その31.中間考査(4)
ほっそりとした背中を睨みつける自分の顔が、相当にぶすくれていることを渡良辺は承知している。
東条とはそろって外江家を出た。渡良辺としては一緒になど帰りたくなかったのだけれども、自分だけ先に帰るのも、かといって自分だけ残るのもいやらしい話。それでも隣に並んで歩くものかと、その意地を見せつけたい気持ちで渡良辺は東条のうしろを歩く。と、東条がふと振り向く。
「渡良辺さんは、駅に行く?」
「え?」
いまさらそれを聞くの。すでに駅に向かって進んでいたのだから、そんなことはすでにクリア済みの問題だと思っていた。いやそれより『はら』は? 身構えていたところへ肩透かし。ともかく、うなずいては返す。
「そう。それじゃ駅まで一緒に帰ってもいいかしら」
それも今聞くのか、っていうかさっきのテンションはどうした! しかし冷静でおだやかな口調には突っ込みを入れる隙を見つけられず、断る勢いも削がれ大変に不本意ながら渡良辺は再びうなずいた。
「そうだ、これわたしの携帯番号とメールアドレスなの。なにかあったら連絡をください」
立ち止まり、黒の長財布からカードを取り出し、渡してくる。必要なことだけが書かれた、そっけないものだった。まるで会社で使う名刺のようだ。でも字体やレイアウトは美しく、ささやかな銀の装飾もおしゃれで、すっかり意識を奪われてまじまじと見つめた。こういうものはもともと大好きだった。
「行きましょうか。日が落ちるの、本当に早くなったわね。急がないと真っ暗になっちゃう」
歩き出す気配にあわててカードをしまう。東条は渡良辺がしまい終わるのを確認してから、駅に向けて歩き出した。
数歩遅れる距離を変えはしない。でも東条に気にした風はなく、彼女もまた先ほどと同じ速度。会話はない。
なんでしゃべりかけてこないの、あんたさっきわたしに友達だとかうんたら言ったじゃない。悶々としながら、でも渡良辺も口を閉ざす。会話の糸口を自分から作るなんて悔しい、だってそう、自分は東条と仲良くする気なんてないのだ。
そのまま駅に着く。エスカレーターに乗ると、東条は振り向いた。
「わたし、駅ビルに寄るから、ここをあがったところで失礼するね。いくつかおつかいものが必要なの」
「あ」
降り口の左手には、駅ビルへの入り口。
「それじゃ、お疲れ様。また学校で」
にこりと笑って、東条はそのまま去っていく。
「ちょ、ちょっと!」
思わず呼び止めて、一瞬で後悔。でもしょうがない、むずむずする。根比べに負けたような悔しさを、渡良辺は語調を荒げてぶつけた。
「なんでなんにもしゃべんないの!」
東条はまばたきをし、戻ってくる。会話を続けるには少し遠い。
「なにか、話し忘れたことがあった?」
「そうじゃなくてっ」
「ああ、渡良辺さんのほうになにか話したいことがあった?」
「ちがう! そんなわけないでしょ!」
友達になりたいっていったのはそっちだろうが! なんて言ったら負けだ。っていうかこれじゃまるでわたしのほうがそう言ってるみたいじゃないか、なんでだ、絶対におかしい。東条は、あ、と声をもらした。
「ごめんなさいね、世間話とか苦手で、特に意識するとうまくできなくて」
「……はあ?」
「別々に帰ったほうがよかったんだろうけど、わざとずらすのも微妙かと思って……」
困ったように言い訳を続ける。
「気まずかったでしょう、わたしといるだけでそう感じるんだろうと理解はしているんだけど、でも、たとえばわたしが渡良辺さんと『用事があるから先に帰るね』と言ったとして、それはちょっとしらじらしいじゃない? かといって『わたしと帰るのはいやだろうから、別々に帰りましょう』っていうのも建設的を装って嫌味だし、だったらここは余計なことは言わず、黙って一緒に帰ってもらったほうがいいのかなと」
渡良辺はまずいものを食べたときのように、口のはしが引きつって下がるのを感じた。このひともそんなうじうじなこと考えるの。わたし、このひとに神経なんてないと思ってたのに決めつけてたのに。やめてよ。
「……とりあえず、わたしが今言ったのはそういう話じゃないんだけどさ」
なんで話さないのと聞いたのは、もちろん、東条があのテンションのままはしゃいで話しかけてくると思っていたからだ。ふたりきりになったとたん、そんなひかえめな少女に様変わりされていたなんて思わなかったから。いや、もしかして元に戻っただけ?
ああ、どうしよう。なんだかわかってしまったような気になってきた。
「ねえ、東条さんって、友達の前ではああいう風にはしゃぐの? あのこまもの会とか言ってたみたいに」
東条は、少しあごを引いて言葉に詰まる。答えはなくても、自分の予想は当たっているんだろうと渡良辺は確信を強める。っていうか、友達いるの。と聞きかけてやめる。うなずかれても面倒だしいるよと否定されても面倒くさい。
「……渡良辺さん、そんな面倒そうな顔しなくても、いいと思うの」
やや頬を赤らめて、東条はささやかに反抗する。顔色を読んだのだと思うと、また脱力を覚える。
「女子に嫌われそうなタイプだもんね」
一瞬口を動かし、結局東条は口をつぐむ。かまわず渡良辺は続けた。
「さっきはしゃいでみせてたのは」
眉間にしわが寄る。なかなか腹立たしい推測。
「あの場の空気を壊すため?」
答えはない。けれど、否定もなければ質問もない。渡良辺の言っている意味がわかるのなら、それで十分だった。
「そういう気遣いとか。やっぱりわたし、あなたみたいなひとって嫌い」
渡良辺の言葉に、東条は困ったように笑うだけだった。でもその力なさに、今、確かに傷つけたことを感じる。そしてその触れられた分だけ、近く感じた。
「伊草君は、至らない点も多いけど、いつもがんばっているのよ。わたしは渡良辺さんにすっかり感心してしまったから、あなたにも彼の努力について認めてほしくなったの。でも彼を見るためにわたしの存在が邪魔をしていた。あのとき、本当に心から彼に申し訳なく思ったの」
「別に、あなたのことがなくたってわたしは伊草にはあんなものだけど」
「あら、そうだったの」
おかしそうに笑う。
「でもそれならそれでしょうがないことね」
割り切った口調で、東条は言った。
「それだけ? そのせいで、伊草と別れることになったんじゃないの」
「きっかけよ。もともと、まともな関係じゃなかったの。不自然、というか」
「なにそれ、なんかいかがわしい話?」
「……若干?」
「若干いかがわしいの!?」
「わたし、時々、誰かに触りたくなってどうしようもなくなるの」
渡良辺は、目をまんまるくした。
駅ビルの改札前から離れ、ふたりは構内の角に並んで立った。
「触りたくなるって、……どういうこと?」
「文字通りよ。ひとに触れたくなるの。高校に入ったくらいからだと思うんだけど」
よくわからず、渡良辺は眉をひそめたまま東条の話に聞き入る。
「だんだんひどくなっていってね。学校で、話している相手に飛びつきたくなったり、そのうち、触れてくれるなら誰でもいい、相手が望むならそういうことをしてくれてもかまわない、って思うようになって」
「なんでそこまでいくの!?」
「だって、ひとと触れ合うことなんてそうないでしょう。誰かの体温に触れたかったら、そういうことをするしかないじゃない」
「よくわからない異議あり! ……一応先に確認しとくけど、東条さんは、そういうことをしたいの?」
「いえ、そっちには特に興味も、欲求もない方だと思う」
それもそれでどうなんだろうと思いつつ、今は関係ないので追わないことにする。
「そんな、しっかり触らないとだめなの? 普通に日常っていうか、友達とかに触ったりじゃ足りないの?」
「わたし、小学生を卒業してから今日まで、お医者様と伊草君以外に触れたひとっていないわ」
「え?」
信じられなくて、驚いたあと、怪訝に聞き返す。
「家族や友達にも? 体育は?」
「家族なんて一番近づかない。お恥ずかしながら、触れるほど近づく友達もいません。体育はね、中学校のときの事故の後遺症で見学しているの」
「満員電車は」
「乗らないわ。通学は早めの電車だし、夜遅くなったら車を使っての移動を約束させられているから」
「護身術だか習ってるっていうのは」
「小学生までの話よ。今でもそれなりに動けるとは思うけど」
それでも、渡良辺には信じがたかった。自分を考えてみる。今日誰かに触れただろうか。すぐに、出掛けに母親に頭をはたかれたこと、伊草にものを投げつけようとして外江にとめられたことに思いあたる。
納得のいかない顔に、東条はさきほどと同じような苦笑を向けた。
「そうね、これは伊草君に言われたことなんだけど、わたしがカウントしていないだけできっと日々、誰かとなにかしらの接触はあるんでしょう。でも、だめみたいなの」
「だめって」
「わたしは誰とも触れ合っていないと思ってしまうの。自分はこれまでに、誰からも親愛を持って触れられたことがないんだと」
隣に立つ東条を見つめる。伸びた姿勢も、乱れのない髪も服も、なにもかもがきっちりとしていると渡良辺は思った。外江を思い出して、でも全然ちがう、と否定する。
「多分、さみしいんでしょうね。満たされていないんでしょう」
こともなげに言われるにはずいぶんとあけすけな理由で、聞いている渡良辺のほうがうしろめたさを覚えた。が、東条はやはりどこかひとごとのように言う。
「そのうち、発作のようなものも起こるようになってね。呼吸がうまくできなくなって、体温が下がってからだが震えるんだけど、でもこれは放っておけばそのうち収まるの」
「……やばくないの、それ?」
「さみしくて死ぬひとはいないでしょう。お医者様にも、からだは健康そのものだって太鼓判を頂いてるし。さっき言った昔の怪我以外はね」
確かに、渡良辺の知識にさみしくて死んだひとの話はないけれど。
「その発作を起こしているところを、たまたま伊草君が見たの。そのときは大丈夫って答えて終わったんだけど、次にふたりで会ったとき、大丈夫なのかって心配してくれてね。それを聞いたら、びっくりするほど涙が出て」
東条は構内を行き過ぎるひとびとにまなざしを向けながら、なつかしむように一度言葉を切る。
「それで、事情を聞いた伊草君は、すっかりわたしに同情してくれてしまったわけ。触って落ち着くんだったら、俺でよければ触っていいよ、って」
「……それはまあ、わからないけどわかった。でもなんで付き合うってなったの?」
「伊草君がわりと潔癖だったから、かしら」
「はぁあ?」
「わたしも驚いたんだけどね、触れようと思って触れ合うのって、すごく照れるというか、意識しちゃうのよね」
「うん」
「で、伊草君が、彼女じゃない女の子をこういう風に意識するのは後ろめたい、って。わたしに好きなひとがいないのなら、好きなひとができるまでは彼女にならない? って言ってきたのよ」
俺は、どうせ一番好きなのに見向きもされてないし。
渡良辺は、自分の顔がさあっと熱くなるのを感じた。勢いよく首を振る。
「よくわかんない、っていうかわかりたくない! かゆい伊草かゆいっ!」
頭に思い描いてしまった、ゆっくりと頬を触れ合う伊草と東条。渡良辺の脳の乙女な部分が、少女まんがの美しいワンシーンにふたりを当てはめてきたものだから、それはなんとしても追い払わねばならなかった。
「大丈夫、渡良辺さん? ごめんね、はしたない話をして」
「う、あ、いや」
ぐるぐる沸騰しかけた頭をなんとかなだめる。自分がどう受け止めるか、一瞬では決めかねていた。でも東条の相変わらず冷静な顔を見ていると、自分が下品にかんぐっているだけのような気になってきてしまう。
「……はしたない、って、はしたない……の?」
「わたしが触れるのは、伊草君の背中よ。それと時々、手」
なんだ、と顔に出てしまったことに自分で気づく。でも東条は気づかないふりをしてくれてしまって、それがまた渡良辺には悔しかった。別に別に、自分は十分に耳年増だし、えっちな話だろうがどろくさい話だろうが動じないつもりだったのに。
「向き合って触れ合うのは、悪いことをしている気になるみたいでね。そういうとき、伊草君は本当に、わたしに恋はしていないんだな、って思ったわ」
「……変。彼女、って決めたのは伊草でしょ」
「そうよね。だからわたし、してもいいって言ったのよ。男の子なんだからそっちのほうがいいんじゃないかと思って」
「…………」
だからそんな涼しい顔で言わないでよ、と八つ当たりしたくなる。冷静に考えれば、照れながら言われるほうがよほど困るんだけれども。
「でもしなかった。理由はわかるようには教えてくれなかったんだけど、小池ちゃんのことを考えていたんじゃないかな」
いつもならさっさと自分の意見を決めるはずなのに、渡良辺はまだなんと答えたらいいかわからなかった。眉根を寄せ、くちびるを軽くかんで黙っていると、東条は再び謝った。
「変な話をしてごめんね。わたしがいやらしいせいで、伊草君には本当に迷惑をかけていたの。でも今日、渡良辺さんのおかげで吹っ切ることができたから、感謝してる」
はっと顔を上げる。これか、と、やっと渡良辺にとって理解に必要なパーツがそろう。伊草がかばっていたのは、『いやらしい東条』。
「……も―――……」
うつむき、忌々しく息を吐く。男子には聞かせるべきではない、もちろん外江にも、女子にだって簡単に聞かせていい話ではないと思った。渡良辺としても、東条本人から聞かなければ、どう受け止めたか自信がない。
今の渡良辺としては、東条をどうと思ったりもしていない。彼女が自身をいやらしいと嫌悪していることを知ったから。
渡良辺はもう一度息を吐き、東条を見た。ずっとひそめていた眉から、力が抜けていた。
「もういいよ」
言葉の意味するところを東条は察しきれず、渡良辺をうかがう。
「わたしが本能のまま東条さんを嫌うと、いじめになっちゃうってよくわかった」
「いじめ?」
「だって東条さん、自分は嫌われて当たり前って思ってるひとでしょ。そんなひと嫌ったら、わたしがひどいひとだもん」
口をとがらせてみせる。
「あ、でもね、わたしは伊草はきらい。東条さん誤解してる。わたしはもともと男子がきらいなの。きらいなひとがなにしたっていらつくだけでしょ。偏見上等、正当な理由なんてないの」
「……それは、えっと……色々とあんまりじゃないかしら……」
「だってきらいなんだもん。なんか男子ってやらしい、って思っちゃう。ばかだしね。今の伊草の話だって、やっぱ半端なことしてる、って思ったし」
でも、と東条は悲しそうに言い返す。
「わたしはそのときだけでも、救われたの。発作は起こらなくなったし、我慢しよう、がんばろうって思えた。我慢できなくなったら、伊草君が背中を貸してくれると思ったから」
「うん」
こくん、と渡良辺はうなずいた。
「それがきっと、一番大事なんだよね」
渡良辺は、両手をうしろにまわして、壁に背をもたれる。
「伊草は東条さんを支えたんだもんね。ここでわたしが半端だとかなんだかとか言ったって、そのときに苦しかった東条さんになにかしたわけでもない。口だけなのは、わたしのほうだ」
「渡良辺さん」
「だからね、そのときの伊草のせいいっぱいだったのかな、って……思うことにするよ」
東条がこちらを見ているのがわかったけれど、渡良辺は顔を向けられなかった。
「ありがとう、渡良辺さん」
「そうあなたは渡良辺さんって呼ぶべき」
「え?」
こぶしをぎゅっとにぎり、思い切って東条を見上げる。そして指差す。
「そんなややこしいことになったのは、東条さんに同性の友達がいないからなんだよ!」
「は、はい。すみません」
「友達作りなさい! 伊草なんかとつるんでちゃ、余計女子は離れていくよ!」
「はい、えっと、がんばります」
肩をちぢこめて、東条はうなずく。
「……だから、……、い」
「え? 渡良辺さん、聞こえない……」
顔が熱くなる。声がためらう。ちくしょう、これじゃ伊草とおんなじじゃないか。
「東条さんがっ! ……友達作るまでは、困ったら、手くらいさわらせてやってもいい」
東条は目をみひらいた。まったくととのったきれいな目だ。が、見続けられなくて渡良辺はたまらずそらした。
「わたしが別れさせたようなものだし! いややっぱりそれが正しかったと思ってるけど、当座の問題があるからには」
なんだ、もう。女同士で手をさわるくらいなんでもないのに、それがここまで恥ずかしいのは全部全部東条の性質のせいだ。
東条が笑い出した。
「ちょ、こら!」
「だ、だって。……ふ、あははっ」
おかしそうに声を立てる。一瞬本気でむかついてかみつこうとしたとき、東条の目じりから涙が落ちる。
「いやだ、もう。……うれしい。ありがとう。ありがとうね、渡良辺さん」
にじんだ目を細め、口元に手を当てて東条は微笑む。渡良辺は憤然と怒り顔を作る。
「やだもう……止まらない」
手の腹を両目にあて、でも口元は笑みを作ったまま東条は肩を震わせる。しょうがないじゃないか、と渡良辺は自分に言った。へんなひとだと思うけど。よくわかんないけど。想像してしまったから。ひとり誰もいないところで、冷えたからだを震わせて呼吸を繰り返す東条の姿を。おさまった頃、また立ち上がっていつもの自分に戻っていく姿を。
どうしようかなあ、どうしようかなあと迷って、渡良辺は横歩きに東条に一歩近づく。もう一歩近づいて、頭を肩にもたれ、肩を腕にくっつけた。東条のからだがびくっと震える。
「恥ずかしくて死にそう」
ぶっきらぼうに言う。はなをすすりながら、東条はまた笑い声を落とす。
「泣いているわたしのほうに注目が集まると思うわ」
「ぜひそうであって欲しい。もう、子供みたいだよこんなの」
でも泣いている相手を慰めるのは、小さな子供のほうがうまいかも、と思う。見栄も意地も外聞も知らなければ、自分が相手を慰めたい気持ちを隠しはしないだろうから。
「渡良辺さん、まだ外江君の家のにおいがする」
「もったいない! 東条さんのにおいになっちゃったら本当にもったいない」
「あら、だったらわたしもまだ外江君の家のにおいがついてるんじゃないかしら」
「それはそれで憎らしいんだけど。っていうかね、わたしはやっと外江君の家に行けたのに、なんで東条さんはしれっと来るの。おもしろくない」
「外江君だけ、特別なのね。あんなに男の子が嫌いでも」
「……そうだよ」
「いいな。渡良辺さんは」
「なにが。色々持ってるくせに無駄にしてるのは東条さん自身なんだからね」
「そうかしら」
「そうなの。むかつくから説明させるな」
「はーい」
くすくす、笑いのまじる東条の言葉がやわらかくなったのを見て、渡良辺もほっと息を吐く。からだを離すと、東条はすっかり落ち着きを取り戻していた。
「それじゃ、これ。わたしのアドレス」
さっき渡しそびれた自分のカードを突き出す。片方だけが渡すなんて、そんなのは女子の仁義ではない。さっきはそれも東条へのデモンストレーションだったわけだけども、渡良辺の意識としてはそこまでするのはかなりの意地悪だった。受け取った東条が礼を言うのを聞き、やっと胸のつかえがおりる。やっぱりこのほうが気分がいい。
「東条さん、まだ買い物するの? だったら付き合うけど」
「いえ、遅くなってしまうから悪いわ。いつでもいい買い物だから大丈夫」
「……いつでもいい買い物だったんだ?」
半目でにらむと、東条はばつが悪そうに首をすくめた。あれだけ嫌いオーラを出した自分のせいだと自覚もあったので、渡良辺もそれ以上は追及しなかった。
その後、東条は電車を使っていい時間を過ぎているということで、タクシーで帰った。
伊草の言った官僚一家とやらがどんなものなのかわからないけれど、住む世界がちがう相手というのを渡良辺は生まれてはじめて感じた。