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今日は、毎朝欝陶しいくらいに扉の外から掛けられていた声が聞こえない。それなのに珍しく早く起きてしまい、フルーネはぼんやりとベッドの上に座っていた。
ジンクは昨日どうしただろうか。久しぶりに屯所に寝泊まりしたのだろうか。彼がいない朝は新鮮だけどつまらなくて、深い溜め息がこぼれた。
*****
「フルーネ様」
騎士団の屯所に着いてすぐに、アスタルとソロイが顔を見せに来た。しかしおかしな事に、彼等は近付くにつれ段々怪訝な表情になっていく。
フルーネは理由がわからず首を傾げて立ち止まった。
「あの、アスタル殿? ソロイ殿?」
「フルーネ様、ジンクの姿が見えないようですが……」
「え? ジンクには今日の開始までお休みと言ってあるから、私てっきりこちらに泊まったものだと」
途端、アスタル達の顔色が変わる。
「フルーネ様の所へ戻ると、そう言って昨日はすぐに帰りました」
「戻ってない! 戻っていたら顔を見せるはずだもの! どうして……」
カツン、と靴の音が通路に響き、全員がその方向へ顔を向ける。噂をすればなんとやら、なんて迷信が頭に浮かんでいた。いつもみたいに軽い態度で「すみません、昨日ちょっと野暮用で」などと中身の無い言い訳をしながらジンクが歩いて来るのではないかと。
けれど現実はそんなに良く出来たものではない。ある意味では仕組まれたようなタイミングだったのだろうが。
「皆さんお揃いでいかがしました?」
「レオニート殿……」
笑顔のまま近付いてくるレオニートの姿は、知らない者が見れば爽やかな好青年だろうが、今のフルーネには白々しく胡散臭い人間にしか思えない。
「……おや。ジンクの姿が見えませんね。まさか怖じけづいて逃げ出したとか?」
言い終わるか終わらないかの内に、フルーネはレオニートの前まで早足で歩み寄り、強い力で右足を床に振り下ろした。大きな音がこだまし、流石のレオニートも僅かに目を見開く。
「怖じけづく? あなたに? 冗談でしょう。それも、最高に笑えない冗談。センスが壊滅的ですわね、レオニート殿」
「……っ、これはこれは……姫君にはあまり相応しくない物言いですよ」
「あらそう。で? あなた、わざわざ厭味を言いに来たの? ……ジンクが居ない事を知っていた、とか?」
一瞬言葉を詰まらせた後、レオニートは肩を竦めた。馬鹿馬鹿しい、とでも言うように。
「いいえ、知りませんでしたよ」
「……」
「さて、相手がいなければ決闘も成り立たない。もしもジンクが時間までに来なかった場合は、私の不戦勝で構いませんね?」
「ええ、どうぞ」
「フルーネ様!?」
驚くソロイの声を背中に受けながら、フルーネは一歩も引かずにレオニートを見据えた。
「ジンクは絶対に来ますから。あなたの不戦勝など有り得ない」
「……断言ですか」
心臓は破裂しそうなくらい音を立てていたし、足元は平らな場所に立っているとは思えない程ぐらついていた。この得体の知れない男の前に居るのが怖かった。
でも逃げ出すのは癪。逃げ出せばフルーネはジンクの主でいられない。そんな気がしていた。
「私も、不戦勝だなんて肩透かしは無いように願いたいものです。それでは」
「……?」
足早に去っていくレオニートの背中を見つめ、違和感に首を傾げる。最後にフルーネから目を逸らした。それこそまるで、逃げ出したように見えた。
「アスタル殿、ソロイ殿。……ジンクに、何かあったのだと考えるのは、些か突飛でしょうか」
握りしめた拳が震える。色をなくしたフルーネの顔を見つめ、アスタルとソロイは同時に首を横に振った。
「いいえ、レオニートが何かしらの妨害をしたと考えていいかもしれません。そうでなければ、ジンクが今この場に居ない事に説明がつかない」
「ジンクはフルーネ様を裏切るような真似を、決して致しません」
「……ええ、わかっています。ジンクは、そんな人じゃない。だとしたら、やっぱり……。でも証拠が無い。レオニート殿が白を切れば、それでおしまい。何も聞けなくなる」
ジンクは今どこに居るのか。無事でいるのか。不安が波のように押し寄せて目眩を感じた。
「フルーネ様。お顔を上げて、背筋を伸ばして」
トンと背中に手を添えられ、フルーネは反射的に背筋を伸ばした。いつかジンクがそうしてくれたように、アスタルの大きな手がフルーネの弱気を吹き飛ばす。
「我々がジンクを捜します。フルーネ様はどんと構えて待っていてください」
「わ、私もジンクを捜します!」
「何があるかわかりませんので、それはご容赦いただきたい。……ソロイを傍につかせますので、我々とジンクを信じてお待ちいただけませんか」
待っているだけなど歯痒い。けれど我が儘を言える立場で無いのも理解している。
今すぐ捜しに行きたいと焦る気持ちを抑える事は、とてつもなく難しい事だった。
「フルーネ様」
自分が捜索に加わった所で大して役には立たないだろう。わかっている。
もしも第三者が妨害に加担していた場合、接触した際に抵抗されるかもしれない。自分自身の行動の末に怪我を負ったとしても、その責任を負わされるのは騎士団だ。わかっている。
そんな事がないようにフルーネに護衛が付いたとして、その分の人員を捜索に回した方が良いのは明らかだ。わかっている。
(わかっていても、そう簡単に納得出来るわけないじゃない)
だったら我が儘を押し通すのか。それがフルーネのやるべき事なのか。
自分に問い掛け、フルーネは思い切り首を横に振った。
「アスタル殿、よろしくお願いします」
不安を隠すように拳を握り、手の平に爪を立てる。冷静でいるには、痛いくらいが丁度良い。
「……ジンクなら我々が捜すまでもなく、ちゃんとここへやって来るかもしれません。大丈夫、あいつは強いですから」
それも。
「ええ、わかっています」
*****
訓練場の二階にある、王族専用の観覧席。そこに座りじっと前を見つめたまま動かないフルーネは、背後に人が来た事にも気付かない。
「フルーネ様」
ソロイに声を掛けられて初めて我に返り、慌てて振り向きながら立ち上がる。
「ディオン殿……」
心配そうに微笑む姉姫の婚約者は、一礼してフルーネの傍に立った。アデレードでさえ来なかったのに、彼がこの場に現れたのは少し意外だった。
「ジンク殿は、まだいらっしゃらないのですね」
「……それは……」
既に事情を知っているのだろうか。隠していてもジンクが居ない事はすぐにわかる事だ。増してアデレードの婚約者なら、騎士団の方も報告せざるを得なかったのかもしれない。
「……申し訳ありません、フルーネ様。私のせいでこんな事に……」
「いいえ! ディオン殿のせいではありません! 絶対に違います!」
「ありがとうございます。アデレード様にも言われました。……けれどあの夜、私がレオニート殿を招待しなければ……」
「あの日でなくても、いずれ勝負は申し込まれていたと思います」
「そうかもしれません。けれどあの夜会はレオニート殿にとって都合が良いものでした。貴族がたくさんいる場所で、あんな風に勝負を申し込まれたらジンク殿は断れない。断る事はフルーネ様に恥をかかせる事ですから。知らずにとはいえお膳立てをしてしまったのが悔しいのです」
確かに、第三者が居ない場であれば戯言として一蹴出来ていたのかもしれない。ならばあの夜会にレオニートが招待されたのは、まさに都合が良い展開だったのだろう。
けれどフルーネはゆるりと首を横に振った。
「いいえ。きっとどんな場所であっても、ジンクは勝負を受けたと思います」
「……そうでしょう、か」
「ええ! なにせジンクったら驚くくらいレオニート殿を毛嫌いしているんですよ? 向こうもそれは同じようですけど。だから、ディオン殿が気に病まれる必要はありません」
優しく誠実な青年。少し頼りなくも思えるけれど、そんな所も含めて彼がアデレードの隣に立つ人間で良かったと思う。
ディオンは控えめに微笑み、長く息を吐いた。
「私などよりずっと大人でいらっしゃる」
「そんな事はありません! ここ最近は八つ当たりしたり不安になったりと落ち着かなかったんです。……私はまだまだ子供なんだなって、改めて思いました」
思い出せば顔から火が出そうな程恥ずかしい。
今だって不安で胸がいっぱいで、気を緩めれば座り込んでしまいそう。ジンクを信じると決めたのに、体の震えが止まらない。
「ジンク殿は、きっと無事ですよ」
真剣なディオンの声に、フルーネは頷く。
「ディオン殿はレオニート殿と幼少の頃を過ごされたんですよね。どんな子供だったのですか?」
「幼少の頃と言っても、本当に短い間でした。……レオニート殿は没落した家の生まれで、元は貴族です。幼い子供にだけでも食事と寝床を与えたいという思いで、父が引き取ったそうです」
それは初耳だった。もしかしたらジンクも知らなかったのかもしれない。
「この間、父に尋ねてみました。何故レオニート殿がいつの間にか姿を消していたのか。小さな頃は遊び相手がいなくなった寂しさはあったものの、理由なんて気にも留めていませんでしたから」
「それで、フェレス伯爵は何と?」
急かすフルーネに、ディオンは首を横に振る。
「父も、当時の使用人達も気付かぬ内に姿が見えなくなっていたそうなんです」
「では、誰も理由を知らないのですか?」
「ええ。けれど……レオニート殿のご両親が亡くなられたのと同じくらいの時期だったと、父は言っていました」
「亡くなられた……?」
「お二方とも自ら命を絶たれたそうです」
没落した貴族が未来に絶望して自殺を図る事はあまり珍しくない。しかしそれを仕方の無い事と割り切るのもフルーネには難しい。
レオニートは両親が死んだ事を聞いてしまったのかもしれない。愛すべき家族がいなくなった悲しみはどれだけのものか、想像も出来なかった。
「もしかしたらレオニート殿は、失ったものを取り戻したいのかもしれませんね」
ぼそりと呟いたディオンに、フルーネは首を傾げる。
「それはどういう意味……」
尋ねようとした瞬間、空気に緊張が走り周囲からはざわめきが発生した。見物に来た貴族達、見届ける為に集まった騎士達が揃って同じ方向へ視線を向ける。
訓練場の入り口から現れたレオニートが、中央に向かって歩いていた。ジンクの姿はまだ無い。
フルーネが手に持っていた時計を見ると、開始時間まで後少しとなっていた。
「フルーネ様、ジンクは間に合いそうですか?」
観覧席に届くように張り上げられたレオニートの声。貴族達からは小さな嘲笑が漏れた。
「間に合います。ジンクは必ず来ます。私の護衛騎士ですもの」
フルーネも負けじと声を張り上げる。時計の針はその動きを止めてはくれない。けれど最後まで信じるのがフルーネの役目。何より自分が、ジンクの事を信じていたいのだ。
「……あと一回、時計の針が揺れれば私の勝ちです」
既に自分の勝利を確信したようなレオニートの言葉が訓練場に響き渡る。
「フルーネ様」
「……」
心配そうなディオンの呼び掛けにも答えず、フルーネはじっと訓練場の入り口を見つめていた。誰もがもう間に合わないと諦めた瞬間、緊張したこの場にそぐわない、軽い声が聞こえた。
「悪い悪い、ちょっと野暮用でさあ、遅れちゃったわ」
入り口からゆっくりと姿を現した黒い人影。それが誰かを認めた時、レオニートが驚愕の表情を浮かべた。
「ジンク!!」
見慣れた黒髪を視界に入れ、フルーネは手摺りから身を乗り出す。
「……さて、始めようじゃないか。騎士の誇りを捨てたレオニート殿」
ジンクが剣の柄に手を掛けた瞬間、時計の針がカチリと揺れた。