その35.中間考査(8)
「おじゃま、します」
渡良辺の挨拶は、たとえるなら死にかけの蚊だった。だめだ挨拶もできない子だと思われてしまう、やり直すべく顔を上げるが、外江はもう階段を上がりはじめていて、あわてて靴を脱ぐ。揃えたあと、奥に向かってもう一度おじゃましますと言ってみるも、実際に出た声は散々で、渡良辺はふがいない自分に腹を立てた。
「今日うち、誰もいないよ」
「えっ!?」
いましがたの自分の気遣いの無駄っぷりと、その言葉の意味に、渡良辺の頬がばあっと染まる。なにそのまんがみたいな台詞!? だめだよ王子がそういうこと言っちゃ、や、すぐそういうこと考えちゃうわたしがおかしい? でもほら、前回が前回で、外江君って実は意外にも手が早いっぽい、かもとかとかとか。
「なに赤くなってるの。渡良辺のえっち」
「外江君がでしょっ!!」
「あら、お友達?」
「うえええぇ!?」
奥からすらっとした女性が出てくる。誰もいないって! ご家族? お母さん? そんな、せめてきゃあとか言ってよわたし、でもキャーとか甲高い声で叫ぶ女も好きじゃないなどうすればよかったんだ。外江君のばか。
「あれ、母さんまだいたの?」
「これから出るのよ。あんたこそ、女の子が来るなんて言わなかったわね? こんにちは、いらっしゃい」
「こんにちは、お、おじゃましますっ、渡良辺はらと申します!」
思いきり深く頭を下げる。あれ、申しますっておおげさ? 渡良辺はらです、のほうがよかったんじゃない? どうしよう、見栄張って敬語使ってるわねとか思われてたら!
「渡良辺さんね。瑞穂の母です。いつも瑞穂がお世話になっています」
「とんでもないです!」
「え、話し込まないよね? 母さん早く行きなよ」
「うるさいわね、あんたこそ年頃のお嬢さん連れ込んでどういうつもりなの。100字以内で説明しなさい」
「彼女だよ。学生らしくお勉強して彼氏彼女らしく楽しくおしゃべりします。母さんが心配するようなことは一切ありません」
外江はすらすらと答える。外江母は目のすわった息子を見て、苦虫を噛み潰したような顔を作ってみせる。
「赤くなったりうろたえたりするくらいのかわいげを見せたらどうなの」
「俺がこんな風になったのは誰のせいか考えてみたらいいよ」
「渡良辺さん、ごめんなさいね。昔はもうちょっとかわいかったんだけどね、これでもアニメソング歌ってポーズつけるくらいはしてたのよ」
「母さんっ!」
階段を駆け下りてきて、母親の背中を玄関へと押し出す。
「さっきのでうろたえるくらいしてみせれば、面目を保たせてやったのに。相変わらず親の扱いがまだまだね」
「俺の失敗はあんたが出かけたことを確認しなかったことだよ!」
結局どっちにしろからかうんだ、そして外江君、ツッコミがすでにそこを超えてるんだ。会話の中心が自分からそれたこともあり、渡良辺はやや冷静を取り戻す。
「親にあんたって言うんじゃない! 何度言わせるの!」
外江、頭をはたかれる。殴り慣れてて、殴られ慣れてる気がするんだけど。どうなのそんな親子なの。
「それじゃ渡良辺さん、ゆっくりしていってね」
にこっと笑うと、外江母はヒールの音を立てて出て行く。とたんにやさしく、おだやかに変わったそれは、外江の笑顔にそっくりで、渡良辺はうれしくなった。
「もー……」
外江のため息に我に返る。外江はまだ不機嫌そうに片手で顔を覆い、渡良辺を睨んだ。
「渡良辺には、からかわれてあげるつもりはないからね」
「えー、アニメポーズとか子供なら普通でしょ。で、どんなアニメのポーズしてたの?」
「はいはい。いこ」
にやにやしながら言ってみたのに、外江は取り合わず今度こそ2階に上がってしまった。おもしろくなかったけれど、あわてた外江を見ることはできたし、今そらした顔が赤くなっていた気がするので、渡良辺はご機嫌で階段を駆け上がった。
考査の全科目の結果は、細長い用紙に印刷して渡される。渡良辺のそれを見た外江は、しばらくのあいだかたまっていた(渡すとき、渡良辺は少しでも抵抗したかったが、プリンス外江は不機嫌でいらしたのか面倒をかけないでねと冷たく言ったので、おとなしく渡さざるを得なかった)。
「だから見るようなものじゃないって言ったのに」
くちをとがらせる。
「え、これって進級できるの?」
「1年のときもそんなもんだったから、大丈夫じゃない」
「だってこれ現文と古文以外、赤つかない? 確か、うちの学校って3つ赤点つくと留年じゃないっけ?」
「30点以下取ると追試と課題出されるから、それクリアすればつかない」
「再テストって、クリアできるの?」
「ほとんど本テストと同じだし」
つまらないことを説明させられて、せっかくのご機嫌がどこかへ逃げる。渡良辺は外江の部屋に出されたテーブルにあごを乗せる。
「数学4点。わー、俺、こんな点数はじめて見た」
「そんなことで感心しないでよ!」
「答案用紙出して。持ってきてって言ったよね」
「え、もういいでしょ!?」
「早く」
ぴらぴらと手を動かされて、思いきりぶすくれてみせながらも答案用紙を渡す。いつもなら親にも見せずにしまいこむのに(成績が恥ずかしいというより、お小言がうっとうしいからだが)、素直に渡す自分が不思議だった。絶対に行かないはずのお化け屋敷に行ってしまったことといい、我ながら外江に弱すぎる。
答案用紙を受け取った外江は、用意してあったらしい彼の試験問題と照らし合わせ始めた。外江が集中してしまったので、渡良辺はあきらめて息をつき、外江の横顔を見た。ともあれ、こんな近くで、彼の意識を気にせずに眺められるのは、とてもとてもうれしいことだ。
まじめな顔すると、男の子っぽくなるよね。最近思ったけど、外江君がやさしくておだやかそうに見えるのって、結構すごいことな気がする。だって外江君って、顔立ちはちゃんと男らしいし、実はそこまで笑わない。伊草とかのほうが笑顔を使ってる。あいつ、色々気遣うタイプって言ったら聞こえがいいけど、笑顔にも計算入ってそう。でも外江君は、自分が笑いたいときだけ、笑ってる気がする。だからわたし、外江君が笑うと余計にどきどきするんだ。ああそうか、外江君がやさしそうに見えるのってきっと、本心から笑ってくれてるように見えるからなんだ。お母さんも笑うとすっごくかわいかったし、恐るべしだよ外江家スマイル。
姿勢いいなあ、嫌味じゃない程度なのがプリンスそつないよ。鉛筆の持ち方きれい。前ノート見せてもらったけど、外江君って字もかっこいいんだよね。細身でちょっと右上がりで、習字みたいな上手さではないんだけど、読みやすい。行間と字間のとり方がバランスいいんだよね……いいなあずるいなあ、わたし、字を上手に書きたくていっつもがんばってるのに、外江君はさらさらっとできちゃうんだ。
外江のペンケースに目を留める。こっそり手を伸ばして、中を見てみる。消しゴム、きれいに使ってる。ていうか、外江君のせいで、消しゴム見ると心臓はねるんだけど。このシャーペン、あの文具屋に売ってたよね、かわいいと思ってたんだよな、わたしも買っちゃおうかな。ペンケース、布なんだ。意外かも。男の子って、もっとごついの使ってそうなのに。ふせん。23日修学旅行説明会。伊草に写真渡す。メモにも使ってるんだ。なんかかしこい、かっこいい。
今チェックされている自分の中間考査などすっかり頭から追いやって、渡良辺は存分に外江グッズを楽しむ。外江のものを見ていれば、一日どころか何日だってひたっていられてしまいそうだ。今度は部屋を見回す。本が好きな渡良辺は、やはり本棚に吸い寄せられる。あ、まんがある。わたしより全然少ないけど。まんがが少ないひとってなんか、おしゃれな気がしちゃうのってなんでだろ。あの本、お父さんが読んでたやつだ。わたしも読んでみようかな? それにしても、ずいぶんいっぱい、子供向けの図鑑や科学雑誌がある……
「渡良辺ってば」
「はいっ!?」
「呼んでも気づかないとか、どんだけぼーっとできるの」
「と、特技ですから」
「自慢されるとは思いませんでした。じゃ、まずこの現代国語なんだけどさ」
「ね、なんであんなに図鑑や科学の本があるの?」
外江はまばたきをして、渡良辺の指した本棚を見る。
「俺、動物の習性とか、昆虫の生態とか好きなんだよ。おもしろくない?」
「なに、頭のよさそうなこと言ってるの!?」
「どうしてそう失礼なこと言うの、この子は。別に立派な話じゃないよ。NHKの特集おもしろいなーとかそんな感じ」
おでこを手のひらで押され(外江は最近よくこれをやってくる)、渡良辺はそういえばと思いあたる。
「わたし前、ハチの特集見てすごいって思ったことがある。なんかね、一番強いスズメバチを倒しちゃうちっちゃなハチの話」
「日本ミツバチだ。俺もそれ好き」
外江はさもうれしそうに笑った。なんだかとても無邪気に見えて、渡良辺は自分のほうが照れてしまう。あわてて会話を続ける。
「えっと、確か、あっためて倒すんだよね?」
「そうそう。100匹単位のミツバチで1匹のスズメバチをすっかり覆いつくして、熱殺するの。スズメバチは45度になったら死んじゃうんだけど、ミツバチは48度まで大丈夫なんだ」
「あ、ってことは、人間のほうがハチより温度に弱いんだ。ちょっと意外」
「渡良辺なんかいっつも顔赤くしてるけど、大丈夫?」
「どういうまぜっかえし!?」
真顔で尋ねられ、憎たらしいのと恥ずかしいのとでまた顔に熱が集まる。それに、普通にふるまってはいるけれど、でもやっぱりふたりきりだと意識していることを見抜かれている気がして。
「すぐ赤くなるから楽しいんだ」
「意地悪禁止の約束は!?」
「ほっぺ、さわってもいい?」
組んだ腕をテーブルに載せ、からだを少し前にかがめて外江は渡良辺をのぞきこむ。うれしそうに笑っている。断れるわけがない。目を合わせていられなくて、でもせめてくちをとがらせて、渡良辺はうつむいてじっと動きを止める。外江は手の甲を渡良辺にむけて、指の背でなぞるように渡良辺の頬に触れた。たまらず目を閉じる。手はひんやりとこちらを冷やしてきたはずなのに、それ以上に渡良辺の頬は熱を上げる。
「渡良辺って俺よりずっと体温高いよね」
手が離れ、そんな言葉に急いで目を開けてまばたきをする。……それだけ?
「ねえ、指の腹よりさ、背のほうが感覚鋭い気がしない? 指の腹のほうが体温高いことが関係ある気がするんだけどー」
なんだかどうでもいいことを言って、外江はまじまじと自分の指を眺める。すっかり肩透かしを食らって、渡良辺はあいまいなあいづちを何とか返す。
「じゃ、この現代国語なんだけど」
話を戻そうとしたところで、また外江は言葉を切る。原因は渡良辺の。
「なに、その眉間」
「え」
「怒ってるの?」
伺うにしてはずうずうしく、外江は渡良辺の眉間を親指をぐりぐりとやる。
「やめっ、別に」
「そ? じゃ続けるよ?」
もやもやとした気持ちがまた大きくなる。渡良辺はうなずくも、眉間に続き、くちまでへの字になった。
「怒ってるじゃん。そーんなに、勉強ヤ?」
「ヤじゃないけどっ」
肩をすくめ、ペンを置いた外江の言葉を、よく考えずとりあえずたたきかえしてしまうのはひねくれものの性質だ。そのあとから、渡良辺は必死に頭を働かせる。
「あ、ううん、……ヤダ」
「ほう」
「だって、ほら、せっかく試験終わって一緒にいられるのに! 勉強なんてつまんないよ」
さっき怒ったのはそういうことじゃないけれど、よく考えたらこれも正解だ。渡良辺は思いがけず手に入れた、胸を張れる主張に挿げ替えることにする。
「俺は楽しいんだけどな」
「へっ?」
頬をかいて答えられ、渡良辺は勢いを早くもくじかれまばたきをひとつふたつ。
「外江君て、そんなに、ほんとに、勉強好きなの?」
「んーとね」
外江は少し言葉を探すように、間を置く。それで渡良辺は、外江がていねいに説明をしようとしていると察し、こころの姿勢をこっそり直してみる。
「渡良辺よりは好きだろうね。ちょっとめんどくさく話すけど、まあ渡良辺ならわかるだろうからするけど、勉強好きって言っても色々あるよね」
自分ならわかるだろう、いきなり飛び上がるほどうれしいことを言われてしまって渡良辺は頬が赤らんだが、外江は気づかなかったようで、説明を続ける。
「学校の勉強やってて、純粋におもしろいって思うことはないんだ。生物はそこそこあるけどね。俺の場合はただ、やるとできるようになるから好きなの」
「やってもできないひともいっぱいいるんですけど」
「そーね。だから俺は、勉強っていうか、試験で成績出すのが得意なんじゃない? で、自分が得意なことって好きにならない?」
「今さらっと、俺頭いいって言った気がする」
「そのカオ、わざとだろ。渡良辺が、成績出せるってことと頭いいってこと、イコールで結びつけるとは思えないな」
ひねくれものだから。付け足し、くすくすと笑われ、渡良辺は今度は本当にふくれっつらを作る。
「小学生のドリルとか、自分ができる問題見ると、答えたくなるし、教えたくなる。俺クイズ番組もやばいんだよね。自分の知ってることだと答えたくなるし、合ってるか確かめたくってチャンネル変えられない」
「……それは、ワカル」
「渡良辺、漢字の問題好きでしょ」
まだおかしそうに笑いながら、外江は渡良辺の答案用紙を指す。漢字や用語の設問は全問正解。そんなとこを見てたのか。ということは、外江は自分の答案用紙を見て、ほかにも色々気づいたのだろうか。一気に恥ずかしくなる。
「か、返してっ!」
「もう遅いって。数学はほんっときらいなんだな、やる気なさすぎてすごい。選択問題しか答えないで他空欄とか、いっそストかと」
「数学なんて、できるひとだけがやればいいんだよ! 漢字とかは、読めないと不便だし、頭悪そうだし!」
「それはそれで一理ある気がするけど、渡良辺の場合はそんな打算じゃなくて、漢字が好きなだけだろ。手紙で言ってたじゃん、日本語好きって。てか、追試いつもクリアしてるんでしょ? あれって確か、合格点あがるんじゃないっけ」
「……60点以上だけど、ほんと、数字とか変えた程度のおんなじような問題だよ」
「同じような問題っていっても、それができるんなら渡良辺はできるんだよ」
呆れたように言われ、渡良辺はなじんだ反抗心がもたげるのを感じる。
「やればできるってよく言われるけど、やったってできないし。別にできなくてもいいもん」
「ああ、数学はとらないって決めてる? 入試」
「そんな話じゃないけど!」
成績のいいひととの話が渡良辺をいらつかせてくる。そんなこと考えていなかったし、多分考えたくもない。
「なに、外江君、わたしの成績を上げようとか考えてるの?」
「んー、それもおもしろそうだなって今は興味ある。誘ったときは単純に、渡良辺の答案用紙を見てみたかっただけ」
苛立ちを含めた声に、なんの動揺もなく返される。わりといつも通りに、渡良辺は逆にその答えに気持ちをそらされてしまう。
「なにそれ」
「渡良辺が見るより、俺にとってこの答案用紙っておもしろいものだよ。問題と答えを把握してる分ね。だから渡良辺のを見たかったの。俺は渡良辺に興味があるから」
「……なんて、返していいかわかんないんだけど」
「理解しろとは言わないけど、そういうもんだと思ってよ。渡良辺が興味あるけど俺にはわからないものもあるじゃん」
それはある。絶対に。思い描いたことに納得してしまい、いかっていた肩が下がる。
「……外江君って、ほんとに、勉強好きなんだ」
「かねー。でもさ、できるから好きなだけなんだよな。大学でついていけなくなるのも出てくるだろうし、そのときにもまだ懲りずにやってたら、俺としてはそれがほんとの勉強好き、って気がする。俺は多分そこまでやんない」
「ああ。わたしも、中学までは別にがんばらなくてもわかったよ」
「それなら、課題もこなすのきつくなかったんじゃない?」
「うん」
「循環だよな」
外江は笑い、指先で渡良辺の眉間をなぞるように触れた。今はもうしわがなくなっていたのに、その仕草でまたしわができてしまう。
「……そんな簡単にさわらないでよ」
「あれ? ごめん」
「謝らないでよっ」
「どうしろと!?」
「外江君が悪いよ!」
もうっ、渡良辺は自分が情けなくて机につっぷす。だってさわられると、もっとさわってくれるんじゃないかとか、いちゃいちゃするのかとか、そんなことを。それなのに外江にそんなつもりはないのだ。
「渡良辺サーン? 渡良辺サーン」
ペンでつんつんと頭をつつかれる。さわるなって言ったからだろうか。ちょっとかわいくて、渡良辺は小さく吹き出す。
「せっかく笑ったと思ったのに、渡良辺はやっこしいなあ。乙女心? それとも渡良辺心?」
渡良辺は、ちらりと目だけ外江に上げる。
「あのね、外江君」
「なんでしょう」
「……聞きたかったんだけど。怒らないで、ね?」
「えー」
「えーじゃないよっ」
「はい」
「あのね」
緊張する。机に顔をふせたままというだらしない姿勢でも。
「前、うちに来たとき……どうして、怒ったの? わたし、すごくひどいこと言っちゃったんだよね?」