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カーテンの隙間から差し込む柔らかな朝日で、フルーネはうっすらと目を覚ました。緩慢な動作で起き上がり、両手を上に挙げて体を伸ばす。
「ふあ……」
まだ残る眠気が二度寝へと誘惑するが、それを振り払ってぱちんと頬を叩いた。ベッドから降りてカーテンを開け、急に明るくなった視界に目を細める。
実に気持ちの良い朝だった。少し前まではまだ肌寒かったが、もうすっかり春の陽気だ。
窓を押し開ければ爽やかな風が花の香りを乗せてやってくる。鳥の囀りが近くで聞こえ、思わず姿を探そうとした瞬間、気持ちの良い空間は外から破壊された。
「ちぃ姫ー」
フルーネの表情が固まる。扉の向こうから呼ぶ声は、更に続いた。
「ちぃ姫ーちぃ姫起きてますかー。朝食ですよー」
ノックと呼び掛けが交互に行われ、フルーネの握りしめた拳がぶるぶると震える。
「ちぃ姫ー」
「今起きた所よ!! すぐに着替えるから待ってなさい!!」
優雅な朝のひと時をあっという間に台無しにされた怒りをぶつけるかのように、フルーネは力いっぱい枕を扉に投げ付けた。
*****
簡単に着替えを済ませ髪を整えた後、まだ廊下で待機しているであろう相手を招き入れる為に扉を開けた。
「おはようございます、ちぃ姫」
へらっと笑って立っていたのは、夜のような漆黒の髪を持つ青年。その傍らにはワゴンが有り、朝食が乗せられていた。
「……おはよう」
「すぐに用意するんで待っててくださいねー」
不機嫌な顔のフルーネを気にする事もなく、青年はワゴンをガラガラと移動させてテーブルに食事をセッティングしていく。彼がフルーネの護衛騎士になってから二年。見慣れた光景、いつも通りの朝だった。
「ちぃ姫、紅茶に砂糖入れます?」
「……ええ」
「あ、その葉は食べられるんで残さないでくださいよ、ちぃ姫」
「……そう」
「スープ熱いから気をつけてください。ちぃ姫猫舌でしょ」
「だああああ!!」
これ以上は耐えられないとテーブルに手をたたき付け、フルーネは立ち上がる。
「その呼び方はやめてって何回言わせれば気が済むの!?」
「食事中に立つのは行儀悪いですよ」
「聞きなさいよ!!」
怒鳴りながらも椅子に座り直し、頬を膨らませて青年を睨む。
彼は初めて出会った頃からフルーネを「ちぃ姫」と呼び、今も変わらずに続けていた。確かにフルーネは一国の姫ではあるが、二年前ならいざ知らず今は齢十七。出来れば名前で呼んでもらいたいと前々から訴えていたのだが。
「フルーネ様と呼びなさいよ」
「いいじゃないですか、ちぃ姫でも」
「良くないから言っているのよ! あなた馬鹿じゃないの!?」
「何がそんなに嫌なんですか?」
「こ……っ、子供みたいじゃない、ちぃ姫なんて。私もう十七よ? いつまでも小さいままじゃないわ」
「まあ身長は小さくないですね。成長しましたよ、身長は」
「身長はって言うな! 強調するな! 悪かったわね他は成長してなくてっ!!」
起きたばかりなのに連続で怒鳴ったせいか、フルーネは頭がクラクラして俯いた。隠しきれていない笑い声が憎たらしい。
「ジンク、紅茶おかわり」
「はいはい」
このジンクという青年は常日頃から飄々としていて緊張感に欠けていた。仮にも姫であるフルーネに対して慇懃無礼なのもずっと変わらない。彼がフルーネに敬意を払った事などあっただろうか。
初めて見た時は黒い髪と黒い瞳が美しいと素直に感動したものだが、今ではジンクの性格の悪さが滲み出ている証としか思えない。
「小さい方のお姫様だからちぃ姫。どこがご不満ですか」
「じゃあ姉上の事はでか姫と呼ぶの?」
「いえ、アデレード様と」
「納得いかない!!」
一体この差はなんなのか。姉を名前で呼ぶならフルーネの事も名前で呼んでくれてもいいだろうに。
いつまで経ってもジンクに子供扱いされているようで、非常に面白くない。
「アデレード様をでか姫なんて、そんな無礼な事出来ませんよ」
「私を前にして言うか!」
「ちぃ姫はホラ、ちぃ姫って感じだし」
結局ジンクも男で、美人なアデレードに鼻の下を伸ばしているだけだろうと軽蔑の眼差しを向ける。
七つ上の姉は思わず溜め息が零れる程綺麗で、性格も優しく穏やかな非の打ち所がない女性だ。おまけにスタイルも良くて胸が大きい。
フルーネも美しい姉が大好きだが、それとこれとは別だ。
「どうせ私は姉上みたいに美人じゃないわよ。スタイルも貧相よ」
「あれ、拗ねました?」
キョトンとして覗き込んでくるジンクから、ぷいと顔を背ける。少しは困ればいいのだ。自分の主を怒らせた事を、たまには後悔すればいい。
「ちぃ姫後ろ寝癖ついてますよ」
「……っうるさいこの無神経男!!」
どうにもこうにも、思い通りにはいかないものらしい。
*****
髪は邪魔にならないよう、後ろでシニヨンに。勿論寝癖はきちんと直してある。詰め襟の上着に飾り気の無いギャザースカートという出で立ち。ドレスは嫌いでは無いけれど、フルーネは時と場合を選ぶ。
「じゃあ行きましょうか」
廊下で待機していたジンクに声を掛け、彼を伴って歩き出す。
「今日はどの辺りを?」
「南の方へ行ってみるわ。治安を見てみたいの」
「成る程。用心はしてくださいよ。一応女性なんですから」
「一応は付けなくてよろしい」
十六を迎えた頃、フルーネは父である国王陛下に、ある提言をした。
自分を政治に関わらせて欲しい、と。
フルーネに王位継承権は無く、世継ぎを産むのも姉の役目となるだろう。ならば自分には何が出来るのか。いずれ結婚はする。恐らく政治的道具として嫁いでいく。
けれどそれまではただのお姫様。着飾って人形のように笑っているだけが仕事?
冗談では無い。
「フルーネ」
呼び止められ振り向くと、廊下の向こうに姉のアデレードが立っていた。波打つ金色の髪を揺らし、しずしずと歩み寄ってくる。
「また城下視察なの?」
アデレードはフルーネが街へ出向く事にあまり良い顔はしなかった。何か危険な事は無いかと妹の身を案じているのだ。
けれどフルーネ自身が望んだ事。勿論無茶をするつもりは無いが、綺麗な物から汚い所まで全てを自分の目で直に見たい。
眉をひそめて心配そうな表情のアデレード。その手をそっと握り、フルーネは微笑んでみせる。
「姉上、心配なさらないで。ジンクもついていてくれるし、大丈夫よ」
斜め後ろに控えていたジンクが、僅かに目を見開く。
「でもフルーネ」
「今は勉強期間とはいえ、せっかく陛下がお許しくださったんですもの。ちゃんと自分の目で実状を確かめたいの」
アデレードの心配は尤もだと理解している。フルーネだって姉がたったひとりの護衛騎士と街へ視察に行くと言い出したら、必死に止めようとするだろう。
「アデレード様。ちぃ姫は自分がお守りします。命にかえてでも」
いつもよりも少し真剣なジンクの声に、フルーネは思わず視線を向けた。
「……私がここで止めても、あなた達は勝手に飛び出していってしまうものね」
「ごめんなさい姉上」
「でも覚えていてね。私がフルーネを心配している事。また止めさせにくるかもしれないわよ」
少し呆れたように微笑み、アデレードはジンクへと視線を移す。
「ジンク、フルーネの事よろしくね」
「はい」
「では二人とも、くれぐれも無茶はしないように」
ドレスの裾を翻し、姉姫が廊下を歩いていく。ずっと後ろに控えていたアデレードの護衛騎士は姿勢正しく一礼し、主と共に去っていった。
「……私はやっぱり非常識な事をしているのかしら」
「さあ」
「そこは嘘でもいいから否定なさいよ。別に期待してないけど」
「俺が何を言っても意味は無いでしょ。ちぃ姫は自分の中に答えを持ってるんですから」
非常識か、非常識で無いか。誰に何と言われようと揺るぎない意志があれば全て無意味な言葉だ。
自分で考え、自分で決めた事。貫く信念が無ければただの我が儘で終わってしまう。
「でもまあ、俺は賛成ですよ」
「ん?」
「国を守ろうと思うなら、国を知るべきだと思います」
ニッと歯を見せて笑うジンクに、フルーネは言葉を詰まらせる。
「ジンクって時々狡いわ」
「それはちぃ姫の方だと」
「何の事?」
「さあ」
意味がわからずに首を傾げながらフルーネは再び歩き出した。今日の行き先をアデレードに言わなかったのは意図的に。南の方には下町があり、最も治安が悪い場所と言われている。
噂くらいはアデレードも聞いているだろう。もしも話していたらそれこそ必死になって止めようとしたに違いない。
隠した事に後ろめたさは感じるが、後悔はしていない。余計な心配をさせない為だと無理矢理心の中で言い訳する。
決して姉を説得するのが面倒臭かったからではない。
「こういう時はジンクが護衛騎士で良かったって思うのよね」
「何でですか?」
「他の騎士だと止めるでしょう。一緒に城下視察なんて行ってくれないわよ」
「ああ、それはそうかもしれませんねー」
先程のアデレードの護衛騎士の目には、「姫自らが視察に行くなんて」と「それを止めないなんて護衛騎士としてどうかしている」という非難が滲み出ていた。思い出して軽く溜め息をつく。
「俺だって心配していないわけじゃないですよ」
「そうかしら」
「ちぃ姫をちゃんと守れる自信があるからです」
「……俺強いんだぜっていう、自慢?」
「自慢じゃなくて事実です」
自信と余裕に満ちた態度は見ていて腹が立つが、悔しい事に彼の言葉は嘘では無い。
王族の護衛騎士は国王が騎士団の中から選出する。勿論腕が立つ者でなければ到底おめがねには適わない。剣の腕だけで無く、人柄も考慮して厳選に厳選を重ねるものらしい。
ジンクが選ばれた時は、即決に近かったと聞いている。
「俺が絶対にちぃ姫を守りますから、まあ安心してやりたい事やってください」
腕はともかく人柄には首を傾げる事もあるが、仕事に対して誠実なのは確かだ。フルーネの意志さえ守ってくれる忠実な騎士。
「それはどうも」
素直にありがとうと言うのはどうにも照れ臭くて、フルーネはぷいとそっぽを向いた。