その20.振り替え休日(5)
分厚い灰色の雲が覆った空の下を、てれてれと歩く。まだ秋の入り口なのに、太陽の出なかった夕方の空気はぴりりと感じるほど冷たかった。
家を出てからここまで会話はなかった。渡良辺も黙ったまま、少しあとからついてくる。
「渡良辺の姉さんさあ」
「な、なに?」
ぼそりとつぶやいた言葉に、彼女は驚いたらしく過剰に反応した。ためらい、あーとうなってとりあえず間をつなぐ。
「やっぱいいや」
「そんなの気になるよ」
渡良辺は軽く憤慨する。まあ、言わないならそもそも言いかけるべきじゃなかったなと自分が同じ目に遭った時を思い直して、外江は改めて口を開いた。
「俺が今日行くの、知ってた?」
「うん……、ごめん、いけなかった?」
「いや」
「ごめんね、お姉ちゃんってすごくしっかりしてるんだけど、忘れ物のクセは直らなくて」
うそだ、と内心で断じる。あのひとはそのつもりで戻ってきたんだ。口元を引きつらせつつ生返事をし、そっと息をついた。
チャイムを鳴らして家に入ってきたのは渡良辺の姉だった。彼女の現在の住まいは二世帯住宅のもう片割れだが、よく実家に出入りしている彼女はゆうべ仕事の道具を部屋に置き忘れたのだという。外江が着替えた部屋を、結婚して家を出たはずの彼女は私室のように使っていた。
あわてて服を着た渡良辺と一緒に脱衣所を出た外江は、なんとも気まずく間抜けなかたちで渡良辺の姉と対面した。彼女は外江に歓迎を示し、大人らしい気遣いでもって余計な詮索をしなかったが、目は笑っていなかった。
思い返してみるに、外江をここに呼ぶこと自体も、ケーキを用意したのにも、渡良辺の姉は関わっている。ふと思いついて渡良辺を振り返ると、振り返らない背中にしょんぼりしていた彼女はぱっと目を輝かせた。
「ちがったら悪いんだけど、そういえば渡良辺って服もお姉さんに選んでもらうんだっけ?」
恥ずかしそうにうなずく。
「いつもじゃないけど、外江君と会うときは自分で選んだのだと不安だから」
じゃあやっぱり、このとても脱がせづらい服の組み合わせにも俺は意味を勘繰っていいんですかね、お姉さん。
「変だった? お姉ちゃん、センスいいと思うんだけど……」
「ううん、そういうことじゃないよ。似合ってる。渡良辺のお姉さんは、渡良辺のことよくわかってるんだなって思って」
笑ってみせる。渡良辺は考えなくていいことだ。
「お姉ちゃん口は悪いけど、優しいんだ」
「そうだな、渡良辺のことすごく大切にしてるように見えたよ」
だから俺に優しくする気はないみたいですけど。うれしそうに渡良辺が笑うので、一緒に笑う。うわっつらの笑顔は我ながら上出来だった。
――あの子と同じ歳なんだから、外江君も来年三年よね。そろそろ進路について本格的に考え出す頃ね。
渡良辺がコートを取りに自室へあがったとき、渡良辺の姉はそう言って寄越した。友好的な笑顔をもってしても初対面の人間に聞くようなことじゃないだろう。外江は笑顔でふたつの大学の名前をあげ、そこの理学部を考えていると答えた。プライベートな質問を、いつもなら適当ににごすところなのに、簡単に煽られた自分を反省する。いや、でもあれ絶対「渡良辺に手を出すならそれなりの覚悟があるんだろうな」ってことだろ。そんなことに口を出されたくはないと強く思った。
「外江君、これからどうするの?」
「ああ」
時間は16時をまわったところだった。離れがたい気持ちもあるが、ろくでもないタイミングでぶち切られたことで疲労感もひどい。なにより頭を冷やしたい。
「クラスとは別の文化祭の打ち上げに呼ばれてたんだ。今日はそっちに顔出してくるよ」
「そっか」
「渡良辺も来る? 誰でも歓迎な連中だよ」
小さく、けれどはっきり首を振る。
「わたしは誰でも歓迎じゃないです」
「そうでしたね」
これで今日はおしまいと知ると、やはり渡良辺はさみしそうだった。悪い事をしているわけじゃないのに、犬でも捨てるような気分になる。外江は足をとめ、からだを向けた。
「渡良辺さん」
外江を見上げてくる。主義に反するけれど目はそらす。
「その、今日はすみませんでした」
今日はっていうか今日もか? 考えてみればお化け屋敷のお詫びだったはずだったのに、エスカレートしてどうする。渡良辺は一気に顔を赤くしてうつむいた。怒った顔をしている。けれど、小さな手を伸ばして外江の手をにぎった。
「外江君はえっちだ」
伝染した。外江の顔まで熱くなる。勘弁して外でこんなこと。ああでも中だと同じことを繰り返す気がする。じゃあこれでいいのか。
「すみません」
「まったくまったくだよ」
さらにぎゅーっと力を込めてくる。させておくと、渡良辺はあれ、と顔を上げた。
「痛くない?」
「別に?」
外江の答えにおもしろくなさそうに顔をしかめる。そうか。
「イタイイタイ」
「遅い!」
だったらせめて痛いようにやってよ、耳つねられたのはかなり痛かったけど。渡良辺も思い出したらしく、外江の左袖を引く。少しかがみつつ、つねるの? と聞くと違うと怒られた。
「あ、ごめん……傷になっちゃった」
そこまでになっていたことは意外で、自分でもどうなっているか見てみたかったけれど、耳じゃ鏡でもないと無理だ。
「わたしの爪、薄いんだかわかんないけどけっこう切れるんだ。自分でもたまに切っちゃうの。ごめん」
「そっか。まあ、いいよ」
怪我をさせたことはさすがに不本意らしく、外江がそう言ってもまだ申し訳なさそうに耳を見つめている。外江は渡良辺の手に手を重ねて、かがめていたからだを戻した。
「大丈夫だよ」
なるべくやさしくそう伝えると、渡良辺はうんと小さくつぶやいた。
「もう駅すぐそこだし、渡良辺は戻りなよ。学校のやついるかもしれないし、見られたくないだろ?」
手をぽんぽんとたたきながら言うと、意地悪で言ったことじゃないとちゃんと伝わってくれたらしく渡良辺はまたうなずいた。
しかし、外江はもう行こうとしたものの、渡良辺はがっちりと外江をつかんでいる。どうしたものか。離せって言ったらまたさみしそうな顔をするんじゃないだろうか。逡巡していると、渡良辺が口を開いた。
「街中で」
「え?」
「街中でいちゃいちゃしてるカップルなんてどんだけ頭腐ってるのかと思ってたんだけど」
またそういう言葉を使う。
「これは腐るものなんだ」
どうやら葛藤しているらしく、彼女は複雑な表情を作っていた。思わず笑ってしまう。
「渡良辺のえっち」
「はっ!?」
「いちゃつきたいって言ってるように聞こえますが」
「耳がおかしい!」
「じゃ、なんで手離さないの」
言葉に詰まって、渡良辺は眉を下げる。
「意地悪言っちゃだめって言ったのに」
そういえばそうだった。少し反省して、外江は謝った。渡良辺はうむと鷹揚にうなずく。渡良辺様だ。
「あと、あと外江君は怒っちゃだめ。……こわいから」
「はい。ごめんなさい」
「あと、命令もしちゃだめ」
「命令?」
こくりとうなずく。
「なんで?」
いやなら聞かなければいい話じゃないだろうか。
「ともかくだめ」
「まあ、そういうなら」
怪訝な顔のまま引く外江に、渡良辺はあーとかうーとかうなったあと、ぼそとなにか言った。よく聞き取れない。
「え?」
「逆らえないから、だめ」
渡良辺はおさまってきていた頬の熱を再燃させていた。再び外江に伝染する。やばい命令したい。じゃ、なくて。
「わかりました、渡良辺様」
「うむ」
「ほかになにかありますか?」
つないだ手を軽く上下に揺らす。渡良辺は少し考えたあと、ある、と言った。
「次はいつ会える?」
そんな泣きそうな顔で聞かなくていいのに。外江は苦笑した。
「来週は中間考査だし、再来週の土日かな」
「外江君って、まじめなんだ」
「え?」
「試験期間でもわたし、いつも遊びに行ってた」
「渡良辺、勉強しないの?」
「若干することもある」
「そんな誇らしげに言うんじゃないよ」
阿久津じゃあるまいに。
「別に、渡良辺がいいなら来週でもいいけど」
「え、いいよ! ちゃんと勉強する人の邪魔はしないよ」
邪魔。確かに渡良辺と会って今まで通り集中力を配分できる気はしないが。
「邪魔とかじゃなくても、渡良辺も勉強しなさいよ……」
「あ、うん、はい」
「それ、しない返事だよね」
「えっ」
「まわりにもそういう奴いるからよくわかるよ」
「わ、わたしが勉強しようがしまいが外江君には関係ないよ!」
「本気で言ってる?」
「笑顔で聞かないでこわい!」
「決めた。再来週の土曜ならもう試験結果返ってきてるよな。渡良辺の見せてもらうね」
「もらうねって、勝手に決めないでよ!」
「俺の家くる?」
にこにこ笑って聞くと、思った通り渡良辺は食いついてきた。
「プリンスハウスで釣るなんて卑怯だ……っ」
「ばかなネーミングやめなさい」
「家捜ししていい?」
「いいわけないでしょ」
「やったあ!」
「聞け!」
はしゃぐ渡良辺に念を押そうとしたとき、こちらをうかがっている誰かに気づいた。外江は最初、それが自分が知っている人物だとわからなかった。まっすぐな黒髪を肩に届かないくらいにそろえて、元気な色の薄く長いマフラーを巻いたおそらく同年代の少女が、おどろいた顔でこっちを見ていた。
「とのっち?」
声と、呼び方が、彼女の正体を重ねた。
「小池?」