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石畳の上を歩く足音は二人分。昼間だというのにどこか陰鬱な雰囲気が漂う下町を、フルーネとジンクは歩いていた。
「全然人が見えないわね」
「この辺りが活気づくのは夜になってからですよ」
「……成る程」
酒場も多いが、所謂異性と遊べる店も少なくない。日が落ちれば通りには客引きの女性などが並ぶのだろう。
その方面が苦手なフルーネは、僅かに頬を染めて咳ばらいした。
「ジ、ジンクは此処に来た事あるの?」
裏返る声で尋ねれば、返ってくるのは笑い声。何がそんなに可笑しいかと睨みつける。
「ちぃ姫、無粋というものですよ」
「りっ、利用した事があるの!? 騎士ともあろう者がっ!?」
「騎士ったって男ですし人間ですし」
「それはそうだけど! それはそうだけど!」
「ちぃ姫にはまだ早い話ですよ」
「なんですって!?」
ジンクがそういう店に入った事を咎める理由など無く、フルーネに文句を言う権利も無い。しかしこの行き場の無い怒りは何なのだろうか。
ジンクの周りには見えない壁があって、四方八方を囲んでいる。フルーネには踏み込めない領域。入るなという拒絶すら時々感じる。
それがどうしようもなく腹立たしい。
「別に、あなたが女の子と遊ぼうがデレデレしようが私は全然気にしませんから」
「怒りました? ちぃ姫もなかなか潔癖な人ですね」
「お子様だって、言いたいんでしょ」
どうして距離は縮まらないのか。こんなに近くにいるのに、フルーネはジンクの事を何も知らない。考えている事の予測すら出来ない。
膨らませたフルーネの頬に何かが触れる。皮膚の感触。ジンクの指。
「冗談ですよ。酒場には来た事ありますけどね、女遊びなんぞしませんよ」
「……今更取り繕わなくても」
「女には不自由した事がないんで」
「最低!!」
ブーツの踵で踏み付けようとするが、ひらりひらりと軽快に避けられる。
「それも冗談ですけどね」
「冗談だって言えば何でも許されると思ってるわね!?」
閑散とした通りで大声を上げれば響き渡るのは当然。民家の窓にぽつぽつと人影が映っていくのに気付き、フルーネは顔を真っ赤にした。
怒鳴る原因を作った本人は涼しい顔で知らんぷり。つくづく意地が悪い男だ。
「……遊んでるヒマなんて無かったわね。私は仕事をしに来たのだもの」
ジンクにからかわれて醜態を晒したなどと報告書に書けるわけがない。いつまでも引きずるのはスマートな大人の対応ではない。気持ちを切り換えてキリッと前を向いた。
「もう少し奥に行っても大丈夫なのかしら」
そっと指差した先は狭い路地裏。太陽の光が建物に遮られ、暗く陰った通路が続いている。
フルーネの質問にジンクは一瞬眉をひそめた後、厳しい表情で口を開いた。
「俺の後ろから絶対に離れないでください」
それだけ言って歩き出す黒髪の護衛騎士。その後を追い掛けて、フルーネも小走りになる。
「人に会っても目は合わせないでくださいね。話し掛けられても応えないように」
「わ、わかった」
初めて入る路地裏はじめじめしていて生臭い匂いがした。所々に捨てられた煙草や酒のビン。飛び回る虫の羽音。通り掛かった家から突然泣き声が聞こえてきてびくりと肩を揺らした。
歩いていく内に少し道が広くなり、ほんの僅かな開放感に息を吐き出した。けれどそれも一瞬の事。通路脇に人の足を見つけて体を強張らせる。
「……っ」
壁に背を預けて座り込んだ男性は、ボサボサの髪の合間からフルーネを見上げてきた。目を合わせてはいけないというジンクの言葉を咄嗟に思い出し、息を止めて俯く。
「後ろ、服掴んでてください」
小声で囁かれ、言われた通りにフルーネはジンクの背中にしがみついた。一気に通り過ぎるつもりらしく、歩く速度が速くなる。
横目で窺った先には子供の姿もあった。先程の男性と同じようなボサボサの頭、黒く汚れた服、血の滲んだ素足。
自分がここに来た目的を忘れてはいない。目をつむったままでは目的を果たせない。フルーネはジンクの背中に額を押し付け、唇を噛みながら通り過ぎた光景をすべて目に焼き付けた。
*****
「大丈夫ですか」
「ええ……あまり良い気分ではないけれど。……あの、あの人達は……」
「事情があって住む家がない人達です。表に寝所を作ると役人や他の住民が立ち退けとうるさいから、ああいう場所で寝起きしてるんですよ。麻袋があったでしょう、あれを重ねて被れば少しくらいは夜の寒さを凌げます」
「子供もいたわ。痩せてしまって、怪我もして……」
「あれでもマシになった方です。昔はもっと荒れていたらしいですし」
「そうなの……帰ってから記録を読まなくちゃ」
フルーネには知識も経験も全然足りない。見られるものはすべて見て、聞けるものはすべて聞いて、学べるだけ学んで世界を広げなければいけない。
そうする事が父を助け、国を守る事に繋がるならば、その為の努力など苦では無い。いつまで続けられるかわからないけれど、たとえ短い間しか政治に関われなくてもフルーネは全力を尽くす。
「辛くないですか。ああいうの見るの」
不意にぽつりと尋ねられ、ジンクを見上げる。漆黒の瞳はフルーネの姿を映し、微かに揺れていた。
「辛くないわけではないけれど……」
優しい姉はきっと耐えられない。目を逸らしてしまうだろう。そしてきっと彼等を思って心を痛め、涙を流すのだ。
けれど、フルーネは目を逸らさないでいたい。
「大丈夫よ。私は姉上みたいに優しくないもの。か弱くないもの。神経図太く生きてるから心配ご無用」
胸をドンと叩き、腰に手を当てる。そんなフルーネを見てジンクは額を押さえ、わざとらしく長い長い溜め息を吐いた。
「ちょっと、何よ」
「いいえなんでも」
「言いたい事あるなら言いなさいよ、気になるじゃない」
ちら、とジンクが横目でフルーネを見る。
「ちぃ姫」
「な、なに」
「ちょっとこっちに」
突然手首を掴まれ、抱くように引き寄せられる。驚いたフルーネは足を縺れさせ、ジンクの胸元に頭から突っ込んでしまった。
「なに、なに!?」
「ちぃ姫ったら大胆」
「転んだだけよ!! 馬鹿!!」
フルーネが怒鳴ってもジンクは手を離さない。何かあるのかと気付いて首だけを動かし後ろを振り向くと、数人の男達が並んでいた。
いずれも下卑た笑みを浮かべ、まるで品定めをするかのようにフルーネを上から下まで見ている。どういう意図が含まれている視線なのかを悟り、フルーネは怒りと羞恥で顔を真っ赤に染めた。
「昼間っから見せ付けてくれんじゃん」
「お姉ちゃん可愛いねー」
ねっとりとした声で言われ肌が総毛立つ。
「何か用か?」
「用があるから話し掛けてんだよ、兄ちゃん」
「ならとっとと用件話せよ。見ればわかるだろ? 俺達はいちゃいちゃするので忙しいんだよ」
「ちょっ……」
頭の後ろと背中に手を回され、フルーネはジンクに抱きすくめられる。慌てて引きはがそうにも力で敵うはずもなく、彼の腕はびくともしない。
「ちっ」
「兄ちゃんよぉ、喧嘩売ってんのか?」
「売ってるのはそっちだろ。なんだ、可愛い恋人がいて羨ましいのか」
抱きしめる力が強くなった腕の中で、フルーネはもう言葉も発せず夕焼けのような真っ赤な顔で固まっていた。
「その可愛い恋人を、俺らに譲れって言ってんだよ」
ドスのきいた声に、ジンクは喉の奥で笑った。
「悪いけど、あげないよ」
突然足の裏から地面の感触が消え、フルーネの体が宙に浮いた。
「う、うええあ!?」
ジンクはフルーネを横抱きに抱え走り出した。後ろを男達が追い掛けてくるのが見える。
「ちょっと! 逃げるの? あいつら倒さないの!? あなた強いんでしょう!?」
「あれは俺をちぃ姫から引き離す係ですよ。勇敢ぶって奴らに向かっていけば、後ろに隠れていた別の男がその隙にちぃ姫を捕まえていたでしょうねー」
「え? い、居た? そんな人」
「二、三人ほど」
もう一度後ろを見ると、成る程確かに男達の人数が増えていた。
「戦うより逃げる事を選ぶ場合も有りますよ。俺の役目はあいつらを倒す事じゃない。ちぃ姫を守る事ですから」
不覚にも心臓が跳ね、フルーネは口をつぐんで俯いた。
(いちいち狡いのよ)
普段敬っている様子なんて見せないくせに、いざという時には騎士になるなんて。見上げた横顔の真剣さに胸が苦しくなる。
「てめぇ!! 待て!!」
「そんなおっかない声で待てとか言われても待てるわけないでしょ! アホなオッサンらだなあ」
「聞こえてんぞクソガキ!!」
男のひとりが手にしていた石を投げてきたが、後ろに目でもついているのかジンクはあっさりと避けた。ますます怒り心頭の追っ手に舌を出し、僅かに減速して角を曲がる。
少し進んだ所でまた別の道へ。それを繰り返して何度も何度も曲がり、元の道がわからなくなる程目茶苦茶に路地を走った。
見失った際に手分けして探そうとしたのか、いつの間にか男達の数は半分以下。だいぶ疲れているだろうに、それでもまだ追い掛けてくるのだから根性だけはあるのかもしれない。
「よっ、と」
通路の途中にあった箱詰めの荷物を蹴り飛ばし、障害物になるようにばらまく。狙い通りにそれは男達を足止めし、その間にジンクはぐんぐん引き離していった。
フルーネだったら絶対に迷子になっていたであろう道を、何の迷いもなく走り抜ける。ジンクの息は多少荒くなっているが、規則的なリズムを刻んでいた。
自分で自分を強いと自画自賛するだけはある。
「……誰も追い掛けてこなくなったわ」
「上手く撒けたかな? もう少し行けば大きな通りに出て人目もあるはずなんで、それまで我慢しててください」
ジンクの額から頬へ伝う汗の滴に目を留め、フルーネは指を伸ばした。そっと拭うと驚いた顔でジンクが反応する。
「……汚いですよ。ちぃ姫の指が汚れます」
「目に、入ったら邪魔だと思って」
「まったく……不意打ちが得意なお方だ」
ぎゅっと抱き抱える手に力を込められ、フルーネは伸ばした手を引っ込める。汚いなどとは思っていない。自分の為に流された汗を、どうしてそのように思えるだろうか。
「出ますよ」
抱えられた時と同じように素早く地面に降ろされ、今度は手を引かれた。人目がある場所であのような格好はフルーネに恥をかかせるだろうという、ジンクの珍しい配慮だった。
数歩も歩けばジンクの言った通り、すぐに賑やかな繁華街に出た。道ひとつ違うだけでこんなに雰囲気が変わるものなのかと呆気に取られる。
「やー、無事に逃げられましたね。怪我は無いですか?」
「あなたがきちんと守ってくれたおかげでね。揺られ過ぎてちょっとクラクラするけど」
「歩けないようなら抱えますよ」
「遠慮するわ」
もう既に呼吸を整えたらしいジンクは、いつもと同じ軽い笑顔。気が抜けるような安心感を覚えて、フルーネも釣られて頬を緩ませた。
「さて、せっかくだから繁華街も見ていきましょうか」
「仕事熱心ですね」
「それはあなたの方でしょう」
こほん、とひとつ咳ばらいをして、緊張に固まった口を開く。
「……その、……ありが、とう」
消え入りそうなか細い声でも、ジンクは聞き逃さない。吊り上がり気味の目が優しく細められる。
「ちぃ姫」
「なによ」
「あなたは十分優しくてか弱いですよ。だから俺はちぃ姫を守るんです」
不意打ちが得意なのはどちらなのか。あからさまな溜め息をついて物言いたげにしていたのを思い出し、頬が熱くなる。
「じ、ジンク……」
「あー、それにしても何か不完全燃焼だなー。やっぱりひとりくらいぶちのめせば良かったかな」
「……ちょっとは騎士っぽさを持続させなさいよ!!」
「ちょっ、蹴らないでくださいよ。何怒ってるんですか」
その後、いつものやり取りで二人は人目を引いた揚げ句通りがかった子供達に指差され笑われるという醜態を晒し、フルーネはしばらくジンクと口をきかなくなるのだった。