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すっかり冷めてしまった紅茶を少しずつ口に含みながら、フルーネは書類の山にじっくり目を通していた。過去の起案書や報告書は眺めるだけで勉強になる。当時どのように人が動いたのか、どのような采配がなされたのか、知れば知る程奥深い。
ふと書類から目を離して顔を上げる。いつも傍らにいるジンクの姿は、今は見えなかった。何度か名前を呼びかけて、そういえば居なかったのだと気付く事数回。少し席を外しただけでこのていたらく。これではジンクに子供扱いされても仕方がない。
(あーもう、早く帰ってきなさいよ。紅茶が冷たいわ)
ジンクが淹れた紅茶の味に慣れてしまったせいか、他の紅茶を飲んでもイマイチ調子が出ない。ジンクの紅茶も特別美味しいわけではないけれど、丁寧に淹れられているのがよくわかる。
(別に、ジンクがそばに居ないのなんて、初めてじゃないのに)
騎士団に属するジンクは、年に何度か定期報告を上げなければならないらしい。ここ最近ずっと、面倒臭い面倒臭いと言いながら報告書を書いていた。
数ヶ月前にもあった事なのに、あの時よりも心が落ち着かない。段々書類を見ていても集中出来なくなっているのが自分でもわかった。
出掛けたのは昼前だから、もうそろそろ戻ってきてもいい時間。今にも扉をノックして軽い笑顔で入ってくるかもしれないと思うと、自然と顔は扉を向いた。
頬杖をついてじっと見つめていると、不意に扉が叩かれた。向こうからは見えていないに決まっているのに、あたふたと居住まいを正す。
「どっ、どなた?」
「レオニートです、フルーネ様。先日夜会でご挨拶をさせていただいた」
「……レオニート殿?」
意外な人物の来訪に面食らいつつ、フルーネは入室を許可した。扉を開け、騎士団の制服に身を包んだレオニートが入ってくる。
「……ジンクは不在なのですね」
「アスタル殿の元へ出掛けています。ジンクに用があったのですか?」
「いえ、フルーネ様に改めてお会いしに参りました。先日は邪魔な犬がいたせいで、きちんとお話が出来なかったので」
邪魔な犬とは当然ジンクの事だろう。フルーネは少しムッとしてレオニートを睨む。
「レオニート殿を楽しませるような話題は持っていませんが」
「心配には及びません。普通は男が女性を楽しませるものです」
「あら、それは存じ上げませんでした」
一歩、レオニートが前に出る。
「フルーネ様は何に興味がお有りですか? 花? アクセサリー? ドレス?」
「どれも嫌いではないけれど、私を楽しませるには不十分かしら。……ジンクはちゃんと心得ていますよ。私が何も言わなくても」
また一歩。近付いてくるレオニートからプレッシャーを感じ、唇を引き結ぶ。
「随分彼を気に入っておられるようですね」
「ええ、有能な騎士ですから」
表向きは笑顔なのに、その裏側に見え隠れする鋭利な刃のような冷たさが恐ろしい。この男が何を考えているのか読み取れず、フルーネはただ後ろに退かないようにするので精一杯だった。
「……そちらの書類は?」
机の上に詰まれた書類に視線を移し、レオニートが尋ねる。
「国の治安や財政に関する書類です」
「これは驚きました。フルーネ様が政の勉強をなさっているという噂は本当でしたか」
大袈裟に驚くそぶりをするレオニート。口調に少し棘を感じ、フルーネは心が冷めていく。
「女性は着飾るのが仕事です。政治の事など男に任せておけば宜しいかと」
「女性からの視点というのも大事だと私は思っています。それに私が政治の勉強をする事、陛下からお許しいただいております」
「……女性は男性の後ろに控えているべきですよ。それが正しい在り方です」
自分を丸ごと否定された、そんな気分だった。けれどフルーネはこのくらいで折れたりしない。
以前ジンクが言っていたように、フルーネの中で答えは出ているのだから、他人の言葉など意味は無いのだ。
きっとレオニートは理解しないだろう。彼の事はよく知らないが、そのくらいはわかった。
「フルーネ様……」
「はいそこまで。それ以上ちぃ姫に近付いたら首をはねるぞレオニート」
レオニートで遮られた視界。その向こう側から聞こえた声に、フルーネの張り詰めていた神経が緩む。
剣の柄に手をかけ、不敵に微笑む黒髪の騎士が立っていた。
「ジンク」
「まったくタイミングが悪いね。せっかく君がいなくて清々しい気分だったのに」
「それは悪かったな。とっととお家に帰ったらどうだ? レオニート隊長殿」
刺々しい言葉のやり取りがフルーネの顔を強張らせる。
「相変わらず鼻持ちならない男だ」
「お互い様だろ」
それでもジンクの顔には先日より余裕がある。少し時間を置いて冷静さを取り戻したのだろう。
「とにかくちぃ姫から離れろ。……三度目は警告で終わらせない」
「君はフルーネ様をちぃ姫などと呼んでいるのか。不敬にも等しい行為だ。何故君なんかが護衛騎士の座についているのか、不思議でたまらないよ」
厭味をたっぷり含んだ笑顔で、レオニートはフルーネから離れる。これはもう好敵手なんて爽やかなものではない。心の底から嫌っているのだ、お互いにお互いを。
「ではフルーネ様、またお会いしましょう」
どん、とわざとジンクに肩をぶつけレオニートは退室した。漸く重苦しい空気が緩和されて思わず溜め息がこぼれる。
「何か言われました?」
「随分時代遅れな事を。女は政治に関わるな、ですって」
「はっ!」
嘲笑を漏らし、ジンクは髪をかきあげた。
「どっちが不敬だか。……あいつは昔からそういう考え方をする人間でしたよ。気にしないで大丈夫です」
「それは平気だけど。あの人どうしてあんなにジンクの事嫌ってるの?」
「さあ、俺が聞きたいくらいです」
「恋人奪っちゃったとか」
「ちぃ姫、怒りますよ」
笑顔で凄まれ空気が凍る。
「何よ、女には不自由してないとか自分で言ってたくせに」
「冗談だとも言ったでしょ。ていうか、レオニートの恋人になんか絶対手を出しませんよ」
「同じ人を好きになるのが嫌なの?」
「……そうですね」
ジンクとこんな話をするのは少し胸の奥が苦しくなる。自分で話題に出した手前引けないけれど、彼の口から女性の事が出てくると頭がくらくらした。
「俺が先に手に入れた女は死んでもあいつには渡しません」
ジンクが命を掛けても良いと言える程の女性が居るとしたら、それはどんな人なのだろうか。考えた瞬間、針で刺されたような痛みを胸に感じた。
*****
窓から見上げた月は、闇の中で淡く光っていて幻想的。欠けて鋭くなったラインを見つめながら、フルーネは溜め息をついた。
レオニートはまたお会いしましょうと言い残して去っていった。出来ればあまり会いたくないのが本音だが、そうもいかないだろう。ジンクもレオニートの事は好かないようだし、どうにか近付かれないように出来ないものかと頭を悩ませる。
「アスタル殿にお願いして……ううん、直接何かされたわけじゃないもの。駄目よね」
窓ガラスにこつんと額をぶつけ、再び溜め息。何度目かわからないくらいの溜め息に、また溜め息が漏れそうになる。溜め息の連鎖反応は恐ろしい。
「フルーネ、起きているか」
ノックの音と呼び掛けにハッと顔を上げる。慌てて身嗜みをチェックし、寝間着の裾を払う。
「ええ、起きております」
「そうか。入るぞ」
静かにそっと扉が開き、夜中の訪問者がランプに照らされ姿を見せる。
「陛下、一体どうされたのですか? このような時間に」
威厳を感じさせる精悍な顔付きの、壮年の男性。フルーネの父親である、国王陛下。未だ正装のままの彼は、右頬に薄く刻まれた傷痕を左手で一撫でし、傍にあった長椅子に腰掛けた。
「二人だけの時はそんなに堅苦しくならなくても良いと言っただろう」
「では、父上」
「……もう少し頑張ってほしいが、まあいいだろう」
少し寂しそうに、少し不満そうに呟いて顎を撫でる父に、フルーネは苦笑する。
「それで、父上。急ぎのご用事でしょうか? 何かありました?」
「ああ、いや、急ぎという程のものではないが……人がいない時の方が良いかと思ってな」
「え? な、何か人に聞かれてはまずいお話ですか?」
そんな重要な話を何故自分に、と焦りと混乱で思わず取り乱す。なにしろ陛下直々に部屋を訪ねてきたのだ。そのうえ人に聞かれたくない話とあっては緊張するのも致し方ないというもの。
けれどフルーネの不安を掻き消すような笑い声が部屋に響き、王は手を左右に振った。
「違う違う。聞かれたくないのはむしろお前の方ではないかな?」
「え? 私ですか?」
「ああ」
何の事かと首を傾げるフルーネの目の前に、王は懐から出したものを差し出した。紐で括って束になった紙。そのデザインと微かに鼻孔をくすぐる香りから、それらが何かの招待状だと気付く。
「すべてお前宛てだ」
「え!? こんなに? これは一体……」
「貴族達がこぞってお前を屋敷に招きたいらしい。夜会を開くそうだ」
「私個人を? 父上宛てでなく? どうして……」
突然、先日のジンクの言葉を思い出す。アデレードが婚約した後はフルーネに縁談が持ち上がるだろう、と。あの言葉は決して考え過ぎでも大袈裟でもなかったのだ。
「あ、ああああ」
「まあ、そういう事だ。判断はお前に任せよう」
「い、行きません! 丁重にお断り致します!」
「言うと思ったよ。では私の方から断りの書状を送っておこう」
開かれる事もなく突き返された招待状の束を再び懐にしまい、王は立ち上がる。
「私の返答が予測できていたなら、わざわざお持ちいただかなくても良かったじゃないですか。受け取らずにその場でお断りいただいても私は別に……」
「お前に来た誘いを私が勝手に断るわけにもいかないだろう」
「次からは全部お断りしていただいて構いません! わ、私はまだそういう事には興味ありませんから」
ムキになって頬を膨らませるフルーネの頭を撫で、王は目を細めた。
「ジンクの前でこういった話をするのもなかなか複雑な心境だろうと思ってな。私も体が思うように空けられず、こんな時間になった。許せよ」
「い、いえ、お心づかい嬉しく思います。ジンクに聞かれては冷やかされるのが目に見えてますもの」
面白がって「ちぃ姫、誰の招待を受けるかクジで決めましょうよ!」などと軽く笑う姿が容易に想像出来る。父の言う通り、ジンクは勿論他の人間にもあまり聞かれたくなかった。
「ジンクとは仲良くやっているようだな」
「どこがですか!? やめてって言ってもちぃ姫って呼ぶし、私に対して遠慮無いし、すぐ馬鹿にするし! 父上がどうしてジンクをお選びになったのか不思議でたまりません!」
「どうしてと言われれば……だからこそだと答えるしかないな」
曖昧にかわされてフルーネは納得がいかず王を睨み付ける。いつかはちゃんと聞きたいと思っていたのだ。フルーネの護衛騎士にジンクを選んだ理由を。
「お前が歩みたいと思った道、ジンクならきっと守ってくれるだろう。肩肘を張らず、本音を語れる相手がお前には必要だと思ったのだ」
「……本音」
「ジンクがフルーネに遠慮をしないのなら、フルーネもジンクに遠慮しないのだろう。違うか?」
「それは……そうですけど」
慇懃無礼な黒髪の騎士。もしも護衛騎士が彼でなかったら。フルーネはどんな自分でいただろう。
「彼の事が嫌なわけではないのだろう?」
「……ええ。感謝、しています。ジンクがいなかったら、私はきっとやりたい事に手が届かなかったかもしれませんから」
ややぎこちなく、それでも素直に気持ちを述べるフルーネに、王は優しく微笑む。
「それが答えで、私が望んだ未来だ」
あたたかい手が頭を撫でるのを感じながらフルーネは少し照れ臭そうに俯き、小さく「ありがとうございます、お父様」と呟いた。