戦争があった時代の人間が今の平和な時代にタイムスリップとかしちゃうと、こんな感じなのかもしれないね。そういうふうに見えた」
やや論理の飛躍を感じ取る。
通常ならばこの類の話は少々オツムのネジがとんだ人間のものだと敬遠されるか、或いはそういった話題を好み、ただおもしろがっているだけだと解釈するのが妥当だろう。
ひかるの表現の端々から、彼女がこの手の話題を許容する感性を持つこともうかがえる。
だが今の夕季には、それに賭けてみるしか選択の余地はなかった。
「あなたのいた世界は、この世界とは全然違うのかな」
「全然っていうわけでもない。むしろよく似ている。よくわからないけれど、この世界によく似た違う世界」
「どのへんが?」
何とはなしに、ひかるに探られているような感覚に見舞われる。
すべてをぶちまけるのは危険な状況でもあった。
しかし夕季はそれを抵抗なく受け流し、ごく自然に疑問に受け答えていた。
「ひょっとしたら、こことは正反対の世界なのかもしれない。もしこの世界が、私達が知るプログラムを作ることができる世界ならば、私達の住む世界は、それが差し向けられる側の世界……」
覚悟を決めまなざしを向け続ける夕季を、しかし、ひかるは笑って受け入れた。
「なるほどね。そうじゃないかとは思っていたけれど」ふふん、と小さく笑う。決してバカにしているわけではない。夕季の中に見え隠れする、否定できない何かを認めたからだった。「そっちの世界にも私達はいるの」
「……いる」
「みんな?」
「……」
夕季が口ごもったわけを、ひかるが察する。
夕季が置かれた状況、生きてきた世界の過酷さを、一瞬のうちにひかるは見抜いたのだった。
その顔つきを見ただけで何となくわかる。
夕季の持つ雰囲気。
殺伐とした感情。
それは自分達が今置かれた世界で生きていく上で、おおよそ不要なものだったからだ。
少なくとも、夕季はそう理解していた。
「今朝の新聞を見た限りでは、ここの方が私達の世界よりも人口がかなり多い。学校や地名はほぼ同じ。知っている人もだいたい同じ。でもその人達の性格や置かれた環境は、かなり違う気がした。知らない人も多いけれど、まだ出会っていないだけなのかもしれない。私が知っている人が、私を知らないこともあるみたいだった。知っている人なのに別人みたいに見える。……見えます」
「無理しなくてもいいよ」
「……」
「いつものあなたのままで」
その時夕季が淋しそうに目を伏せたのを、ひかるは見逃さなかった。
「私達にしてみれば、あなただけが記憶喪失になってしまったということなんだけれど、あなたから見たら、逆に私達全員がそうなってしまった状況なんだよね。知っているはずの人間が今までとはまるで違う反応を示して、誰一人本当の自分を理解してはくれない。仲がよかったはずの人から他人のように接してこられたりね。いくら大声をあげて訴えかけても、誰も耳を傾けようとすらしない。それって、せつないでしょうね。考えただけで身震いしてくる」
「……」図星をつかれ、言葉につまる。
「私はどうしたらいいの」
「……何がですか」
「あなたにとって私は、はじめまして、ではないはずよね。どう接したらいい? どうしていたの。こんにちは? それとも、久しぶり? ここでいつも私がしていたように抱きついちゃったら、怒る?」
「……」ぐっと顎を引く。「ひかるさんは、私を見るといつも笑ってくれた。それだけ」
「何も言わないで」
「……名前くらいは呼んでくれたかも」
「ゆうきちゃん、って」
「……。覚えてない」
「そう」ひかるが意味ありげに笑う。「そしたら、あなたも笑い返してくれるの」
「……」
途端にかまえ出した夕季をおもしろそうに眺め、ひかるがふっと笑った。
「無理だな。私、おしゃべりだから」
「……。いつも私に抱きついていたんですか」
「ん? 違うよ。そこまではしていない」
「でも今……」
「なんとなくからかっただけ。おもしろそうだったから、つい」
「……ん、ぐ……」
「ごめんね。篠原さんはいつもそうしていたから」
屈託なく笑うひかるに、夕季が都合何度目かで言葉を失う。
ふいにひかるの表情が落ち着き、夕季をまっすぐに見つめて言った。
「この世界、嫌い?」
予想外の質問に、反射的に夕季がふるふると首を振る。
もっと自分達の世界のことを聞かれるものだと思っていたからだった。
もし夕季がよその世界からやって来た人間だと定義するなら、それを受け入れるために必要なのは情報しかない。夕季のいた世界と、今現在ひかるが存在するこの世界との溝を埋めるきっかけとなるはずの。
それらを放棄し、ひかるは夕季の心の中にそっと入り込んできたのである。
あくまでも優しく。
そして穏やかに。
「信じるんですか。私の言ったことを」
「信じてるよ」こともなげにそう言う。「信じちゃ、駄目?」
「……」
どう答えるべきかわからない。
そんな夕季の心情を汲み取り、ひかるが小さく笑った。
「たぶんだけど、ここはあなたのいた世界に比べると穏やかすぎるんじゃないのかな。すぐにはなじめないとは思うよ。でも悪いところじゃない。私はこの世界が好き。というか、この世界しか知らないから比べようがないか。あなたのいた場所の方が、もっと素敵なところなのかもしれない。だけど、それでも私は自分達の今の世界がすごく好きだな」
次元の代表者のようにひかるがそう言う。
それを夕季も真顔で受けた。
「……でも私は、この世界の人間じゃない」
ふっ、と笑い、ひかるが常夜灯の彼方へと視線を差し向ける。
「今頃向こうの世界でも、あなたのことを心配して探しているかもしれないね」
「!」
ひょっとしたら、自分と同じ景色が見えているのかもしれない、などと夕季が考え始める。
まるで明かりの奥に消えて行く、見えざる世界を見通しているかのようにひかるは続けた。
「あなたの世界の人達も、いい人達だと思うよ。あなたを見ればわかるもの。でもここの人達もあなたのことが大好きなんだよ。みんな、あなたのことを心配しているの。あなたという大切な存在を失いたくないから。ご家族の方達や光輔や篠原さんや樹神先生も。もちろん私も。それじゃ駄目?」
「駄目って……」言葉に窮し、顎を引く。「私は、この世界に望まれてはいない……」
「どうしてそう思うの」
「どうしてって言われても……」
「あなたが望んだから、あなたはこの世界に来たんじゃないの?」
「!」思いがけないひかるの切り返しに面食らう夕季。
その反応を楽しみながらも、ひかるはさらに大きく、夕季の存在そのものをつつみ込んできた。
「きっとそうだと思う。あなたの心のどこかに、こんな世界があったらいいなって気持ちがあったんだと思う。こんなところで穏やかにすごせたらいいなっていう願いが、あなたをこっちの世界に引き寄せたんだよ」
「……」
夕季を眺め、嬉しそうに笑うひかる。
その反応から察するに、夕季自身さえも気づかない感情を、ひかるは見抜いたのかもしれなかった。
「確かにあなたは、私達の知っている古閑さんとは少し違うのかもしれないね。だけど古閑さんであることにかわりはない。私はあなたと実際に会ってから、一年くらいしかあなたのことを知らない。でも、優しくて真面目で思いやりがあって、どこか淋しそうなところはどっちも同じだよ。あなたがもとの世界の知り合いを切り捨てられるような人間ではないことは見ていてわかる。それでもここにいられたらいいなって望むことはおかしくはないと思うの。たとえ人格が違っても、ここにいる人達はみんなあなたの知っている人達そのものだから。あなたは何も責められるようなことはしていないんだよ。あなたはここにいてもいいの。あなた自身がそれを望むのならね。そう願うことは決して間違いじゃない。あなたがこの世界を好きになってくれたら、私も嬉しいから」
ふいにひかると目が合い、焦って過呼吸気味に息を吸い込む夕季。
そこにコーンポタージュの濃厚な湯気が入り込んだ。
「えほ! えっほ!」
「大丈夫、古閑さん!」
「大丈夫です……」
心配して近寄るひかるを押し止める夕季。
スカートのポケットからハンカチを取り出そうとした時、何かがこぼれ落ちた。
雅から預かった、ガイアストーンだった。
「あ……」
慌てて緑色の石を拾い上げようとした時、それを凝視しているひかるに気づく。
「それって」
何故か取り繕うような表情を向け、夕季が説明し始めた。
「知り合いから貰ったんです。お守りだって」
「……」
言葉を失うようにストーンを見続けるひかるに、夕季は心を静め、目を伏せながら聞き取れないような声で続けて言った。
「この世界の私が、あまりよく知らないかもしれない、大切な人から……」