その23.帰り道(3)
教室の扉から渡良辺がひょこっと顔をのぞかせた瞬間、彼女はしまった! という顔をした。すぐさまにこっと笑って手を振る。
「渡良辺! おいで」
いくらか意識したせいで必要以上ににこやかになった気がするが、おかげか、引っ込みそうになった渡良辺の動きが止まる。
「お? はらちゃんじゃん、ちーっす」
伊草も愛想よく笑いかける。彼は基本的に、おとなしい女子にはとてもやさしい。
「だれだれ? こんちゃこんちゃー!」
阿久津は誰にでもしっぽを振る。渡良辺はこのうえなく恨めしげに外江を見た。うわー後で怒られそう。まあいいか。にこにこ笑顔のまま、席を立って渡良辺を迎えに行く。彼女はものすごくいやそうに、外江達のくっつけられた机の席にやってきた。
「川志田達も来るかと思ったんだけど」
一応、フォローをしてみる。
「……そんなわけないじゃん、ばか」
ばかって言われた。声超低い。やばい俺今超楽しい。
「あれ、なに、とのの友達じゃないん?」
阿久津が興味津々、机に身を乗り出して渡良辺をのぞきこむ。渡良辺は顔をしかめて身を引く。
「なんでそんな目ぇ輝かせてんの」
「だってとのに呼ばれて目をハートにさせない女子なんて興味わいちゃう!」
「おまえの目に俺はどんな風に映ってるわけ……?」
「はらちゃん、べんきょいーの?」
伊草がさらっと尋ねると、渡良辺は少し肩に入った力をやわらげた。
「別に、まだ一週間前だし……いつも前日にしかやんない」
「仲間仲間! そうだよねー何日も前から勉強するやつらなんてイジョウだよねー」
外江を見ず、真顔でこくりとうなずく。これ、本音だな。
「あーよかった、普通のひとだあ。このひと達さーなんかいっつもべんきょしてんだよ、やっぱり頭のおよろしい方々ってばどっか俺達とちがうんよね」
「うん」
返事の声は小さいけれど、渡良辺はくすりと笑った。阿久津の全開しっぽ振りは渡良辺に通用するのかと驚く(やかましくて馴れ馴れしい阿久津はてっきり渡良辺の男子嫌いの範疇だと思っていた)。でも、そういや渡良辺、犬好きだもんな。納得する。
「渡良辺、小池がくーちゃんって行ってたの、こいつだよ」
「え? あ、そうなんだ」
「なになに、俺の噂? 俺がイケメンの取り巻きだって? 失礼しちゃうな!」
「言ってないから」
ぐーで頭を殴る。
「とのっち……もうちょっとでいいから手加減っ……」
「誰のせいでこんなとこで時間つぶしてると思ってるんだよ」
「ごめんなさい俺のせいですぅ……」
「阿久津君のせい? どうして?」
次第を説明すると、渡良辺はえええ、と非難がましい声を上げた。
「わたしもプリンスノート見たい!」
「あ、やっぱそう思うー? すごいよ、との男のくせに字ちょー読みやすいの。色ペンも使ってあるんだけどさ、なんかこう、かっこいーの。図書室行こっか? 今からならだいぶ順番も回ってるかも」
「行く! コピーとってプリンスノート自慢する!」
「行かないから」
立ち上がりかけたふたりを、机を蹴っ飛ばして止める。びくっとからだをすくめ、ふたりはおなじようなまなざしを外江に向ける。色ペンの使い方にかっこいいもくそもあるか。
「こういうとこ、伊草とほんとそっくりだよね、見たでしょはらちゃん、とのってこんな顔してかなり暴力的なんだよ」
「チンピラプリンス……」
こういうとき、一番腹が立つのはここぞとばかりにげらげらと笑っている伊草だ。
「……阿久津と渡良辺にはあとで貸すから。図書室の騒ぎに参加するんじゃない」
「はぁーい」
また、がたがたと席に着く。
「はらちゃんって何組のひと?」
「C」
「Cって執事喫茶だ。あ、そういやとのも執事喫茶行ったんじゃなかったっけ?」
「うん。おまえらに断られたから、ひとりで」
「えーだって女子のみなさんの視線ひとりじめな男と歩きたくなんて……」
「ふーん。おまえはなんか用事があるのかと思ったけど」
「えっ? は、ないよないない!」
ぱっと顔を赤く染めて、阿久津は首をぶんぶんと振る。そして、憎たらしそうに外江を睨んだ。
「なんで知ってんの」
「いや、言ってみただけ。ほんとにあったのか」
阿久津は言葉を失ったらしく、口をぱくぱくとさせた。ばか、と伊草が小さくつぶやく。
「信じらんねとのサイテー! もうこうなったら俺だってばらしちゃうもんね、ちょっとはらちゃん聞いてよとのってばお化け屋敷でさぁ!」
腰を浮かせ、正面から渡良辺の顔を見たところで、阿久津はぴたっと動きを止めた。きょとんと見上げている渡良辺に、首をひねる。
「あれ? ……ひょっとして、はらちゃんってお化け屋敷来た?」
「いいいい行ってないよ、あんなとこ!」
「来たよ」
ぎろっと外江をにらみつける。が、渡良辺も顔が赤くなってしまっていた。
「阿久津、気づかなかったのか。さすが」
「だってあんときは暗くてよくわかんなかったんだもん、俺鳥目だし」
確かにあの場は暗かった。が、小池はそれでもひとめで渡良辺を見分けたわけで、興味の差はあれど阿久津の鈍さがうかがえる。
「え、じゃ、はらちゃんってとのの彼女!?」
「彼女じゃないったら!」
真っ赤な顔で、たたきつけるように否定する。え、ちがうの? 阿久津は目を丸くする。
「俺は好きなんだけどねー」
「ソレじゃ、いわゆる片想いってやつ?」
にやにや、楽しそうに伊草が頬杖をついたまま口を出してくる。
「とのが! プリンス外江が片想い……!?」
阿久津がおおげさにジェスチャーを入れて驚いてみせる。
「かわいそうに。とのっち、俺、応援するからね。俺のほうが先輩だもんね恋の道は」
このやろう阿久津のくせに。イラつきながらも渡良辺の反応を盗み見ると、展開にとまどっているらしくただ黙ってやりとりを見ている。
「でもさ、はらちゃん、とのっちなんて振っちゃってもいいよ。そのほうがおもしろいっていうかイケメンも少しは苦労したほうがいい気味っていうか」
「阿久津、おまえ今の台詞覚えておくからな」
「だから笑顔でおどすのほんとやめてよ!」
ノートは無事に返却され(伊草のおどしが効いたかずいぶんと丁重に扱ってくれたらしい)、ようやく下校ということで阿久津は自転車を取りに先に校舎を出た。てれてれと追いかけて学校裏の第2グラウンドを目指していると、自転車置き場を抜けたところで、おだやかならぬ声が耳に飛び込んできた。
「だから、どうして自転車を使ったんだ。理由を言いなさい!」
生活指導の貝沼に詰め寄られているのは、自転車を手で支えている小池。彼女はくちびるをかみ締めて、ふてくされたようにうつむいている。
「先生、声ちょーこわいよ」
からかうように言ったのは伊草だ。貝沼はこちらを見て、気まずそうな、しかしほっとしたような顔を見せた。
「小池さん」
渡良辺が駆け寄ると、照れくさそうに小池は笑ってみせた。しかし、再び始まる貝沼の詰問に表情を戻す。
「小池、おまえの家から学校まで自転車で来た方が早いのか?」
「……ちがうけど」
「じゃあどうしてわざわざ自転車で来たんだ。定期はあるだろう。失くしたのか」
「それ関係ないから」
なにが引っかかったのか、いらだったように小池は吐き捨てた。
「理由を言いなさい。まさか、ただ気分で自転車で来たのか?」
「だったらそれでいいよ」
「そんな理由だったら俺も指導しなきゃならん」
もちろん、貝沼が言っているのは実際にとる処置だ。自転車を没収し、父兄を呼ぶこともある。小池はまた黙り込む。
「せんせ、これ初犯?」
「え? いや、ああ、そうだな。小池はそうだ」
「俺達これから帰るんだけど、駅まで押して行かせるから、今日はそれで見逃してくんない? 危ないのって駅までの大道路でしょ。絶対乗るなってんなら、俺一緒に家まで歩いて帰ってもいいよ」
貝沼は、迷ったようだった。が、息をつく。
「見逃すのはこれきりだぞ。押すのは駅まででいい。あとは明るくて安全な道を選べ」
「もうしないよな?」
「……ん」
はっきりしない返事におそらくその場の全員が引っかかっただろうが、かたくなな様子に、貝沼は扱いを決めかねているようだった。彼は甘くもいい加減でもないが、話は通じるし、生徒の味方になってくれるほうだ。
「あと、小池。勘違いするなよ。事故を起こさなきゃいい、って話じゃないんだ。自転車の扱いに関して生徒に信用がない現状で問題を起こし続ければ、自転車通学自体が禁止になることもありえる。よく考えるように」
相変わらず反応の悪い小池から、伊草に顔を向ける。
「それじゃ伊草、頼んだぞ」
「はーい。んじゃせんせ、また明日ぁ」
「おまえ達も気をつけて帰れよ」
帰り道になったとたん、小池は元気になり、いつものように明るく話し出した。阿久津とはしゃぎ、渡良辺に我も我もと話しかける。自転車は今は伊草が押している。あまりに前を見ていないので、何度もガードレールにぶつかり、あげく人にまでぶつかったところで取り上げた。
「小池、定期なくしたん?」
「だからちがうから! あるよ、ほーら」
「あんのかよ!」
さっと取り出した定期をぴらぴらさせる。
「んじゃなんでチャリなん?」
「えー、なんかたまにチャリ乗りたくなるときあるじゃん。こう、アストロンみたいな」
「それもしかしてトライアスロンだよね」
突っ込んだのは渡良辺だった。突っ込まずにいられなかったらしい。
「あれ? アストロンってなんだっけ」
「ドラクエの魔法。小池ちゃんってゲームやるの?」
「あたしはやんないなー」
「じゃあなんで知ってんの……てか、はらちゃんはゲームやるんだ! 俺もゲーム好き!」
「わたしも好きだよ」
やりとりを聞きながら、伊草が前に聞こえないような小さな声で、俺がやってたからだと乾いた笑いを浮かべた。伊草は学校でよく、小池のきりのない話をDSをやりつつ聞き流していた。やっぱりおまえらのほうがよっぽどカップルくさいと思う。外江はちゃんと、飲み込んだ。
駅で小池と阿久津と別れ、渡良辺が途中下車し、伊草と外江のふたりになると、とたんにいつもの帰宅風景。
「貝ちゃんは説教うまいよなあ」
「あのひとの言うこと、たいてい筋通ってるし」
ぽつりぽつり、時たま会話を交わしながら、駆け足で夜になった窓の外を見る。車内の明るさを反射して、自分達の姿がくっきり映っているけれども、その向こうには人工の光が流れていく。
「はらちゃん、かわいいじゃん。あれ照れてたんだろ?」
「照れるだけだったらかわいいで済むんだけどな」
さて、今日のメールはどうなることやら。楽しそうにはしていたけれど、無理矢理に外江の友人達に引き合わせたことを、彼女が素直に許すとも思えない。
「小池、なんでチャリで来たのかな。別に深い意味はないのか」
「あいつ、多分明日もチャリで来るよ」
「なんか知ってんの?」
「知らね。でも、もうすんなっつったとき、全然うなずいてなかった」
予想は当たり、小池は翌日も自転車で登校した。