その19.振り替え休日(4)
怒らせた。
渡良辺は身をすくませたまま、携帯を取り出していじりだす外江を見ていた。彼はすぐに用を終え携帯をたたむと、渡良辺には目をくれず着替えを持って立ち上がった。
「となり、また借りるよ」
「外江君」
「今日は帰る。怒るのきらいなんだ。時間置いたら頭冷えるから」
声だけ聞けばいつもの外江なのに、選んだ言葉も彼らしくおそらくこの場でもっとも理性的だろうに、こんなにこわい言葉はこの世にないように渡良辺には感じられた。後ろ姿を見送る。
外江をここまで怒らせた引き金が直前の自分の言葉だと、彼女には思いがたかった。相手にその気がないから興味を失ってしまうような、そんなひとじゃない、と思う。思っていた。こんな風に怒らせる気なんてまったくなかった。
外江は、善良で、素直なひと。いつも言葉の裏を探って相手を分析する彼女が、この数ヶ月で下した結論だった。外江は、渡良辺の奇行に眉をひそめても、いつもその行動について理解をしようとしたし、理解できなくても、気負いなくなんとなくそのまま受け入れてくれた。返ってくるメールは、言葉は多くないけれど、いつも渡良辺のわかって欲しいこと、聞いて欲しいことについて必ず触れてくれていた。自分と他人を分けているひと。でも、他人への厚意をデフォルトで持っているひと。渡良辺は、外江と交わすメールがここちよかった。渡良辺の望み通り学校で知らないふりをしてくれることも、そのことについてずっと怒らず、追及もしなかったことも、けれど渡良辺の友達には声をかけてくれることも、うれしかった。
今日だって、呆れても、なにそれって言っても、渡良辺の言うことを全部聞いてくれた。ちゃんと、気持ちを見せてくれた。
不満があったのは、自分にだ。
外江といると、いつも自分じゃなくなってしまうような気がする。手紙のときも、はじめて駅で待ち合わせをしたときも、お化け屋敷のときも、まるでかわいらしい、かよわくて繊細な女の子になってしまったようだった。
ちがうのに。いつものわたしはもっとひねくれていて、時には人を傷つけるような、そんな子なのに。
外江に、かわいいと言われてキスをされてうれしかった。でも、外江の中の渡良辺は、かわいらしい女の子とだけ映ってしまっているんだとしたら、それは不本意だ。だから、自分が思う「本当の渡良辺」を、外江にちゃんとわかってほしかった。受け入れてくれると確信もあった。だって彼は、初めて会ったとき、自分の気持ちを守ろうとしてかみつこうとした渡良辺をひょいとかわしてなだめてしまったんだから。
途中まではうまくいっている気がした。外江も困ったり怒ったりしていたけれど、やっぱり渡良辺を受け入れてくれていた。
でも怒らせた。どこかで間違いを犯した。
もう嫌われた。嫌われるまでいかなくても、きっと、外江が持っていてくれた渡良辺への好きが、下がってしまった。そう思うとこころは傷ついた。
痛みに驚いて、彼女は逃げ出した。
はなをすすると涙がこぼれそうだ。泣いたら止まらなくなる、息を止めるようにしてこらえながら、物音を立てないように階段を下りる。きょろきょろとまわりを見回し、迷っていると、上で物音、外江の気配を感じて、あわてて風呂場へ駆け込んだ。静かにドアを閉めると、足から力が抜けた。少しだけ気持ちがほっとした。ばかなことをやっているのはわかっている。でも、自分の事を好きじゃない外江に会うなんて、そんな恐ろしいことはできない。
和室の引き戸を開ける音は、静かな家ではよく響く。着替えを終えた外江は、渡良辺の不在にすぐ気づくだろう。そのまま渡良辺が出てこなければ、怒っている彼は呆れて家を出て行くはずだ。それでいい。嫌われるかもしれないなんて怯えて待つくらいなら、とっとと嫌われてしまったほうがいい。
二階で、外江が怪訝そうに渡良辺を呼んだ。
階段を下りてくる。下りるたびに鳴る音は、彼が持っていたかばんと、執事服の入った紙袋だ。帰るつもりなんだ、紙袋をつき返して。やっぱりそんな空気には耐えられない。からだをちぢ込めて、息を殺す。出て行くつもりはなかった。第一、こんなところで風呂場から現れたら、どれだけ間抜けなんだという理性も若干ある。
外江はもう一度渡良辺を呼ぶ。無視を決め込む。意識を止めたふりをして、渡良辺は時間が過ぎるのを待った。やがて家には、完全な静寂が訪れる。
不意に脱衣室のドアが開けられた。
「あ、やっぱりいた」
「きゃあああああああっ!?」
渡良辺の悲鳴に驚いて興奮したミミ蔵がきゃんきゃん吼える。力いっぱい破られた沈黙に心臓が飛び上がる。
「ちょっとびびった。渡良辺以外が入ってたら、俺変質者だよね。通報レベルの」
「なっ」
「ミミ蔵がドアの前でおすわりしてたよ」
ミミ蔵のばか。思わず睨みつけたミミ蔵は、やっと会えたご主人様に飛びついてうれしそうに顔をなめた。ばかばかばか。外江は、座り込んでいる渡良辺の横にひざをついた。
「すぐ逃げるんだから」
「逃げてないっ」
「へー」
恥ずかしくて顔が上げられない。
「恥ずかしーコ。いくらなんでも、家の中で隠れるとか」
ひどい。わざわざそんなこと言う。頭が沸騰する。自分が悪いだけに。
「や、だ、もうやだ帰って!」
「じゃあ帰るよ。そのつもりだったし」
思わず顔を上げる。目が合うと、外江はにやっと笑った。あああ。
「帰って帰って帰ってっ!」
思いきり外江を押す。風呂場、正しくは脱衣所から外江を追い出そうとするが、うまくいかない。
「捜して欲しかったの? それとも、ただ逃げただけ?」
「ちがう全然ちがう! 言わないでったら!」
外江をたたく手を止めてうつむく。じゃなければ。
「なんにも言わないで」
泣いてしまう。
外江は、渡良辺の首に手を回し、自分に引き寄せてくちびるを重ねた。からだが一瞬逃げかけて、けれどさっき食べたケーキの甘いにおいが彼女をおとなしくさせる。
「あのさ、俺達がいつも変な状況になってるのって、絶対あんたのせいだよ。なに脱衣所って」
返す言葉もない。
「また伊草に変態扱いされる……」
「伊草君に話してるの?」
まさか、全部。聞き咎められ、外江はまばたきをした。視線を泳がせてから、
「話してないよ」
「うそついた! すっごくうそついた!」
信じられないと騒ぐ渡良辺に、笑いながらごめんと軽く謝る。ふたりのあいだにあったことを伊草に知られていると思うと、顔から火が出そうだった。もう伊草の顔が見れない。
「話しちゃだめ!」
「わかりました。もう話しません。渡良辺がこんな恥ずかしーコだってことは内緒ですね、痛てててててっ」
耳に爪を立てて力いっぱいひねる。
「渡良辺それ痛い!」
「次言ったら千切る……」
手を離して、口をとがらせる。意地悪を言う外江が悪いのだ。意地悪をするのは渡良辺でなければならないのに。けれどそのあと、口からも眉からも力が抜けた。外江が、もう怒っていない気がする。さっきまでのふたり。
外江は、そんな渡良辺の視線を居心地悪そうにそらした。あまり目をそらさない彼が、ときたまにそらすのはこんな時だけなんだけれども、渡良辺にはそれがよくわかっていない。
「外江君、ごめんなさい」
目をそらされたのが悲しくて、気がつけばぽろりと謝罪の言葉がこぼれていた。
「なんで怒ったのかわかってないんだけど、ごめんなさい……」
連鎖して涙がふくれる。安心と、申し訳なさと。
外江は渡良辺の肩をつかみ、もう一度キスをした。そのキスにこもった熱が知らない温度だと気づいたのは、壁に押しつけられたときだった。上唇をくすぐるようについばまれ、よくわからないこそばゆさに戸惑うままくちを開けると、あたたかくてやわらかいものが押し込まれた。頭の芯が揺れる。
背を反らされ顔を上向かされると、力がうまく入らず、自分がひどく無抵抗な存在に思えた。目の前の人物にいいように征服されている気分は、おそろしく、けれど。
「外江君」
途切れた隙に、やっと名を呼ぶ。かすれた声のいやらしさにめまい。熱い熱を吐き合う、自分と相手。
外江は渡良辺の頬をはさんで、目を合わせさせた。
「いやだって言ったら」
やさしい表情じゃなかった。少し怒ったような、真剣な顔。
「やめるよ」
おどされていると彼女は直感した。おどしの言葉ではないはずなのに。
外江は、渡良辺のワンピースのすそに手をかけた。
「脱がせるから、腰ちょっと浮かせて」
今、なんて言ったの? 外江はじっと渡良辺の目を見ている。今度はそらさない。動けないままでいる彼女に、もう一度告げられる。さきほどと同じく、ゆっくりと。
「いやだって言ったら、やめるよ」
絶望に似た感覚に襲われた。そんなことは言えない。今の渡良辺には。
外江は、ワンピースをつかむ手を少しだけ揺らした。渡良辺は、ぎゅっと目をつぶり、言われた通り、少しだけ腰を浮かせた。
すぐに脇下までまくりあげられ、次に腕を上げるよう指示が下される。なんの障害もなく、あっさりとワンピースは渡良辺から取り払われた。現れたやわらかい生地のハイネックにも、外江はためらいなく手をかける。
「み」
とっさに声がつまる。のどがからからだった。外江が動きを止め、渡良辺をうかがう。
「ミミ、を」
ちらりと目をやると、外江はミミ蔵を抱き上げドアの外へそっと追い出した。ゆっくりとドアを閉めると、ミミ蔵は一度だけ、くうんとさみしげに鳴いた。
「忘れてた」
そうつぶやいた外江の頬も少し赤らんでいる気がした。
「あの、外江君」
「なに?」
「た、楽しくないよ」
「……なにが?」
怪訝に眉をひそめる。少し不愉快そうだ。でも、渡良辺は必死だった。
「ない、から」
「だから、なにが」
そんなことは口にできない。
「ああ、胸がないって?」
「うああああああ」
「そんなの見ればわかるよ」
「ひどいわたしもう死ぬ」
「死なないから。ほら、脱いで」
するりと手が差し込まれる。素肌の脇腹に外江の手を感じ、くっと息をのむ。またもあっさり脱ぎ払われ、かわいらしい生成り色の下着がさらされた。ハイネックもワンピースもなんて根性がないんだろう。腹立たしい。こんなことになるなんて思ってなかったのに、昨日ムダ毛の処理をがんばってしまったのは、なんていうか心構えとかそういうもののはずで、本当に脱ぐなんてそんなつもりはなくて、下着が川ちゃん達と下着専門店で買ったちょっと高いお気に入りのやつなのもデートに対しての気持ちというだけで、ともかくちがうんだよやる気満々だったわけじゃないの、外江君どうかそこは勘違いしないで、っていうか胸を見ているんだけどどうしようとめまぐるしく思考する。
「な、な、ないでしょ!?」
言われる前に言わねばならぬ。なぜか武士のようになりながら、渡良辺は自棄のように言う。
「ないねえ」
「そんな!」
「いや、自分で言ったくせに」
自分で言うのと、外江に言われるのは大違いじゃないか。そんなことがわからないなんて外江はばかだ。
「外江君は自分が胸がないからそんなこと言えるんだ!」
「あんまり色々おもしろいこと言わなくていいから。頭沸いてない?」
沸いているんだろうか。沸いているんだろう。こんなに顔が熱いんだから。
外江の右手が、そっと渡良辺の胸を包んだ。あたたかい。一瞬だけほっとしたのが不思議だった。わずかにおさえたとき、浮いたブラの紐が肩から力なく落ちた。反射的に、やだと言いそうになってくちびるをかむ。外江は気づかなかったらしく、指をしのばせたかと思うと覆いを取り払ってしまった。渡良辺は自分の口を手でおさえつける。
「……思ったよりかは、あるよ?」
なぐさめじゃない、そんなの。外江がささやかなふくらみにそっと指をしずめた。好奇心旺盛な親指が色づきをからかう。口をおさえても、小さな悲鳴が漏れ出た。ちがうよ、これはソウイウ声じゃない、でもなんで声が出るんだろう、あれだ、おびえたり緊張したりしてると悲鳴って出やすくなるからそれだ、渡良辺は心中で言い訳に必死だった。外江が顔を上げる。
「なんでおさえてるの」
そんなのわかれ、聞くんじゃない、渡良辺は抗議をもってにらみつける。が、外江は渡良辺の手首をつかむ。
「どけて」
渡良辺が従うのを待つ。結局、からだから力が逃げた。
横たえられ、保温性のある床がそこそこやさしく素肌の背を受け入れる。片手を軽くおさえつけたまま、外江がくちびるから渡良辺のからだに与えてくる感覚に、呼吸が調子を乱す。
かちゃりと金属の音がして、意識が呼び戻された。外江が渡良辺のベルトをいじっている。
いや、と言いたかった。けれどまた飲み込んだ。言ったら外江はやめる。本当にやめて欲しいのか常に問いかけ答えを求める外江の言葉は、渡良辺に残酷だった。
外江が戒めをなくしたズボンを引きおろそうとしたとき、下着までも一緒に持っていかれる気配に、とっさに彼の首にしがみついた。けれど外江はそのままひざまで脱がせてしまう。外気の感触があまりにも心細かった。
「渡良辺」
首を振る。外江は顔をすりつけるようにして、近づいた渡良辺の耳をかんだ。高くて短い悲鳴が恥ずかしかった。腰のかたちをなぞるように大きな手が這い、おりていく。行き着く先を察したとき、渡良辺はとうとう制止を命じた。
「だめ、外江君だめ」
外江の動きが止まる。ほっとしたのもつかのま、動きはすぐに再開された。
「外江君!」
あせった声をあげたとき、耳にささやかれたのは静かな命令。
「おとなしくして」
そんな。言ったら、やめてくれるって。愕然として少し離れた彼を見る。外江は眉をひそめ、視線からのがれるように渡良辺に軽くキスをした。だめだよ、とつぶやく。
「やめたくない。渡良辺にさわりたい。俺、その目だめなんだ」
外江は、渡良辺の抵抗を優しく奪いながら、彼女に覆いかぶさった。
チャイムが鳴った。ミミ蔵がけたたましく吼える。