その32.中間考査(5)
勉強をがんばっていようがいまいが、テスト期間というのは学生に圧迫感を与える。テストなんてもういいよと思っていたはずの小池も、やはり試験終了のチャイムを聞けば自然と大きく息を吐いた。
「終わった終わった」
「本気で終わったくさいんだけど。計算問題少なすぎ、あたし今度こそ絶対赤つくよお」
「なんだかんだでいつも平均点近いくせに。あたしなんてねー」
「やめやめ、ともかく終わったんだから遊びにいこ」
「カラオケ!?」
「その前に! 駅ビル行かない? あたし、修学旅行の買い物があってさ」
「あー行く行く。あたしも買いたいのいっぱいある」
坂口が小池の席にやってきて、そのままいつものグループが集まり思い思いに口を開く。リーダー格の坂口が、じゃあまず買い物行くかと決めたところで、まだ席に座ったままの小池を見た。
「小池は? まだ忙しい感じ?」
「ん」
一瞬目を迷わせる。でも、これ以上坂口達と離れたままでいるのは不安だし、もちろん買い物だって行きたい。家計のお金とはいえ、お財布には十分入っている。母は普段はあまり子供にお金を与えないひとだけれど、その分行事には気前よく渡してくれるから、あとから言えば大丈夫だ。
目のはしで一瞬、伊草の席を見る。伊草は隣の外江といまだに試験問題を片手に顔を突き合わせている。ぱっと視線を戻して、うなずいた。
「ううん、あたしも行きたい! 行くー」
「お、そっか! カラオケも行っちゃう?」
「行っちゃう行っちゃう」
伊草達に送られて帰るなんて、無理があることだと最初からわかっている。そんな負担になることはできないし、小池にもひとづきあいがある。家までの自転車の許可も得たし、試験も終わったし、これが頃合なんだと小池は思った。携帯を取り出し、伊草、渡良辺、外江に、今日からは送ってくれなくていいこと、今までありがとうとメールを送った。
「うおー出てる出てる、やばいかわいい」
「これ欲しいんだよね、修学旅行前にバーゲンあったらよかったのになあ」
「試着しよう試着!」
「あんたそれは持ってきすぎだろう!」
「あははは!」
大好きなブランドの服を、あれもこれもと試着する。安めの服でも、高校生のお小遣いでは限界がある。結局買えるのは厳選された数枚だけだから、着るだけはただとせめて試着室に群がる。
「小池、次これ着てよ」
「それだめ、股上浅すぎるじゃん」
「股上深いのがいいの? ミセス小池?」
「ミセス言うなよ。いいよもー着てみせるから」
ろくにカーテンも閉めず、スカートの下から、がちゃがちゃしたデザインのデニムをはく。それからスカートを脱ぎ、上着の制服を少しめくって腹を見せる。
「なんだそのハミ肉は!? なんでそんなピンポイント、あんた他超細いのに」
「ここにまずお肉つくから他が無事っぽい? 知らないけど。てか悪化してる、最近食べすぎたからなーやばいなー」
そのままダイエットの話題にうつり、もとの制服に着替えて次のメンバーに試着室を譲る。あーやっぱ楽しいなあ、しみじみと思ったところで、棚にかわいらしく乗っているリップを見つける。服屋にコスメとは珍しいと惹かれ、手にとった。
少数生産なんだろう、色の種類もなく、そのかわりとても凝ったリップケース。
「あーかわいー!」
坂口が気づいて寄ってくる。
「2色しかないの? あ、でも小池の好きな色じゃん」
お試しサンプルがないあたりでも、売る気のなさを感じる。実用目的というよりは、ブランドのイメージ作りの一環なのかもしれない。
小池の好きなあざやかなピンク。地黒の自分にこのピンクは似合わないと薄々わかってはいるのだけれども、わくわくする色をつけるのが好きだ。似合うらしいヌーディカラーはつけているような気がしないし、あの白ちゃけた色は枯れた感じがしてつまらない。いやだ、あんなおばさんの白ストッキングみたいなの。
「小池、買っちゃう? 小池買っちゃうなら、あたしもこっちの色買っちゃおうかなあ。これかわいいよー使わなくても部屋に飾っときたいかも」
「そう言われると揺れちゃうなー、どうしよっかな」
笑って返しながら、リップを見つめる。でも、いぐっちゃんがさわったのは、なんにもついてないあたしの。
「なしなしなしなし」
「小池?」
「あっ、やっぱやめとこ、かな! 使わないの買うのとかほら、もったいないし!」
顔が熱い。さっさとリップを戻して、坂口に顔を背けるべく店を出た。
そのあとのカラオケも大いに盛り上がった。最後には今全員が好きな歌を大合唱する。やっぱ坂口は歌うまいなー、うらやましいなーなんて思いながら、すっきりとした疲れを抱えて清算を終える。
「おー真っ暗真っ暗」
「帰りたくなーい」
「明日からまた普通の授業だって。信じらんない。試験終わったら振り替え休日くらい作れっての」
名残惜しく、だらだらと駅でさらに話し込む。小池達のグループで一番門限が厳しい子が21時なのだけれども、すでにその21時を過ぎたところで、ようやく解散する。
坂口とふたりになり、帰りの会社員でごったがえすホームで電車を待つ。
「ねね、小池小池」
「なーにー?」
「ほい、これ」
小さな包みを渡される。坂口と包みを交互に見る。
「さっきのリップ。あたしもおそろいで買っちゃった」
「まじで?」
「へへ。あげる」
「や、でも悪くない? そんな安くなかったよ」
「いいのいいの。一緒に持ってよーよ。最近小池、大変だったみたいだしさ。なんかはげましたかったんだ」
照れたようにはにかむ。そう言われては、受け取らないわけにはいかない。じんとしながら、礼を言った。
けれど、電車に押し込まれ会話が途切れれば、小池から笑顔が消える。
坂口は、あたしがお金なかったから、リップをあきらめたと思ったんだろうか。
小池は、自分の家の詳しい事情を坂口達に話していない。あまり訊かれたくない事情なんだということで察してもらっている。彼女達も気を遣って踏み込まないでいてくれる。
素直に喜べばいいのに。こんな気持ち、大嫌いなのに。坂口達が、大好きなのに。でも、女の子同士の、表には出さないけれど張り合った対抗心があって、そこにお金のことが関わると、小池のこころはどうしようもないほど過敏になってしまう。
いぐっちゃんに会いたい。ふいに強くそう思った。伊草は無神経なくらいずかずかモノを言う。しかも、それで小池が傷ついても、そんなことで傷つくおまえが馬鹿なんだとさらに追い討ちをかける。傷つくのをこえて腹が立つ。傷ついた自分が繊細すぎてばかばかしくなる。伊草には女子の気持ちなんてわからないから、伊草が男だから、小池は楽だった。
ほんっと甘えていたんだなー、あたし。
でもなあ、忘れなきゃなあ。
委員長の姿を思い出す。美人で頭がよくて、やさしい委員長。ただ、この際の小池にはそれは関係のないことだった。小池は、三角関係や横恋慕といった「三人目」の関わる恋愛が大嫌いだった。あんなのは全然きれいじゃないと、潔癖に彼女は否定する。たとえ秘めていようが、伊草への片想いを続けることすら、自分に許せない行為だった。
忘れたら、また友達に戻れる。友達としての気持ちだけに戻ったら、また伊草と話せる。話してもいいんだ。小池は自分に言い聞かせた。
駅を出て、駐輪場に向かう。母には言わず、自分のお小遣いで一ヶ月借りた。でもその甲斐あって、もう帰り道はこわくない。自転車に乗って飛ばしていれば、誰も近寄れない。
もう小池にとって、ストーカーなどどうでもいいことだった。伊草のことでいっぱいいっぱいで、目下の問題であるテストだって「それどころじゃなかった」わけで、もう遭遇しないだろうストーカーが割ってくる余地はない。
いぐっちゃん、メール返してくれなかったなあ。
もう一緒に帰らないメールに対して、外江と渡良辺は返事をくれた。なにかあったら言って、気をつけてね、とやさしい内容。でも伊草は返してこない。返信がまめなことは知っているから、きっと怒っているんだろう。
でもさあ、自分で言っといてなんだけど、あたしにストーカーとかやっぱ変だし。委員長につくストーカーはやばそうだけどさ、そんなおおごととかになるとか思えない。
落ち着いてしまえばそう思えた。伊草や東条は、日常とは毛色のちがうことにテンションがあがっただけなのだと。
しばらく経てば、無視していれば、いつか、勝手に終わっている。
りんりん、と後ろから自転車のベルが鳴らされた。
驚き、あわてて壁側に寄る。考え事をしていたから、邪魔になっていたのかもしれないと思って申し訳ない気持ちになる。が、うしろの自転車は追い抜いてはいかない。
おかしく思うも、うしろを見るとバランスを崩すから、抜きざまだとすれば危ない。小池はもう少しの間、速度を落として壁に沿って走る。けれどやはり、うしろの自転車が追い越す気配がない。
おそるおそるうしろを見た。男が乗っていた。キャップをかぶり、さらにウィンドブレーカーのフードをかぶっていた。めがねもかけている。あの男だ、と思った。
一度はねるように大きく脈打ち、そのままからだがふるえだす。小池はとっさに立ちこぎをはじめる。でも男も速度を上げたようで、折り目正しく、りん、りん、とひかえめなベルの音が小池に届く。報せてくる。ちゃんとついていっているよ。
アパートの自転車置き場までいくのがこわくて、階段下に自転車を投げるようにおいて階段を駆け上がる。ドアを開けようとしたところで、やっと男がいなくなっていることに気がついた。