10
剣を抜きながら中央へと歩いていくジンクの姿にフルーネは安心から頬を緩ませていたが、その顔から段々笑みが消えていく。振り返るとソロイやディオンも神妙な顔つきをしていて、自分と同じ事を思っているのがわかった。
「ジンク、何か変だわ」
「……怪我をしているようですね」
「怪我!?」
慌てて下へと視線を戻す。ぎこちない歩き方。時々ふらりと上半身が揺れ、剣を持つ右手を左手が押さえている。
「フルーネ様」
重い足音を響かせて姿を見せたのはアスタルだった。僅かに息を乱し、額に汗を浮かべている。
「ジンクの奴、時間が無いからと手当てもロクにしないで飛び出していってしまったんです……ああ、言わんこっちゃない。ふらふらじゃないか」
舌打ち混じりの言葉にフルーネは青ざめる。
「や、やっぱり怪我をしているのですか?」
「……体中に打撲の痕、右腕に刃物で斬られた傷がありました」
「団長、フルーネ様にそこまで言わなくとも……」
顔をしかめるソロイを手で制し、アスタルは言葉を続ける。
「ジンクは長時間暴行を受け続けていたようです」
何故、などと口に出さなくてもその場に居た全員が感づいていた。レオニートの仕組んだ事ではないかと。ジンクが時間までに来る事は無いと確信していたかのような言動。現れたジンクをまるで幽霊でも見たかのように凝視していた反応。
ジンクはレオニートの妨害を受け、足止めをされていたのだ。最低な手段で。
「ふらふらじゃないか、ジンク。酒でも入っているのか?」
ニヤニヤとわざとらしい笑みを浮かべるレオニートが、剣先をジンクに向ける。
「気持ちの悪い顔だな。さすが、姑息で卑劣な騎士様は違う」
「……っ、余裕じゃないか! なら遠慮はいらないな!」
「する気も無いくせに」
「黙れ!!」
怒鳴ると同時にレオニートが走り出す。素早く振り下ろされた剣はジンクの剣に阻まれ、耳障りな金属音を立てる。
「私は君が大嫌いだ、ジンク」
「ありがとう、俺もだ」
レオニートは不敵に笑うジンクを睨み付け、再び斬撃を繰り出した。下から斜めに斬り上げた剣先はジンクの服だけを掠め、流れるような動きで次の一手に切り替えられる。
何度も何度も振られる刃は、その度に紙一重でジンクに受け止められる。一見無駄なようにも思える行為だが、それが徐々に効果を現してきた。
「……右手を狙っていますね」
「ああ」
アスタルとソロイは苦い顔をして戦局を見守っている。ただでさえジンクは全身傷だらけで戦っているのに、怪我をした右腕を執拗に狙われ明らかに体力を消耗していた。防戦一方になり、少しずつ押され始める。
フルーネは手摺りを握りしめて唇をわななかせると、耐え切れずに口を開いた。
「卑怯だわ! 怪我をしているのをわかっていて狙うなんて!」
フルーネの叫びに、レオニートは笑って剣を振るいながら叫び返す。
「狙ってはいけないルールなどありませんよ、姫君!」
「そんなの屁理屈よ!」
誇り高き騎士同士の決闘はもっと正々堂々と行われるべきでは無いのか。悔しさとジンクを案じる気持ちが混ざり合って視界がぼやける。
「確かに、怪我をした箇所を狙ってはいけないというルールはありません」
「でも、でもアスタル殿! 私には我慢がならない……!」
「私も、出来ればこんな決闘は見たくありませんでした」
騎士団を背負うアスタルとてまた、誇りも尊厳も無い決闘など見るに堪えないと感じているのだ。
「ジンク……」
レオニートの剣は容赦無くジンクの右腕を攻め立てる。剣を持っている為隠すわけにもいかない。
「そんなに護衛騎士の座が欲しいか?」
「ああ、欲しいさ! そして今その座を得ているのが君だという事実が、殊更気に入らない!」
かわし切れなかった刃がジンクの怪我を突く。決闘用の剣は本当に切れはしないが、えぐられるように傷口を攻撃されてジンクは小さく呻き声を漏らした。更に追撃をかけようとするレオニートから瞬時に離れ距離を取り、荒々しく肩で息をする。
「ジンク!!」
弾かれたようにフルーネは駆け出し、近くの階段から下へと降りていく。
「フルーネ様! 危ないのでお下がり下さい!」
慌てた騎士達に止められ、フルーネはジンクに近付けない。ただ表情がかろうじて見える程の距離。
もうやめて、とは言えなかった。自分の為に戦ってくれている騎士に、そんな言葉はかけられない。
けれどこんなのはあんまりだ。血だらけの右腕を見てフルーネは涙を溢れさせる。
「……あーあ、あなたにそんな顔させるなんて、騎士失格だな。俺は」
いつもと同じ軽い口調でジンクは肩を竦め、レオニートに視線を移す。
「ちょっと待った」
「何?」
「いいだろ、ちょっとくらい。……たった数十秒待ったをかけられたせいで負けた、なんて小さい事言わないよな?」
「寝言なら寝て言いたまえ。私の勝ちは揺らがない。……いいだろう、君に情けを掛けるというのも良い気分だ」
それはどうも、と再び首を竦め、ジンクはフルーネに笑顔を向けた。
「……何、笑っ、てんのよ……。け、怪我なんか、して、つ、辛いくせに……笑わないで……」
「それはすみません。ちぃ姫が素直に心配してくれてるのが嬉しかったので」
「嘘ばっかり……!」
ちゃんとジンクを見ていたくて、流れ続ける涙を拭う。強く擦り過ぎて目の周りが痛いけれど、こんなものはジンクの痛みには全然及ばない。
「フルーネ様」
静かに呼んだ声が誰のものか、一瞬理解が出来なかった。ずっと「ちぃ姫」としか呼ばなかったその唇で、今この場面でフルーネの名前を呼ぶなんて。
「どうか、ご命令を」
狡い上に酷い男だ。この勝負を止めさせてはくれないどころか、フルーネに命令を要求する。戦えという非情な命令を。
「本当に狡いわね」
小さく呟き、フルーネはジンクを見つめる。彼が傷付くくらいならこんな決闘などやめてほしい。フルーネが一言その思いを口にすれば、終わらせる事が出来るのかもしれない。
けれどジンクは望まない。待っているのはそんな言葉では無いのだ。
ならばフルーネは言わなくてはならない。どんなに自分の意志に反していようと、ジンクの主でいる限り。自分自身が彼の主でいたいと願っている限りは。
「ジンク」
「はい」
もう少し緊迫感でも出せばいいのに、ジンクときたら普段通りの軽い笑顔で。だからフルーネも普段通りに言い放った。
「絶対勝ちなさい! 勝利以外は認めないわ! もしも負けたりしたら、私の投擲訓練の的にするわよ!」
声も体も震えていたし、顔は涙でぐしょぐしょ。みっともない有様だったけれど、フルーネは周りの目など気にせずジンクだけを見つめていた。
「それは遠慮したいところですね。……まあ、負けなきゃいいわけで」
剣を構えてジンクはレオニートへ向き直る。
「もういいのか、ジンク。時間稼ぎにはまだ早いんじゃないのかい」
「時間稼ぎはお前の専売特許だろ」
「……何の事を言っているかわからないな」
「意外! お前って頭悪かったんだな!」
幼稚な挑発にレオニートの顔が赤く染まる。憤怒の表情で駆け出し、一気に距離を詰めてジンクに斬り掛かった。
金属音が響き、刃は受け止められる。怪我をした腕では支えきれないだろうと判断したのか、レオニートは剣を引かずそのまま力を込めた。
次の瞬間、レオニートの側頭部を衝撃が襲う。
「なっ……」
反射的に身を引けば、顎先を何かが掠める。それがジンクの踵だと気付き、焦りから舌打ちが漏れた。
「くそっ!」
大きく後退するレオニートを追い、ジンクが駆けた。
カウンターを狙ってレオニートは剣を繰り出すが、何の手応えも無く空を切る音だけが耳に響く。視界にジンクが居ない。
気配に気付いて視線を下ろした時にはもう遅かった。体勢を低くしたジンクがにやりと口の端を持ち上げ、左側を軸に右足を蹴り上げる。
今度こそ踵はレオニートの顎に勢い良く埋められた。頭の先まで衝撃が抜け、彼はふらりとよろめく。
武芸とは縁遠いフルーネにもわかった。ジンクの動きは騎士達のそれとは全然違う。剣で攻め剣で守る騎士達の戦い方とは。
しなやかな猫のように身軽で柔軟な動きは、剣ではなく己の肉体そのものを主軸にしているように見えた。
「……っ、卑怯だ! 騎士なら剣で戦うべきだろう!」
「そんなルールは無かったと思うけどなあ。つーか、お前が卑怯とか言っちゃう?」
呆れ返って溜め息混じりの返答。小馬鹿にしたような物言いが最後の一押しだったのか、突如レオニートが言葉にならない声で狂ったように叫びをあげた。覚束ない足取りながらも、剣を振り上げジンクに向かって突撃する。
「俺の方がキレたいっての」
レオニートが目茶苦茶に剣を振るのをすべて避け、ジンクは左手で拳を握った。きっともうレオニートはそれすらも見えていない。気取って余裕ぶっていた彼の面影はどこにも無かった。
何の工夫もなく、ただ力の限り繰り出されたジンクの拳が、レオニートの頬を殴り飛ばした。地面に倒れ込む灰色の髪の騎士。その喉元に剣を突き付け、黒髪の騎士は小さく呟いた。
「俺の勝ち」
しんと静まり返る訓練場。そして小さな拍手の音が響く。フルーネから発せられたその音は次第に周りに伝染していき、波のように大きくなっていった。
この場に居る誰もが、ジンクの勝利を認め、祝っている証だった。
「うお、何かいたたまれないな、これ」
当の本人はどう反応すればいいのか困惑してみせた後、倒れたままのレオニートに視線を移した。
「俺をリンチにした奴らは捕まえてある。お前に頼まれたって証言もした。団長も知ってるよ」
「な……。じゃあそれを最初に言えば良かっただろう! どのみち私は欲しいものには手が届かなかった……その事実を知っていながら君はわざと私と戦ったのか。そんなに私を見下したいのか!」
「だからキレたいのは俺の方だっての。あちこち痛いんだよ。……それに、見下したわけじゃない。後腐れ無いようにきっちり決着をつけたかっただけだ」
二人の周りに騎士達が集まってくる。怪我の心配と、レオニートを連行する為だろう。
フルーネを押さえていた騎士達も手を離し、自由になった足で駆け出す。
「ジンク!!」
「あ、ちぃ姫。勝ちました、よ……」
呼び方が戻っていた事なんて気にしない。全力でジンクの胸に飛び込み、全力でジンクの体を抱きしめる。
「ち、ちぃ姫?」
戸惑うようなジンクの声に、もっと困ればいいと意地の悪い考えが頭をよぎる。これだけ心配を掛けさせたのだ。少しきつめのお仕置きもしてやりたい。
「……」
けれど優しく抱き返されればそんな思惑もどこかに吹き飛んでしまう。本当に本当に、いちいち狡い騎士だ。
「……だから私は君が嫌いだ」
弱々しいレオニートの声に顔を上げるが、もう背中を向けて騎士達と共に力無く去っていく所だった。フルーネは許せないと思いつつも、何故だか口に出して責める事が出来なかった。
「勝ってくれて、ありがとう」
そっぽを向いたまま呟くフルーネに、ジンクが漸くいつもの軽い笑顔を見せる。
「まあ、勝って当然ですけどね」
「怪我してるくせに」
「労って甘やかしてください」
「調子に乗らない」
こんなだけれど、約束通り勝ってくれた。ボロボロになりながらも、フルーネの為に戦ってくれた。その姿は素直に格好良かったと認めざるを得ない。
今ぐらいは褒めてやろうかとフルーネが口を開いた瞬間、笑顔のジンクに言葉を遮られた。
「あー、ぶちのめせてスッキリした!」
「……っ、だから! どうしてあなたは!」
「えっ、ちょっ、痛い痛い痛い! ちぃ姫、俺怪我人……」
「ついでにその紙より軽い頭も治してもらったら!? 馬鹿!!」
普段と何ら変わりの無いフルーネの怒声が響き渡り、ああいつも通りだなあと周囲はこっそり笑みを零した。