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「ディオン殿の私邸?」
中庭でアデレードと向かい合い紅茶を飲むフルーネ。姉姫から突然の提案を聞かされて目をぱちぱちと瞬きする。
「ええ。フルーネも一緒にって。どうかしら? 夜会も開くとおっしゃっているのだけど」
「えと……」
先日父から見せられた、束になるほどの招待状を思い出して言葉を詰まらせる。勿論夜会には他の貴族も招待されているだろう。そう考えると少しどころではなく気が重くなる。
しかし、せっかくアデレードの婚約者が招待してくれているのに、断るのも忍びない。
「駄目かしら」
不安そうに見つめてくるアデレードを目の前にして、がっかりさせる事など出来ない。慌てて首を横に振り、なんとか笑顔を作った。
「いいえ、喜んでお受けするわ」
しょんぼりしかけていたアデレードはフルーネの返答を聞いてあっという間に立ち直る。嬉しそうに両手を合わせてはしゃぐ姿はまるで子供のようだ。
「良かったわ。あなたにちゃんとディオン殿を紹介したかったの。この前はご挨拶回りでなかなか時間が作れなかったから……」
「姉上……」
「ありがとう、フルーネ」
庭に咲いた花々も恥じらい花弁を閉じてしまいそうな程可憐に微笑まれ、フルーネは思わず頬を染めた。
*****
ディオンが招待してくれた私邸は少し街から離れた所にあり、木々に囲まれた緑豊かな場所にあった。清々しい空気と鳥のさえずりに包まれ、フルーネ達は屋敷の門をくぐる。
「お待ちしておりました」
先日と同じ、人の良さそうな笑顔で出迎えてくれたディオンは、うやうやしく一礼してアデレードの手を取った。
「ごきげんようディオン殿。私、お会い出来るのが楽しみで夕べあまり寝られなかったの」
「それはいけません。寝室をご用意しましょうか」
真面目な顔をして真面目に返すディオンに、フルーネは危うく吹き出しかける。今のはどう聞いても「それくらい会いたかったの」という情熱的な愛のメッセージだろう。
「ふふ、いいの。大丈夫よ。ありがとうディオン殿」
多少空気が読めなくてもアデレードは気にしないようだ。ニッコリ笑ってフルーネとジンクを振り返る。
「ほら、あなた達もいらっしゃい」
手招きされ、フルーネは前に歩み出ておじぎをする。
「お招きいただきありがとうございます、ディオン殿」
「いえ、私の方こそ。いらしていただけて光栄です。馬車での移動でお疲れでしょう。少し休まれますか?」
「このくらいの移動なら平気ですよ。お気遣いありがとうございます」
ディオンは見た目通り、優しく穏やかな人間らしい。向けられた笑顔は爽やかで、嫌味な所などひとつも無い。
どこかの誰かにも見習ってもらいたいぐらいだ。
「……ちぃ姫、なんか今俺の事睨みませんでした?」
「気のせいじゃない?」
首を傾げるジンクからつんと顔を背ける。
「夜まで時間がありますし、馬に乗ってみませんか? フルーネ様」
「馬?」
*****
ディオンに案内されたのは屋敷の少し奥にある馬場。柵に囲まれた中で馬達が自由に走り回っているのを見ると、フルーネも自然とワクワクしてくる。
「馬は初めてですか?」
「ええ、直に乗った事はありません。私に乗れるかしら」
「大人しい子を連れてきますから」
ディオンが馬を連れて来るのを待つ間、期待と不安でフルーネはそわそわと体を揺らしていた。その様子を見ていたジンクが不意に、後ろから耳打ちをする。
「ちぃ姫、馬に乗ったら両手を上に挙げて声高にハイヨー! と叫ぶのが古くからのしきたりですよ」
「え!? そうなの? 両手上に挙げたら落ちない?」
「ふふふ、嘘よフルーネ。叫びたいなら止めないけれど……きっとディオン殿は固まってしまうわね」
さくっとアデレードに言われてフルーネは顔を真っ赤にした。ジンクの憎たらしい笑い声が聞こえてくるのが腹立たしい。
キッと睨み付けてやっても効果は無し。ただ可笑しそうに腹を抱えているだけだ。
「ジンク、あなた主人に恥をかかせる気?」
「いえいえ、緊張していたようなのでちょっと和ませようかと」
「和むかっ!!」
うっかり信じかけた恥ずかしさからジンクの腕を容赦なくバシバシ叩く。もしもアデレードが何も言わなかったらどうするつもりだったのか。
「フルーネ様とジンク殿は本当に仲がよろしいですね。まるでご兄妹のようですよ」
一頭の白い馬を連れて戻ってきたディオンが、殺気立ったフルーネと叩かれ続けるジンクを見て呑気に笑う。
「え、と。兄妹……です、か?」
別に何でもない一言のはずなのに、何故か妙に引っ掛かってフルーネは動きを止めた。胸の奥がざわりとする。
「フルーネ。ほら、乗らせてもらいなさい」
ぽん、と優しく肩を叩く手。苦しくなりかけていた呼吸は正常に。胸の奥も静けさを取り戻す。
「姉上」
「なぁに?」
「……う、ううん、何でもないわ」
偶然だろうか。それとも気を遣ってくれたのだろうか。後者だとしても、何と言って感謝すればいいのだろう。
自分でさえ理由のわからない苦しさだったのに。
「ここに足をかけて……左手で手綱を、右手で鞍を掴んでください。そう。体、上がりますか?」
背の低い馬を選んでくれたのか、さほど苦労せずに乗る事が出来た。一気に視界が高くなって軽く血の気が引く。
「お上手です、フルーネ様。歩かせてみますか?」
「あ、歩く?」
弱々しい声のフルーネを安心させるように、ディオンは穏やかな笑顔を見せる。
「大丈夫ですよ」
「で、でも」
「ジンク殿は騎士ですから、馬の方は勿論……」
「乗れますよ」
話を振られてジンクが歩み出てくる。
「じゃ、ちぃ姫後ろ失礼しますね」
「え? きゃ……」
ゆっくりぎこちなく上がったフルーネと違い、軽々と流れるような動作で馬に乗るジンク。あっという間にフルーネの後ろに腰掛け、手を伸ばして手綱を取った。
「お見事です、ジンク殿」
「褒めても何も出ませんよ」
「それは残念」
無礼ともとれる口調をディオンは責めもせず、むしろ一緒に悪戯っぽく笑っている。案外二人は気が合うのかもしれない。
「ちぃ姫、寄り掛かってください。ゆっくり歩きますんで」
「ゆ、ゆっくりよ? 本当にゆっくりね」
高さへの恐怖と密着している緊張感からフルーネの心臓は壊れそうな程大きな音を立てていた。こんな距離なんて、今までも何度かあったはずなのに。
「よっ」
言った通りにゆっくりと馬が歩き始め、二人の体が揺れる。最初はがちがちに強張っていたフルーネも、次第に慣れてきて景色を見る余裕が出てきた。
「この高さは新鮮でしょ」
「ええ」
「じゃあぐるっと一周してみますか」
余裕が出てくると今度は後ろのジンクを強く意識してしまう。こんなにくっついているのに顔が見えないから緊張してしまうのかもしれない。今どんな表情をしているのだろう、と。
「ちぃ姫、寄り掛かってていいですってば」
「あ、え、ええ、そうね……」
けれどある意味良かったのかもしれない。フルーネからジンクが見えないように、ジンクもフルーネの顔を見る事が出来ない。
熱くなった頬は確実に赤面しているであろう証で、そんな顔を見せるのはひどく恥ずかしい。
「まだ怖いですか?」
「こ、怖くは、ないわ」
「なら良かった。俺がついていてちぃ姫に怖い思いさせるわけにはいかないですからね」
騎士であるが故の責任感から言われた言葉だと頭では理解しているのに、頬が熱くなっていくのを止められない。
(狡いわ)
一周が終わる前に平静を取り戻さなければ。心地良い風が熱を冷ましてくれる事を祈りながら、フルーネは顔を上げて真っ直ぐに前を向いた。
*****
今夜のフルーネは淡い若菜色のビスチェドレスに、ピンクのボレロを羽織っている。先日の思い切りがあまりに恥ずかしかった為、露出は控えめに。
それでもビスチェドレスを選んだのは、あの時珍しくジンクが褒めてくれたからだ。そんな事は口が裂けても言えないけれど。
「フルーネ様。楽しんでおられますか?」
夜会の主催者であるディオンが、隣に立ち声をかけてきた。
「ええ。凄く落ち着いた雰囲気で、居心地が良いです」
「そうおっしゃっていただけて何よりです」
実際、派手な余興も無く出席している人間もあまり気取っておらず、和やかなまったりとした夜会だった。賑やかなのも嫌いではないが、どちらかというとこういう雰囲気の方をフルーネは好む。
「ジンク殿には何かお酒をお持ちしましょうか?」
「いいえ、お気持ちだけいただきます。そういえばディオン殿、今度手合わせ願えませんか? なかなかの腕前だと聞いてますよ」
「え、あ、そんな、騎士殿に到底敵う腕前では……」
いきなりの申し出にディオンは慌てて手を振る。それはそうだ、剣を扱う事を生業にしている騎士と手合わせだなんて、よほどの自信が無ければ受けられないだろう。
「いいじゃないですか。騎士団に入っている人間は皆同じような剣術になりますからね。たまには慣れない相手と一戦交えてみたいです」
「ちょっとジンク……」
「それなら私と戦ってくれないか、ジンク」
困っているディオンを助けようと口を開いた瞬間、別の人間が言葉を割り込ませた。この場で聞く事などないと思っていた人物の声に、フルーネもジンクも驚いて警戒する。
振り返った先に立っていたのは薄い灰色の髪を後ろに撫で付け、刃物のような鋭い目で微笑むレオニートだった。
「レオニート殿……? どうしてここに」
「昔ディオン様の屋敷で小姓をさせていただいた事がありまして、その縁でお誘いを」
ディオンを振り返ると彼は頷き、記憶を探るように顎に手を当てた。
「数年だけ、幼少時私の遊び相手として屋敷に居たのを覚えています。でもいつの間にか居なくなっていて……先日のお城での夜会の最中に偶然声を掛けられまして」
ジンクもそこまでは知らなかったらしく、小さく舌打ちをする。
「……で? レオニート、俺と戦いたいって?」
「いいだろう? 君とはしばらくそういう機会もなかったし。……ただ」
そこでレオニートは言葉を切り、すっと視線をフルーネに移す。ただ見つめられているだけなのに、嫌な緊張感で額に汗が滲んだ。
その視線を遮るようにジンクはフルーネの前に立ち、不機嫌全開の声で続きを促す。
「ただ、何だよ?」
「おやおや、怖い顔だね。夜会には相応しくないな」
「いいから言えよ」
まさかの一触即発な事態にディオンは言葉をなくしていたが、これはまずいと感じたのかレオニートの肩を掴む。
「レオニート、ここでは……」
「勝負をしたいんだ、ジンク。フルーネ様の護衛騎士の座を賭けて」
場所を変えようと言いかけたディオンの言葉を遮り、声高らかに告げるレオニート。その申し出の内容が唐突過ぎて、フルーネの頭は一瞬考える事をやめてしまう。
「何、言ってるの、あなた……」
周囲の人々もざわざわと騒ぎ出し、事の成り行きを見守っている。
これは手合わせの域では無く、もはや決闘の申込みに近い。
「ば、馬鹿な事を言わないで! 王族の護衛騎士というものを何だと思っているの!? 賭けの対象にしようだなんて……」
「ちぃ姫」
ジンクの手がそっとフルーネの前に翳される。
「わかった。その勝負受けよう」
「ジンク!?」
こんな申し出をわざわざ受ける事などないのに、ジンクは敢えて承諾した。彼の考えが読めずにフルーネはただ呆然とする。
「日時はそっちに任せる」
「それならもう決めてある。三日後、騎士団の訓練場にて君を待つよ」
レオニートはジンクの肩に手を掛け、笑みを浮かべたまま顔を寄せた。
「逃げるなよ」
穏やかで落ち着いた声が囁いたはずなのに、その一言はまるで呪言のように聞こえた。