第三十七話 『ベリアルの友人』 11. ベリアルの友人
目を見開いたまま、茜の背中を見つめ硬直する夕季。
「……なんていう小説を書こうかなって思ってるんだけど」
「……」
ばつが悪そうに振り返った茜に、夕季が口もとをひくひくとうごめかせる。
「まさか、信じちゃったってこと、ないよね?」
決して信じたわけではなかった。ただ茜の真意がまるでわからず困惑していたのだ。
そんな夕季の思考を読んだのか否か、茜はおもしろそうに笑って続けるのだった。
「ごめんごめん。まさかそんなに真剣に聞いてくれるとは思わなかった。ほんとにごめんね」
「……びっくりした」
「あははは、だからごめんって。だいたい本人なのに理由がわからないとか、言ってて自分でもおかしいなってめろめろになってたよ。性格だって私と古閑さんだと真逆だしね。そういう意味ではさっき言ってたこととつじつま合ってるかもだけど。でも、本人も知らないうちにベリアルに操られている人もいるかもとは思うよ。ベリアルはすべての人間が生まれついて持ち得る衝動でもあるから。たとえば、悪気もないのに、結果的に相手の大切なものを奪い取ってしまうような人とか。たぶん私は、そういうタイプの人間だから。或いは、自分でもベリアルだってことを忘れているような。聖書の中にベリアルの子らって表現があるみたいだけど、私みたいな人間のことをさしているのかもしれないな」
「そんなことないと思う」
「?」
不思議そうに茜が振り返る。
すると真顔で注目する夕季と目が合った。
「私は何も奪われていない」
「気がついてないだけなんじゃない?」
「そうかもしれない」ぐっと顎を引いて、茜を熱く見つめた。「でもわからないなら、別にいい」
ふっ、と笑う茜。
「……。もしだけど、もし私が、別の世界からやってきたあなた自身だとしたら、あなたはどうする。違う世界に存在する、もう一人のあなただとしたら」
「……」
「参考までにだよ。そういうお話をつくる時、きっと私の中にある隔たった思考にしかならないと思うから。登場人物全員が同じ考えだったら変でしょ。あなただったらどう思うのかなって」
「理由によってもかわってくる。その世界に何をしにやってきたのか知りたい」
「そうきたか。たまたまとばされてきちゃった、ってのもありだけど、ここはせっかくだからお題つきにしておこうかな。じゃあね、あなたがうらやましくて、私があなた自身になりかわるためにこの世界にやってきたとしたなら」
「わからない」
「?」
「何がうらやましいのか、理解できないから」
「……」一瞬ぽかんとなり、茜がすぐにおもしろそうに笑い始める。「あっはっは。話がかみ合わないね。やっぱり難しいな、こういうことを正確に伝えるのって」
「やり直したいことなら数え切れない。ずっと後悔ばかりだったから。でも失いたくないものもたくさんあるから、そういうのは嫌かもしれない。それはもう一人の自分だって同じだと思う。たとえ別の世界であっても、それが私である限り」
「やっぱり古閑さんはいい人だな。私はそうは考えられない。うらやましいと思ったら、全部ほしくなるから。たとえ嫌われたとしても」
「……」
「ずっと友達でいられたらいいな。どんなふうになっても」
「うん……」少しだけ照れたように目を伏せた。「私も、そう思う……」
「ははっ……」
茜が嬉しそうに笑った。
それからすっと表情を正す。
「夕季……」
その時である。
意外な人物が二人の前に飛び出して来たのは。
「あ!」
夕季の顔を確認し、その女子生徒が目を丸くする。
直後、彼女はすがるように夕季へとしがみついてきたのだった。
「あんた、霧崎君の連れだろ!」
目を剥いて迫るその顔に、夕季は見覚えがあった。
いつぞや、夕季の傘を盗んだ、三年生の女子生徒だった。
「霧崎君、呼んでよ。今すぐ!」
すごい剣幕で夕季に食らいつく。
興奮しまくって要領の得られない話を取りまとめると、どうやら以前一緒にいた仲間達が、通りかかったチンピラ達に捕まったということだった。
「霧崎君、呼んでよ、早く!」
相手の都合などおかまいなしで助けだけを乞う身勝手さに、夕季がやや辟易した表情になる。
「自分で呼んだら」
「うちらが言って来てくれるわけないだろ!」
「あたしが言っても同じだから。嫌われてるし」
仲がいいわけでも、知り合いというわけでもない。ましてやどちらかと言えば敬遠し合う間がらであるゆえ、進んで助けようという気持ちが沸いてこないのも至極当然だった。
ふん、と夕季が面倒くさそうにため息をもらす。心の奥底に切り捨てきれないもやもやを認めつつ。
その時になって彼女に変化が現れた。
それまで身勝手に欲しいものばかりをねだり続けてきたその顔が、くしゃくしゃにゆがみ始めたのである。
「頼むよ、じゃないとみんなが……」
夕季の襟を弱々しくつかみ、子供のように泣き出し懇願を続ける。
仲間を見捨てて自分だけ逃げることもできるはずなのに。
「……」
黙り込む夕季をちらと見やる茜。
「行こう、夕季」
「まだ謝ってもらってない。傘を盗んだこと」
夕季の手を引いて茜が歩き出そうとした時、夕季がそれを口にした。
一瞬理解できず、すぐさまそれを怒りに転換させる上級生。
「何、こんな時に!」
それを夕季がじろりと一瞥すると、彼女はまたもとの弱々しさを取り戻した。
みっともなく泣き喚きながら、夕季に頭を下げる。
「ごめんなさい。もうしないから……」
それを静かに見下ろし、夕季がもう一息ついた。
「何人」
「は……」
「相手の人数」
「六……、五人」
「助けるの」
茜がぶすりと言う。
スマートフォンを確認しながら夕季が振り向くと、茜はそれまでに見たこともないような冷徹なまなざしで夕季を見つめていた。
泣き崩れる少女を汚らわしいものを見下すように眺める。
「何もかえってこないよ。こんな人達からは。困った時だけ都合のいいことを言って、逆にあなたを利用しようとするだけ。これからもずっと」
茜の顔をちらと見てから、何も言わずに夕季が歩き出す。
それを追いかけるように、茜はイメージの中に存在しないほどのきつい口調で、とげのあるセリフを連ねていくのだった。
「普段は親切な人達を、おせっかいだとかお人よしとか言って馬鹿にしているくせに、自分が困った時だけ助けを求めてくる。こんな人達、助ける価値ない。明日になったらすっかり忘れて、また同じことを繰り返すだけだよ。あなたに対しても。こんな人達に手を差し伸べる理由はない。私にはわかる。身勝手な彼らの、愚かで稚拙な振る舞いが、傲慢でぞんざいな行動が、いつかあなたやあなたの大事な人を傷つける。あなたの大切なものを奪う。さっきのベリアルのように。その時になってから後悔しても遅い」
足を止める夕季。
「ごめんなさい。私もたぶん、そういう人間だと思うから」
まばたきもせずに無表情のまま、夕季の背中を見つめる茜。
その瞳には明らかに落胆の色が浮かび上がっていた。
「そういう人だとは思わなかった。もっと頭のいい人だと思ってた」
夕季が振り返り、小さく笑う。
その顔は、茜が見たことのない優しい笑みの夕季だった。
「さようなら、茜さん」
「……さようなら、古閑さん」
少女をともない歩き始めた夕季に、ぎりぎり届くような声を茜が差し向ける。
「日常にさらされ、人にまみれた分だけ、あなたはあなたでいられなくなる。でもそれを喜ぶ人間もいる」その背中を追いかけるように静かにつけ加えた。「私のように……」
翌日の朝、夕季は校門の前で多くのコワモテ達に囲まれる羽目となった。
いずれも、いつか夕季に傘泥棒がらみの件でからんできた、不真面目な先輩達だった。
夕季の姿を見つけて近づいて来た一人が、ふいに爽やかな笑顔を向ける。
「あ、あの、古閑さん、昨日はありがとう」
夕季がジロリと見やると、持っていたタバコを慌ててもみ消した。
「すごかったな、昨日は」
「おお、びっくりだよな。木刀取り上げてあっちゅう間に二人倒して、あとの奴らもビビッて何もできなかったもんな」
「なんかさ、あいつら勝手にこけたように見えたんだけど、なんかしたの。合気道的な」
「どっちかってえと、古閑さんの肩つかんだ時、感電してシビれたみたいになってたようなよ。ひょっとして、電撃技放ったとか?」
「なわけねえだろ」
「だよな。じゃなんでだろ」
夕季が、むぐ、と顎を引く。
「……静電気がたまりやすい体質みたい」
「そーなんだ……」
「スマホちらちら見てたじゃん。あれって警察に通報しようとしてたとか?」
「……メールがきてたから」
「へ~……」
支給されたスマートフォンの安全装置を解除し、あるシステムを起動させると、一時的にスタンガン並の高圧電流を発生させることができた。
それを帯電チャージすることによって放電性の電流が夕季自身の身体に蓄積され、不用意に触れた相手に静電気が伝播するように襲いかかるのである。
昨日の場合、同時に二人が餌食となっていた。
一度チャージしてしまえば、何かに触れて放電させるか、もう一度スマートフォンに触れるまで効果は持続する。
「あれ、本当に腕折ったの?」
「……折ってない」
「あ、そ……」
「でもあいつさ、泣いてたじゃん」
「そ~そ、あんないきがってたのに、みっともねえったら」
「あんなヘタレだとは思わなかったよな」
「あれだったらさ……」
「……」
夕季に一瞥され、自分達も半ベソ状態であったことをようやく省みたようだった。
「あ! パン食べる! カレーパン! 好きなんだよね!」
差し出された袋を見ようともせず、夕季が何も言わずに通り過ぎようとする。
すると急に焦り出したように、彼らは夕季に愛想を振り撒き始めた。
「あ、俺らにできることあったら、何でも言ってよ。力になるから。あ、変な奴とか気に入らない奴とかいたら、俺らがしめるからさ。俺ら、この学校じゃ結構いける方だから。古閑さんが目障りだなって思ってる奴とかいるなら教えてよ。そっこーしめてくるから」
卑屈な笑顔。
嘘臭い表情。
見回すと、昨日の女子生徒が気まずそうに顔をそむけた。
「霧崎礼也が目障り」
「それは……」
ぶすりと告げた夕季に沈黙する集団。
それにため息を漏らし、夕季が静かに続けた。
「……。いじめとかは嫌いだからやめて」
「お、俺ら、そんなことやってねえって。なあ」
「おお」
「タバコも」
「やってないって! ……今日、は」
「ちょうど禁煙しようと思ってたところだし!」
「なあ、ちょうどいいグッドタイミングだったよな!」
「……」
「何、アンノウンプログラムだと!」
司令室で解析センターからの一方を受け、桔平の表情がこわばる。
受話器を握り締めたまま硬直してしまった桔平を眺め、あさみも複雑そうに眉を寄せた。
ゆっくりと振り返る桔平。
その顔つきから内容を理解し、あさみが重々しく頷いてみせた。
「とにかく、彼らを呼びましょう。現状では何もわからない。カウンターの誤作動かもしれないし、ダミーの可能性もある」
「この反応も妙だ。予測時刻も明日になったり百年後の日付になったりしている。何もかもが定まっていない。まさか、これが……」
「ええ、わかってる。すべてが想定外の状況ね」桔平の声を制してあさみが続ける。「繰り上げられたのかもしれない。何者かの手によって」
「……」
「それとも、私達の理解を超えた何かが起こり始めているとでも……」
「司令、たった今プログラムが確定しました」
忍の報告に桔平達が振り返る。
その神妙な面々を真っ直ぐに見つめ、忍がわずかに眉を寄せた。
「プログラム名は……、……アザゼル」
誰かに呼ばれたような気がして夕季が振り返る。
そこにいたのが雅であったことを知り、夕季が顎を引いた。
雅と見つめ合う夕季。
妙だった。
笑顔ではあったが雅はどこか思いつめた様子で、愁いを帯びた瞳をただ夕季へと向けていたからである。
やがて雅が静かに口を開く。
「これ、持ってて」
そう言って差し出されたのは、チェーンをつけペンダント状になったガイアストーンだった。
目を見開き、絶句する夕季。
「……でもこれがなかったら」
どうしたらいいのかわからず戸惑うその顔を眺め、心情を察した雅がいつものように笑ってみせた。
「大丈夫。私達がつながってさえいれば、いつでも集束はできるから。それに、プログラムはもう終わっているから」
「!」
その衝撃的な内容はともかく、目の前にいる雅がまるで自分が知る人物とは別人のように見えていた。
「深く考えなくてもいいよ。綾さんからそう聞いてただけだから、違うのかもしれないけど。またいつか必要になる時まで、夕季に持っていてほしい。ただそれだけ」
「でもどうしてこれがここに……」
言葉を飲み込む夕季。
それもそのはずだった。
ストーンは最重要機密事項であると同時に、最重要の保管案件でもあるからだ。
その所在は現時点をもって誰にも知らされておらず、凪野博士の許可を有する者だけが、プログラムの発動とともに封印解除の権限を行使するという仕組みだった。
現状においてはまず司令官の進藤あさみがその第一実行者であり、次に桔平、そしてその次という順番となっていた。
利用者であり直接の実行者である雅にすら、それを確認する許可すら与えられてはいないはずだった。
表向きは。
「本物のストーンは、みんなが思っている物とはまったく別の物なの。本当は、もう、その事実すらないのかもしれない。これはただのダミーだよ。お守りみたいなもの」
「……」
「変な夢を見たの。夕季がいなくなっちゃう夢。すごく怖かった。それに、あたしにはもう必要のないものだから」
その意味を夕季が理解できるはずもなかった。次の言葉も含めて。
「心配しないで。何があっても私達は私達のままだから。わかっているはずなのに。何もかわりはしないと」
背中を向けて諦めのように呟いた。
「みんなによろしく……」
「……」
その背中が見えなくなるまで夕季は動けずにいた。
メガルからの緊急呼び出しのサインすらも、耳に届かぬまま。
了