その18.振り替え休日(3)
渡良辺が高速で戻ってきたせいで、着替えるタイミングを失った外江はベストを脱ぐだけにおさめた。
「外江君、かぼちゃとかりんごとか、だめだったりする?」
「平気だよ」
「よかった。じゃあ、小さく切ってあるから、両方どうぞ。わたし、どっちも大好きなんだ」
かぼちゃのシフォンケーキに、アップルパイ。楽しそうにケーキについて説明する渡良辺を見つつ、一口大に作られたそれを口にほおばりながら、外江はふと気づいた。
「紅茶のおかわり、いる? それともコーヒーのほうがいいかな。そういえば、昨日のうちの堀内ブレンド、どうだった?」
「渡良辺さ」
「ん?」
「ひょっとして、最初から俺のこと家に呼ぶつもりだった?」
準備がよすぎるだろう。渡良辺の動揺のなさもうなずけない。外江が知る限りの彼女なら、もっと。
返事はない。が、反応でわかった。渡良辺は、顔を赤らめながらうつむいた。
「……わたし、外で遊ぶの得意じゃないし。それに、外ってお金かかるでしょ。このまえ、外江君おごってくれたから、今度もそうだったら悪いなって思って」
外江はフォークを置き、文字通り頭を抱えた。
「と、外江君? やっぱり引いた? いきなり家に呼ぶとか」
沈み込む外江に、渡良辺は必死に、着替える場所がどうとか、ミミに会わせたかっただとか、説明を続けるが、全部右から左に流れていく。このいたたまれなさをどうしたらいい。さっきまでの自分が呪いたいほど恥ずかしく、いや渡良辺の半端な天然が悪いんだと思い直し。わかってて呼んだ。そりゃないだろう。って、わかってるってどこまで?
「おうちデート、だって、ちゃんとしたデートだってお姉ちゃん言ってたから……」
言葉を尻切れに、渡良辺は手近なクッションを抱きしめた。ミミ蔵は遠かった。
「え、まさか、このコスプレうんぬんも家に呼ぶために?」
「ちがうよ! コスプレしてもらえるやったーでも場所がいるなじゃあ家に呼んだらいいじゃないってそういう順番だったよ!」
とんでもないと首を振る。渡良辺は滑舌がいい。早口でまくしたてられると見事すぎておかしみがある。そんなことはどうでもいいのだけれど。
「……まあ、コスプレ頼むのも、そもそもアレだけど」
あんたが言うか。自覚あるのか。
突っ込もうとして、その前に渡良辺がくしゃっと顔を歪めて笑った。
「まさか、本当に着てくれるなんて思わなかった。外江君、いいひとすぎるよ」
いいひと?
「家にもほいほい来ちゃって。素直すぎて心配になっちゃう」
外江は自分に三度落ち着けと言い聞かせた。ていうか、なんなんだ。渡良辺の脳内の力関係。なんで俺が渡良辺にだまされてるってことになってるんだ。
執事服を着たのは。家に来たのは。やまのような反論が喉元に押し寄せる。しかし、外江はしんぼうづよくも、それを一度吟味した。そして結局、飲み込んだ。渡良辺に背を向けて、ベッドに肩をもたれる。
「外江君? ……怒っちゃった?」
怒らせるようなこと言ってる自覚あるんだ。やっぱり俺を見下ろしてるつもりなわけね。眉間にしわを寄せて目を閉じる。外江は、腹立たしさにまぎれた劣情をなんとか散らすべく、理性をかきあつめていた。
参った。俺は渡良辺に、欲情、するんだ。特に、こんなときに。言葉で認識すると、その単語のもつ威力に顔が熱くなる。よくじょうとか。勘弁してください。
自覚してみると不思議なことに、渡良辺とはじめて会ったときの自分のほうがそれを知っていたような気がした。
今、あんまり憎たらしくなって、どうしてやろうと思って、つまりそんなようなけしからんことを考えた。手がのびかけた。そのあとどうすんの。自分で自分に突っ込みを入れる。多分はじめて渡良辺を見たときから、程度の差はあっても、何度もそう思っていたと気づく。さわったら驚くかなとか。いじめたいだとか。泣かせたいだとか。今までそんなことを思った相手はいなかった。
「外江君……ごめんね。下心はあったけど、だますつもりはなかったんだよ」
「だまされてないよ!」
「え、そう?」
本気で聞き返される。下心とか、しらっと口にできるのはなんなんだろう。むきになった外江を見て、また相好を崩す。
「えへへ。外江君、かわいい」
渡良辺より、外江のほうが純情。これが渡良辺がしいた式。ほら! 憎たらしいんだもんこいつ!
「もー」
天井をあおぐ。これほど伊草に近づいた気がするのははじめてかもしれない。
「女こわい女」
「そうだよ、女の子のほうが男の子よりオトナなんだよ」
「渡良辺こわい渡良辺」
「わたし限定にしないでよ」
「渡良辺のえっち」
「なっ」
渡良辺を振り向き、半目で軽蔑したように言う。渡良辺はぱあっと頬を染めた。
「渡良辺ってそんな子だったのね」
「ちょ、そんな子ってなに! 別にそんな子じゃないよ!」
「だってなんかキャラ違わない」
「それは」
「生意気」
「別にっ」
そう、王子様に対して生意気だ。今までは、外江が近づこうとしても渡良辺から一歩引いていたのに。
「だって」
「ほんとはすごーく男慣れしてただけ?」
「違うってば、男なんてクズだよ!」
つついたらなんだかすごい発言が返ってくる。渡良辺の場合は本気で言っている気がするからこわい。外江の意地の悪い言葉に、渡良辺は釈明の必要を感じたらしく、ごにょごにょと口を開いた。
「……って、わかったもん」
外江は、怪訝に眉をひそめる。
「……外江君、わたしのこと、好きだもん!」
「はっ?」
「そこではっていうのはよくない!」
「あ、え? ごめん?」
泣き出しそうなほど顔を赤くして、渡良辺はまるで床に親の仇がいるかのように睨みつける。
「ともかく、わかったの! わかったからいいの!」
「なにを言っているのかよく……」
「いいんだってば!」
「なんで逆ギレなの!?」
「外江君がばかなこと言わせるからだよ!」
抱えていたクッションを投げつけてくる。まともに食らいながら、それでもまだあっけにとられる。
「ほ、ほら、怒らない」
「ええ? 怒って欲しいわけ?」
「ちがうよ」
渡良辺は外江に抱きついた。勢いが良すぎて、外江はうしろに倒れこみ頭をしたたかに打った。
「この姿勢なに!?」
渡良辺に馬乗りされている。ハイネックにワンピースを着込み、下は色の濃い細身のジーンズという彼女の格好自体は、防御が完璧なものの。
「だから……」
伝え方がほかにわからないと、渡良辺は一瞬悲しげに目を細める。それからぎゅっと目をつぶり、外江のシャツをにぎりしめた。
「昨日、昨日のあのとき、……外江君は、わたしのこと、好きなんだって」
思ったの。最後の声はかすれていた。
外江の言葉から。手から。声から。表情から。
「わたし、ほんとは意地悪される側じゃないんだよ! 意地悪する側なんだから」
狂犬な一面のことを言っているんだろうか。ようやく、彼女の言いたいことがわかったような気がしてくる。
「狂犬の反乱?」
引っかかるものはあるようだったが、渡良辺はこくりとうなずいた。
「俺は、ホンライ、意地悪される側なの?」
またしても、こくりとうなずく。
なんだそれは。そう思いつつ、真っ赤な顔で言い張る渡良辺を見ていると、従ってやらなければいけないような気になる。あーもー。外江は抵抗する気力がしゅるしゅると抜けていくのを感じた。
外江から力が抜けたのを、渡良辺も気づいたようだった。やおら、目を輝かせる。
「えへへ」
ぺたぺた、外江をさわりだす。頬、肩、腕。
「なんでこんなにかっこいいのかなあ」
「ちょ、それやめて……」
「かっこいいってことに基準は作れるけど、好みは完全にひとそれぞれじゃない。そのうえで、外江君はたくさんのひとに好かれる見た目なわけでしょ。そんなのうさんくさいって最初は馬鹿にしてたんだけどね、だってわたし男の子とか嫌いだしゴミだと思ってるし、なのにわたしの好みもそうだったらしくてね」
この状況も拷問だが、その話も拷問だ。一応、手紙で触れていたことのある話題ではあるのだけれど。
「見た目が好きなの。この目も。後ろ姿も。動きも。どうしてかな。どうしてこんなに好きって思うのかな」
「ものすごく引っかかるんですけど、それ」
「外江君の外見が好きです」
「またそうやって言い切る」
手紙から好きになった外江のほうが、まだまともじゃないだろうか。
「だって、中身なんて知る機会なかったもん」
ふにふにと耳をにぎってくる。はっきり言って痛い。
「中身は好きじゃないの?」
尋ねると、渡良辺は今までで一番うれしそうに笑った。
「好きじゃないよ?」
なんてことを言うんだろう。渡良辺は、外江の首に顔を寄せた。
「外江君、すねた」
「すねるでしょう、そりゃ」
「すねたー」
うれしくてしかたがないと、顔をすりつけてくる。
「わたし、外江君がすねてくれるなら、一生好きじゃないって言う」
「俺は今、渡良辺がすねたらこわそうだなーって思ってる」
「それは当たってる。わたし、へそまげると面倒だっていっつも言われる」
手をまわして、抱きしめてもいいんだろうか。制止する声が内側から聞こえる。止まれたら俺すごい。
「あんまさわんないで」
「どうして?」
「おねーさん、俺よりおとなならわかるんじゃないの」
びっくりして飛びのいてくれるかと思ったら、渡良辺はまたしてもにまーっと笑った。この笑顔はなじみがある。伊草のSが発揮されるときと同じ。
「王子様は無理矢理えっちなんてしないもん」
「なんでそう、意地悪するときに輝くの、君達の人種っていうのは」
「君達?」
「なんでもない。俺をからかって楽しいのね?」
「楽しいっ……!」
こぶしをかたくにぎり、ふるわせている。
「からかうのはいいけどさ。俺が本気になっちゃったらどうするの?」
王子がうんぬんをするのかしないのか知らないが、それに外江が従わなければならない理由はない。しかし渡良辺は、よほど安心してしまったのか調子に乗ってしまったのかひるみもしなかった。
「わたしがしないって言えば、外江君はしないよ」
「なんで言い切れるの」
「外江君、優しいもん」
渡良辺はまた笑う。しかし先ほどまでの意地の悪い笑顔ではなかった。巧妙に釘を刺された気分だった。渡良辺は、外江を信じている。自分にひどいことをすることは、外江は望まないと。確かにそれはその通りで、外江に確認させ二の足を踏ませた。
「渡良辺は、しないって言うの?」
「えっちはしないよ」
渡良辺は当然のように答えた。本心のように聞こえた。これはひどく外江の癇に障った。
渡良辺の言うことは実際当たっているし、からかうことが楽しいなら、それもかまわない。それにしたいかしたくないかと問われれば、外江はしたくないとは言えない。
でも、まったくその気がないのに煽るだけ煽るなんていう真似はひとを馬鹿にした行為だ。渡良辺が本当に望まないなら、決して無理は強いまいと考えていた自分の健気さが、今のひとことでとたんに滑稽なものになったことが耐えがたく不快だった。
「どいて」
自分でも驚くくらい、冷めた声だった。渡良辺のからだがこわばる。