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「夜会?」
書類を片付けていたフルーネが顔を上げ、キョトンと目を丸くする。
「やっぱり忘れてたんですね。言ったじゃないですか、今夜は夜会があるって」
「そ、そうだったかしら」
呆れて溜め息をつくジンクから視線を逸らし、小声でもごもごと喋る。連日色々忙しくて、うっかり聞き逃したなどとは言えない。
「結構来賓が多いみたいですよ。何かあるんですかね」
「ふうん?」
「ちぃ姫、ドレスは何着るんですか?」
「その呼び方はやめてちょうだい。……私が何着ようがあなたには関係ないでしょ」
何故そんな事を聞くのか、少し不思議に思い、少しドキドキしながらジンクを見上げる。黒髪の騎士はびっくりするくらい柔らかく微笑んでフルーネを見返した。
「いや、ちぃ姫思ったより意外と胸あったんで露出多めでも大丈夫ですよって言いたくて」
「台詞と表情が合ってない!! この煩悩騎士!! っていうか、わ、私の胸の事なんていつ……っ」
「こないだ視察に行った時に」
思い返せば確かに思い切り抱きしめられた。まさかあの時そんな事を考えていたなんて。
「ちゃんと成長していたみたいで良かったじゃないですか」
「良くない!! 忘れろ!! 記憶から抹消なさい!!」
顔から火が出そうな羞恥に視界が歪む。せめて黙っていてくれればいいのに、この騎士はけろっと何でもないような顔で口に出してしまう。
抱きしめられた感触まで思い出し、フルーネは頭を抱えて呻いた。
「うあううあああ」
「ちぃ姫、大丈夫ですか?」
「あなたのせいでしょう!? もう、ジンクなんか大嫌い!!」
「ええー傷付くなあ」
よく言う。フルーネに嫌われた所でさほど気にしないくせに。
へらへらした笑顔がカンに障って顔を背けた。
「でも少し細いです。折れるんじゃないかって、心配になったぐらい」
「……普通でしょ」
「もう一度確かめてみますか?」
ほら、とジンクが両手を広げる。質が悪いのは、からかっている顔に見えない事。優しく微笑んでフルーネを見つめるから、冗談だと思っていても心臓が跳ねる。
「これでも抱いてなさいっ!」
ソファまで走りクッションを掴んで力いっぱい投げる。それを軽々と受け止め、ジンクは声を上げて笑った。
「なかなか良いコントロールですね。投擲の訓練受けてみたら頭角を現すかもしれませんよ」
「それはどうも!」
微妙に嬉しくない褒められ方だ。どうせなら本当に訓練を受けてジンクに奇襲をかけてやろうかと、物騒な考えが頭をよぎる。クッションなんて言わず、槍の一本でも投げたい気分だ。
「で、ドレスは何を?」
「その話題から離れなさいよ」
「胸元開いた奴にしてくださいよ。絶対似合いますから」
「……っ!!」
笑顔で言われ、フルーネは耳まで赤くして言葉を詰まらせる。何か言い返そうとしても、動揺の為か何も出てこない。
「……馬鹿! 馬鹿! 馬鹿ーっ!!」
何とか絞り出したのはまるで子供の癇癪のような罵声だった。
*****
絶対に言う通りにするものかと思っていたのに、気がつけばフルーネは袖も肩紐も無いビスチェドレスを着て壁際に立っていた。パフスリーブを着た愛らしい姉の姿が遠目に見える。
楽団が奏でる音楽も耳に入らないくらい、フルーネは後悔で何も考えられなくなっていた。給仕に渡された果実酒をちびちび飲みながら、何度も溜め息をつく。
「やっぱりこんなドレスにしなきゃ良かった……」
「え、何でですか。似合ってるのに」
「恥ずかしいのよ! もう、上着貸しなさいよジンクの馬鹿!」
「じゃあ何で着てきたんですか」
「それは……」
一瞬で薔薇色に染まったフルーネの頬を軽く指でつつき、ジンクは可笑しそうに笑う。
「俺の要望に応えてくれたんですよね」
「そ、そういうわけじゃないけど」
「似合ってますよ。堂々として見せ付けてやればいいんじゃないですかね。背中は丸めないで」
背中に手を添えられ、フルーネは反射的に背筋を伸ばした。耳にぶら下がったイヤリングがシャランと涼やかな音を立てる。
「俺の主です。この場にいる誰よりもちぃ姫は立派ですよ。……こんな端っこに居るのは勿体ない」
目の前に差し出された手。素直に言う事を聞くのは悔しいけれど、見つめてくる視線が肌に痛い。
無言のままゆっくり手を重ねると、優しく、けれど力強く引かれてフルーネは歩き出した。一歩足を踏み出す度に逃げたくて仕方なくなるが、斜め前の黒髪を見ればその気持ちも何とか抑えられる。
ジンクがフルーネという主人を持った事、後悔させるわけにはいかない。
「フルーネ」
人と人の間を抜けていくと、アデレードが声をかけてきた。今宵の姉姫はどこか印象が違う。髪型、化粧、アクセサリー、ドレス、すべてが少しずつ、いつもの夜会よりも気合いが入っているように感じられた。
「まあフルーネ、今夜は何だか大人っぽいのね。素敵よ。ドレスはもしかしてジンクの見立て?」
「す、少しアドバイスを貰っただけよ! に、似合ってるかどうかなんてわからないけど……」
「あら、とても似合っていてよ」
照れ臭くなって俯こうとするフルーネに、ジンクが「前を向いて」と囁く。すんでのところで顔を上げると、アデレードの後方に男性が立ってこちらの様子を窺っている事に気付いた。
「ええと、フェレス伯爵の……」
「ええ、伯爵のご子息でいらっしゃる、ディオン殿よ」
少し頼りなげだが人の良い笑みを浮かべ、ディオンはフルーネの前へ進み出た。
「ちゃんとご挨拶するのは初めてですね、ディオン殿」
「ええ。何度か夜会でお姿は拝見していたのですが。ドレス、よくお似合いですよ」
「……っ、ありがとうございます」
ギリギリで笑顔を作った自分を褒めてやりたい。社交辞令だとわかっていても恥ずかしいものは恥ずかしい。
「姉上とディオン殿がお知り合いとは存じませんでした」
「ふふ。だったら隠していた甲斐があるかしら」
「隠し……?」
アデレードの発言の意味を尋ねようとした瞬間、ホールにざわめきが広がる。少しして、聞き慣れた声が凛と響いた。
「皆、楽しんでおられるだろうか」
人に遮られて姿は見えないが、すぐに父親である国王陛下の声だと気付く。
「酔いも回ってきた頃に長話を聞きたくはないだろうから、簡潔に報告させていただこう。しばし耳を傾けてくれ」
(報告?)
政治に関する話題だろうかとフルーネは耳を澄ませて次の言葉を待つ。しかし父の声で告げられた内容はまったく予期していないものだった。
「我が娘アデレードと、フェレス伯爵のご子息ディオン殿の婚約を正式に交わす事になった。皆、祝福してやってくれ」
一瞬の静寂の後、一気に歓声が沸き上がる。耳に痛い程の拍手喝采を受け、アデレードとディオンは微笑み合って人々に頭を下げた。
「あ……姉、上?」
ひとりポカンとするフルーネを振り返り、アデレードは悪戯っぽく笑って抱き着いてきた。
「フルーネを驚かそうと思って内緒にしていたの」
「な……え、本当に? 本当に姉上、ディオン殿と?」
「ええ。婚約するのよ」
「……ちぃ姫、言わなきゃいけない事あるでしょ」
ジンクに耳打ちされて初めて、漸く事態を飲み込めた。幸せそうに微笑む姉を抱き返し、笑顔で手を握る。
「おめでとう、おめでとうございます姉上」
「ありがとう、フルーネ。言いたくて仕方なかったのよ」
人に呼ばれて忙しく去ってしまったアデレードを見送り、フルーネは思わず溜め息をついた。結婚してもおかしくない年頃ではあるが、こんなに急に現実が訪れると頭がついていかない。
「だから今日は来賓が多かったんですね」
「そうね。……はあ、そっか。姉上……ディオン殿と……」
「これは参りましたねえ。次はちぃ姫が大変ですよ」
「……どうして?」
「アデレード様がもう誰かのものになってしまえば、次はちぃ姫に縁談が殺到するのは当然でしょ。万が一アデレード様に子供が出来なければ、ちぃ姫の子供が世継ぎになる可能性もある。まあ、それでなくとも姫君の夫の座を射止められれば地位も権力も手に入りますし。例え二番目の姫であっても」
ジンクがすらすらと述べるのを、フルーネは青い顔をして聞いているしか出来なかった。いずれ自分も結婚するだろう、などと悠長に言っていられなくなるかもしれない。
「ま、大丈夫でしょ。今すぐ結婚どうこうってのは無いはずですから」
「そ、そうかしら」
「アプローチは覚悟していた方がいいかもですけど」
「ええええ」
せっかく政治の勉強を始めた所なのに、結婚してしまえば続ける事が難しくなってしまう。それに、自分が誰かの妻になるという想像がまったく出来なかった。
アデレードは表情を見ればわかる。ディオンの事が好きなのだ。
想う人と手を取り合って歩いていける姉が羨ましい。まだ恋というものがよくわからないフルーネには眩しく見えた。
「……ちぃ姫」
軽く腕を小突かれ顔を上げると、見覚えのある男性がこちらに向かってきていた。
「フルーネ様、お久しぶりです」
「アスタル殿、ソロイ殿。騎士団からも出席されていたのですね。私ったら挨拶に伺いもしないで……」
「いえ、我々も慣れない場で緊張してしまって。お恥ずかしい話です」
騎士団長のアスタル、副団長のソロイが揃って頭を下げる。来賓として招かれる事があまり無いせいか、夜会の空気にやや疲れた様子だった。
「ジンクも久しぶりだな。どうだ、調子は」
「おかげさまで。……ところで……」
頭を撫でようとするアスタルの手をかわしながら、ジンクは更に後方を見て眉をひそめる。アスタル達の後ろには、もうひとり男性が控えていた。
薄い灰色の髪に青い瞳。年頃はジンクと同じくらいでまだ若い。うっすら笑みを浮かべる男性はジンクを無視してフルーネの前へ歩み出た。
「レオニートと申します、フルーネ様。最近隊長に昇級したばかりですので、お会いするのはこれが初めてですね」
「初めましてレオニート殿。まだお若いのに隊長だなんて、才能がお有りなんですね」
「勿体ないお言葉です。それに、フルーネ様は私などより有能な騎士を従えていらっしゃる」
そこで初めてレオニートはジンクを見た。にこやかに、けれどどこか冷ややかな視線。
「レオニート殿?」
「それにしても、噂で聞いていたよりお美しい。今宵の月のまばゆさも霞むようです」
「あ、ありがとう……」
突然ボスッと肩に何かが掛けられた。白と黒の布地に金のボタン。ジンクが着ていた上着だ。
「姫様はお体が冷えたらしいので」
フルーネの肩を掴んで引き寄せながら、ジンクはさりげなくレオニートとの間に割って入った。レオニートの方はあまり気にした様子も無く、笑顔のままでフルーネに頭を下げる。
「では、私はこれで」
踵を返し靴の音を響かせながら去っていくレオニート。その後ろ姿を見てアスタルとソロイは困ったように苦笑した。
「お前達は相変わらずか。少しは仲の良いフリでもしてみせろ」
「そう見えませんでした?」
「見えてたら言わん」
上着が落ちないように手で押さえながら、フルーネは不機嫌そうな顔のジンクを見上げた。彼がこういう表情をするのは珍しい。
「ジンク、レオニート殿と知り合いなの?」
「同期です」
所謂ライバルというものだろうかと納得する。
「……しくじったな、そんなドレス薦めるんじゃなかった」
「は!? な、何よそれ!」
今更何を言い出すかと怒鳴りかけるが、次の言葉でそれは適わなくなった。
「レオニートに見られるなんて腹が立つ。それずっと羽織っててください」
「は……え、え?」
戸惑うフルーネの肩を叩き、ソロイが笑いながら耳打ちをする。
「犬猿の仲である相手に、フルーネ様の肌を見せる事が嫌なんですよ、ジンクは」
「ちょっと、副団長。ちぃ姫に何を吹き込んでんですか」
「何も」
今夜のジンクは珍しい顔ばかりする。初めて見る照れた表情に思わず頬が緩みそうになるのをなんとか耐え、フルーネはジンクの熱が残る上着の襟元をぎゅっと掻き合わせた。