その16.振り替え休日(1)
5分前についた待ち合わせ場所に、渡良辺はすでにいた。私服で会うのは二度目だったが、それよりも彼女が手に提げている紙袋に目が行く。
「外江君」
声をかけるより先にこちらに気づき、渡良辺は笑顔で外江を迎える。まだ見たことのなかった、満面無邪気なそれを、けれどのんきに喜ぶこともできず。
「ほんとに持ってきたの?」
「持ってきたよ、執事服!」
ほら、カメラも。きらきら、目を輝かせて渡良辺は紙袋とカメラを外江に突き出して見せた。
お化け屋敷のお詫びとして渡良辺が要求したのは、渡良辺のクラスで使われた執事の衣装を外江に着てもらうことだった。前々から渡良辺が外江にねだっていたことで、ずっと断っていたものの、人前で泣かせて喜んだ挙句それに乗じてキスをしてしまったことに罪悪感を感じている立場としては(言葉にするとなんとアレなことか)、これ以上首を振ることも難しかった。しかし、この通り渡良辺はご機嫌なわけだが、彼女はちゃんとわかっているのだろうか。極力否定の空気を出さないようにしつつ、慎重に尋ねてみる。
「渡良辺さ」
「うん?」
「これ、着るのはいいけど、俺はいったいどこで着替えるの? カラオケとか?」
文字通り、きょとんと渡良辺は目を見開いた。
実は外江としては、変わった服を着ること自体はそこまで抵抗がない。今までにもクラスのイベントなどでこんな頼まれごとはあったし、頑なに断り続けるほうが面倒だった。しかし今回の渡良辺のお望みは、それとはだいぶ趣が異なる。まったくのプライベート、ふたりきりで、片方が着替えて片方が写真をとる、そんなことを実際に行ったときにどんな空気になるか、想定の上で彼女は言っているんだろうか。
「そっか。着替えられる場所がいるね」
一介の高校生である自分達が外で使える個別の空間など、カラオケくらいしか思いつかない。しかし、写真を撮るために渡良辺とふたりでカラオケボックスに入るという行為に対して、昨日伊草が口にした言葉が頭から離れない。
後夜祭を、外江はクラスの面々と騒いで過ごした。伊草とふたり、輪をはずれ冷たい校庭に腰をおろす。一日続いた祭特有の高揚感に、さすがに疲れを自覚し息をつく。
「との、はらちゃんよかったの? 一緒に過ごさなくてさ」
「聞いてみたけど、むしろ断られた」
「へ? なんで、ダンスは?」
後夜祭は、お約束のキャンプファイヤーを囲んでのダンスがある。彼氏彼女のいる生徒は、クラスや友人よりもそちらを優先している。
「全校生徒の前で俺と踊る度胸なんてないってさ」
予想通り遠慮なく吹き出した伊草に、肩をすくめる。
「ああいうのって女子の憧れなんじゃないの? とのの相手だったら全校生徒から憎まれてでも、とかいう方が俺的にはしっくりくるんだけど。ねーとの、実はあんまり愛されてないんじゃない?」
「伊草、そういうことを言う時の君は本当に輝いているよ。Sだね。真性のSだ」
「自負しております」
まあ自分もだいぶそうだったようだけれど。先ほどの準備室でのことを思い出して、危うく顔が赤くなりかける。
「まあ、ちょうどいいよ。俺あんまクラスほっぽり出すのスキじゃないし」
「そうなん? 俺なら絶対女優先だね!」
「うそうそ。俺よりおまえのほうが、彼女より仲間や友達優先するタイプ」
ことさら淡々と言い切ってやると、伊草はとてつもなく居心地の悪い顔をした。ざまあみろ。
「あ、阿久津だ」
伊草の視線の先をたどると、校庭のすみのほうで暗闇にまぎれながら、阿久津が女生徒と並んで話している。あれが片桐だろうか。座っていても、女子のほうが背が高いことがわかる。
「阿久津のくせにナマイキ。邪魔してやろうか」
「こら」
それが彼女持ちの台詞かと突っ込みかけ、あわてて飲み込む。幸せそうで結構じゃないかと濁した。
「そうだ、との。明日、委員のやつらと打ち上げと称して遊びに行くんだけど、とのも行くだろ?」
「明日は渡良辺と会うから」
「お、珍しい」
外江と渡良辺の付き合いが基本的にメールのみで、電話も時折にしかしないことを伊草はよく知っている。
「時間やコース決まってる? 合流できそうなら、あとから行くよ」
「あー」
伊草は少し考えたようだったが、にっと歯を見せる。
「いや、教えね」
いつものひとの悪い笑みを浮かべたかと思うと、財布を取り出し、中から取り出したなにかを外江の胸に押し付けた。
「はい、応援物資」
何を言ってるのかわからず、いぶかしみながら手を広げると、落とされたのは銀の包み。思わず声を上げかける。
「おい……」
「あ、もうご用意されてました? そうですよね王子ですもんねえ」
なんでこいつこんなにうれしそうなんだ。人目を気にしてというより、自分が見るに耐えられずに握り締めて隠す。
「まだ、そんな仲じゃないよ」
はじめて会話をしたのはニヶ月前、まともに一緒に過ごしたのは今日を含めてもたった三回。気持ちは盛り上がったとしても、あまりに早い。
「余計なことしてすみませんね、引っ込めますね?」
ひらひらと手のひらを広げて、返すよううながしてくる。やばい殴りたい。とうとう顔が赤くなるのを感じた。すぐに突っ返せない自分がとてつもなく情けない。わかっていてやっている伊草が心底から憎たらしい。
「返せないよねーあーよかったーとのも健全な男子高校生でー」
自分じゃ買えないんだよ。思わずこころでつぶやいた。
行為に関心はある。今日触れた時に、その兆しをはっきりと自分の中に見つけてしまった。でも、今すぐに渡良辺とそうなりたいとは本当に思っていない。そんなことより、まだあまりにたどたどしい関係にも関わらずそんな欲求を彼女に押しつけたりして、その性急さをあの繊細なひねくれものがどう受け止めるかということのほうがよほど恐ろしかった。奇妙かもしれないが、外江にとってなによりもいやなのは、渡良辺に嫌われることではなく、渡良辺に浅はかで頭の悪い人間だと思われることだ。
外江は自分が人目を引き、目立つ人間であることを知っている。こころよい経験よりも、言いがたい苦みを伴う経験が、特に彼の骨身に染みさせてきた結果だった。自身の思惑と大きく外れた印象を持たれることの多かった彼は、ひとがひとの気持ちを知ろうとしたとき、行動を通すことで推し量ることしかできないのだと、一種諦観に似た境地で思い込んでいる。つまり、誤解されたくないようなことはやらない。伝えたいことは、誤解のないよう外堀を埋めた上で、ストレートに伝える。それが外江が今までに得た教訓だった。
こんな気持ちを、たとえば意地の悪い伊草に、正論で固めてからじゃないと迫れないのかと馬鹿にされたとしたら、彼はそうだと答える。
自分が渡良辺を大切にしている証拠を積み重ねたい。何度も会ってお互いをよく知り合い、それから触れ合いを求める順序は、確かに誠実な姿勢であり正論のはずだ。疑われたくない。避妊具なんていうあまりにあからさまなものを自分で用意しておいたりして、余計な質問を受けたくない。渡良辺は絶対に色々なことを考えるだろう。王子様が避妊具を持ち歩いていることについて。
その点で、友人の伊草に押しつけられたという事実は、もっとも体裁のいい言い訳だった。何より、自分自身への。
「俺ねえ、とのにこれを授けるのちょっと夢だったんだよねえー」
「変な夢見るなよ! 変態だな!」
「きたぁ! いつもぬるいとのの必死な突っ込み!」
顔が赤いですよーんとにやつきながら体をすりよせてきたので、思い切り突き飛ばす。
「おまえ、なんで持ってんの?」
「ボクおとなだから」
おとなって。外江の知る限り、伊草にそんな様子はなかった。1年の頃の林間学校、クラスメイト達との暴露大会、あれから何の報告もない。報告がなくても、自分達はずいぶんとつるんでいるほうで、なにかあれば察せられるつもりでいた。伊草もそうのはずだ。だから彼も東条について伝えてきたのだから。それともまさか、もう東条と? よほどの表情で見てしまっていたらしく、伊草が苦笑した。
「冗談だよ。文化祭の準備中、男の委員だけが残ったことがあってさ。そのとき、安部がみんなに面白半分本気半分で回してきたんだよ」
「ああ……」
って、じゃあこれ安部が買ったやつなのか? 渡良辺の天敵である安部からもらったものを使うわけにはいかないんじゃないだろうか。それとも、そんなことは気の回しすぎなんだろうか。いやいや別に使う予定はまだないんだけれども。ないはずだ。そうかないのか。
「うあー」
「どした?」
「今、もーものすごい調子狂って疲れた」
「うひゃひゃっ」
表情を崩して弱音を吐く外江に、これまたうれしそうに伊草が笑う。
「いっつもすましてるからだよ」
「すましてないと疲れるんだよ」
「で、それどうすんの? 返却?」
「ありがたくちょうだいします」
「そうこないと。あとでレポートお願いしますね。名前は伏せてもいいですよ」
「あーあー聞こえなーい」
流すと、舌打ちをしながら、伊草は外江にもうひとつをくれて寄越した。
「なに?」
「予備。必要な例を具体的に挙げると」
「挙げなくていいっての」
奪うように受け取る。
「扱いには慣れておいたほうがいいですよ、けれどくれぐれもふくらませて遊ばないように」
真面目くさって言われ、過去の光景を思い出したまらず外江は吹き出した。伊草もつられて息を吐き出す。
「岡山事件!」
「あいつらばかだったよなあ!」
やはり1年次の林間学校で、夜中に部屋を抜け出した生徒達が、大量の避妊具に水を入れて水風船として遊んでいるところを教師に見つかるという事件があった。外江達は野次馬として見ていたわけだが、まったく悪趣味で、思い出すだけで腹がよじれそうになる馬鹿な光景だった。目をむいた教師の形相、激昂のあまり裏返った声。ぷよんぷよん、飛び交ういびつなゴム風船。持ち込んだ男子生徒の名をとって岡山事件と呼ばれ、いまも男子生徒の間では英雄譚としてささやかれている。
ひとしきり笑い、息をととのえた頃、ぽつりと伊草がつぶやいた。
「東条と、使う機会あったんだけどさあ」
多分、自分はまたひどく驚いた表情をしたんだろうと思う。けれど伊草は、外江の視線を避けるように、祭の最期を燃やす炎を見つめている。
「まあ、なんつーか、俺が乗んなくて、結局やんなかった」
外江の言葉を待たず、きっとこちらを睨む。
「やんなかった、だから! できなかった、じゃないから!」
こだわりたいところだろうが、はたから聞けば同じだ。とは口にしない。
小池のせいですか? 喉元までこみ上げる質問をまた飲み込むが、それも伊草はわかっているらしく。
「……自分がこんなに純情だなんて、ボク驚いちゃいました」
「いやいや、いいんじゃないですか。ボク達まだ子供ですから」
「そうですよねーそうですよー」
口でふざけつつ、しかし吐く息が疲れている。
「あー、でも、一応言っとくんだけどさ、東条がとてもススんでいらっしゃるとか、はっちゃけてらっしゃるとかそういうことではないんよ」
東条をかばう伊草に、彼らしい律儀さを思いつつ、聞く。
「なんて言えば、いいのかな……」
闇が、火が、伊草をゆるめているんだろう。普段の彼は、外江とは比べ物にならないほど気を張っているのだと、今更になって感じる。
「東条といると、楽なんだ。似てるからか、東条がそういう空気作るのうまいからなのかわかんないけど、無駄に笑わないでただ見つめられると、頭が冷えて、意地張ったり見栄張ったりがばかばかしくなって、気がつくとぽろぽろ本音こぼしてる。いつもならそんなこと冗談じゃないのに、ムカつくのに、あ、これとのが相手の場合ね」
「おい」
「しょうがないでしょ、タメの野郎なんかに精神的優位に立たれてたまるかっつーの!」
「つまりそれ、東条と俺が性別ちがうけどおんなじってこと?」
「気持ち悪いことおっしゃらないで! ……でもまあ多分ソウ」
以前に聞いた外江と東条が似ているという言葉が、ずいぶんと言葉通りだったことに驚く。
「俺多分、すっごく東条が好きだよ。力になりたいし、幸せでいてほしいとか思っちゃう。で、東条が一番好きなやつとうまくいったらいいって、思うんだ」
「それは」
「ウム。おかしいよな。でも、だから、やっぱり友達なんだ、位置が」
外江には、伊草の味わっているだろう思いや、東条に抱いている気持ちはわからない。女子の友達ももちろんいるけれど、男子の友達とその場所はあまりに違う。それなのに、問いだけならよく聞く、男女間に友情は成立するかいう永遠の命題に、成立すると伊草が答えを出したことだけはわかった。おそらくは本人も思いがけずに。
「友達に、そんなことできないだろ」
伊草は、友人を大切にする男だ。女子好きを公言するくせに、ときとして男子偏重とも思えるほど、友人を優先する。東条に対して吐かれた今の言葉に、確かに伊草が今までに見せてきた友人への思いを見る。
「小池は?」
たまりかねて、控えていた彼女の名を出す。これだけ自分で話を振っているのだし、予想していたんだろう。伊草は眉はひそめたものの、むきになって怒ったりはしなかった。
「あいつは、むかつく」
ため息が落ちる。深く重く。物憂げに。
「むかつくの。やだねー、もう」
力なく肩を落とした友人を見て、自然と、眉尻が下がって口元がほころんだ。伊草がとうとう、落ち着くべきところに落ち着いた気がして、ともかくもしっくりときた。もちろん、伊草が自分の中の感情を否定せず受け止めたからと言って、彼女との双方向につながるわけじゃないのだけれども、外江がここしばらく感じ続けていた、ボタンの掛け違えのような、収まるべきところを間違えたパズルのような、あの居心地の悪さがなくなっていた。
「じゃ、東条と別れたんだ」
「ええ? なんでだよ」
ええ、はこちらの台詞だ。けれど先に怪訝な顔で見返される。
「俺東条のこと好きだっていったじゃん。彼氏彼女、続けるよ」
「よくわかんないんだけど!」
思わず声を上げる。が、伊草はいくらか調子を取り戻したか、また意地悪く肩をすくめ、思わせぶりにため息をついてみせる。
「もーこれだから、素で正統派をいけるやつってイヤよねえ。言ったじゃん、俺も東条も、一番好きなのと一緒にいられないから二番目といるんだって」
「だからなんなんだよ、それ」
「とのにはわかんないよ」
「あーわかんないよ。一番とか二番とか順番ついてる時点でよくわからん」
「うわあー純粋でいらっしゃるうー」
また外江の言葉をまぜかえし、視線をそらす。が、結局、またぽつりとつぶやいた。
「一番好きなやつといるのって、しんどいんだよ。ださくって」
「なにがださいって」
自分に決まってるだろ。聞き取れるぎりぎりの早口。
なんだそれ、とはもう言えなかった。これが逃げの一種だと伊草はわかっている。それに、今しがた、外江自身が、伊草いわく「すました外江」を保てずひどく疲れたばかりで、もしかしたらそれと似たようなことを言っているのかもしれないと思い当たってしまったということもある。
ひとはひと、自分は自分とはっきりと割り切ることは、時として優しく、時としてひどく冷たい。状況と相手の要望に応じて使い分けるものだと外江は思う。今、伊草が自分にどちらを望んでいるのかわからなかった。だから、彼は自分の望むほうを口にした。
「俺としては、おまえが小池に振られて木っ端微塵に砕けてくれたほうがすっきりするんだけどさ」
「言葉、選べっつーの……」
「おまえの選べる最良のことがそれなら」
結ぶ言葉はうまく思いつかなかった。それでいいよ、というのも大上段で、別にいいよ、も突き放したようで。ただ、こうして時折おそらく外江だけに、今は東条も含むのだろうが、話してくるこころの内を、認めて受け入れてやりたいと思う。
「うん」
そう応えがきて、沈黙が訪れる。飽きず懲りず疲れずいまだ騒ぐ仲間達を眺めた。
「明日、はらちゃんとどこ行くの」
「あー……」
顔をしかめつつ、口を開いた。
なんでおまえら、えっちもしてないのにイメクラみたいなことやんの?
「外江君?」
「あ、ごめん」
次第を聞いた伊草の、純粋に呆れた顔と口調を思い出すと、情けないようないたたまれないような、俺はいったいなにをしようとしているんだとそんな気持ちになる。
渡良辺は写真が好きだ。彼女としては、外江の思うようなことではないのかもしれない。けれど、やはり外江としては、倒錯的というのか背徳的というのか、ともかく妙な気分にさせられることに間違いはなく。
楽しみにしているのに、しかもこんな土壇場で申し訳ないが、やはり断って今日は別の事をしよう。
「渡良辺」
「うちは?」
「え?」
「カラオケはさ、光が足りないんだよね。外江君がいやじゃなければだけど、うちじゃだめ? 平日だから誰もいないし。わんこはいるよ、犬好きって言ってたよね」
にこにこ、これしかない名案だとばかりに。
ちょっと伊草。助けて。