守ってるつもりだった俺、実はDV加害者だった
※この物語は、加害者視点で描かれています。
「心配してるだけ」
「守ってるだけ」
そう思っている人ほど、最後まで読んでください。
あなたは、本当に“優しい側”ですか?
「あなたの行為は、精神的DVに該当します」
その一言で、俺の世界は崩れた。
机の上には、2年分の記録。
『私は、彼の前で少しずつ消えていく』
ふざけるな。
俺はただ、彼女を守っていただけだ。
◇
俺が美咲と初めて会ったのは、大学のサークルの新歓コンパだった。
大きな居酒屋の隅、壁際の薄暗い席で、彼女は小さく縮こまって座っていた。
テーブルの上だけを照らすオレンジ色の照明から、わずかに身を引いているせいで、その輪郭が曖昧に見えた。
「肩につくかつかないかの黒髪が顔の両側に垂れ、視線は人の顔ではなくテーブルの木目をなぞっていた。
話しかけられても、かすれるような声で一言二言答えるだけだった。
周りの女子たちが大きな声で笑い合う中、美咲だけが、そこにいるのに存在が薄かった。
目が合いそうになると、ふっとグラスの氷に視線を逃がす。その仕草が、妙に胸に引っかかった。
「人見知りなんだってさ」
隣にいた友人の健太が耳元で囁いた。
「でも、顔は可愛いよな。守ってあげたくなる系だ」
確かにその通りだった。
整った顔立ちなのに化粧っ気がなく、どこか場違いなままここに紛れ込んでしまったような危うさがあった。
細い指先がグラスの縁をそっとなぞっている様子を見ていると、この子は一人では何もできないんじゃないかと思えた。
放っておいたら、きっと誰かに騙されて傷ついてしまう。そんな儚さが、彼女の全身から滲み出ていた。
帰り道、偶然を装って声をかけた。
「同じ方向?」
びくっと肩を震わせた美咲は、少し遅れて俺の顔を見上げた。
街灯に照らされた瞳は黒目がちで、こちらを見上げる一瞬だけ、ひどく無防備に見えた。
「あ、はい。たぶん」
「たぶん?」
「路線、あんまり覚えられなくて」
困ったように笑うその顔を見たとき、胸の奥で何かがくいっと動いた。
この子は、この世界でうまく身を守る術を、たぶんあまり持っていないのだと思った。
「じゃあ、一緒に行こう。ついてきて。間違えないように案内するから」
「ありがとうございます」
彼女は小さく会釈した。薄い肩が、頭を下げる動きに合わせてかすかに揺れる。
その瞬間、俺は思った。この子は、俺が守るべきなんだと。
◇
付き合い始めてからも、美咲は自分で何かを決めるのがとても苦手だった。
初めてのデートで待ち合わせ場所に現れた彼女は、紺色の地味なワンピースに白いカーディガンという格好だった。
清楚で似合ってはいるけれど、どこか自信なさげで、周りの華やかな女の子たちと比べると少し控えめに見えた。
「ごめんなさい。こういう時、何を着ていいか分からなくて」
服の裾をぎゅっと握りしめて、困ったように笑う彼女を見て、俺は優しく微笑んだ。
「全然変じゃないよ。すごく美咲らしくて可愛い」
「でも、せっかくだから一緒にウィンドウショッピングでもしない?美咲に似合いそうな服、いくつか見てみたいんだ」
「でも、私センスないから」
「そんなことないって。ただ、どれが自分に似合うか分からないだけでしょ?俺も一緒に見るから、楽しく探そうよ」
ショッピングモールの女性服フロアで、俺は「これとかどうかな」「こっちの色も顔が明るく見えそう」と、いくつか手に取って彼女に見せた。
薄いベージュのニットに、春らしい水色のスカート。
試着室から出てきた美咲は、鏡の前で少し照れくさそうにしていたが、その表情はさっきよりもずっと明るかった。
「どうかな」
「うん、すごくいい。美咲の雰囲気にぴったりだよ」
美咲の頬がわずかに赤くなった。
鏡越しに自分を見つめる彼女の表情が、嬉しそうに輝いているのを見て、俺も嬉しくなった。
デートの行き先を決めるのも、自然と俺の役割になった。
美咲に「どこ行きたい?」と聞くと、いつも「うーん」と困ったような顔をして、メニュー表を見るように選択肢を見比べている。
その様子が何だか苦しそうに見えたから、俺が提案することにした。
「水族館行って、そのあと美味しいパスタの店があるんだけど、どうかな」
「いいね。楽しみ」
安心したように笑う彼女を見ると、こちらもほっとした。
レストランでも同じだった。
メニューを前に「うーん、どれも美味しそう」と迷っている美咲を見て、俺は自然と助け舟を出した。
「このカルボナーラ、ここの名物らしいよ。シェアしない?」
「それいいね。お願いします」
店員を呼ぶ時も、彼女が緊張して小さくなっているのを見て、俺がさっと手を挙げた。
「ありがとう。私、いつも決められなくてごめんね」
「謝ることないよ。俺、決めるの好きだし、美咲は一緒に楽しんでくれればそれでいいから」
そう言って笑うと、美咲もつられて笑った。
俺がリードして、美咲がそれについてきてくれる。
お互いの得意なことで支え合える、いいバランスだと思った。
美咲も、それを嫌がっているようには見えなかった。
それが俺たちなりの愛し方だった。
◇
付き合って半年が経った頃、俺たちはほとんど二人きりで過ごすことが多くなっていた。
「美咲って、高校の友達とかと遊んだりしないの?」
ある休日、部屋でのんびりしている時に何気なく聞いてみた。
「うん、あんまり。みんな活発で、私がついていけなくて」
「そっか。まあ、俺も美咲と二人でいる方が落ち着くけどね」
「私も。小鳥遊君といると、変に気を遣わなくていいから楽」
美咲が安心したように微笑むのを見て、俺も嬉しくなった。
無理に周りに合わせて疲れるより、お互いが心地いい関係でいられる方がずっといい。
スマホのパスワードを教え合ったのも、ごく自然な流れだった。
「この前、友達カップルが『スマホのロック、お互い知ってる』って言ってたんだよね」
ドライブ中、音楽を変えようとして俺のスマホを渡しながら言った。
「へえ、そういうものなの?」
「信頼の証っていうか。隠し事ないよって意味らしい。俺は別にどっちでもいいけど、美咲はどう思う?」
「私も特に隠すことないし。写真撮る時とか、お互いのスマホ使えた方が便利かも」
そう言うまでに、ほんのわずかな間があった。
「じゃあ、交換する?」
そうして、俺たちはお互いのパスコードを教え合った。
疑いあうためではなく、二人の距離がより近くなった証拠として。
お互いの位置が分かるアプリも、最初は便利だと思って入れた。
待ち合わせの時に迷わないし、帰りが遅い日も安心できるからだ。
それからは、何気なく画面が光った時に目に入ることがあった。
疑っているわけではない。ただ、知らない名前が表示されると、つい気になってしまう。
ある夜、美咲のスマホに『田中先輩』という通知が来た。時刻は夜の十一時過ぎ。
「こんな時間に連絡って、緊急事項?」
「あ、サークルの先輩。たぶん課題のことだと思う」
「課題で夜の十一時?」
俺は少し眉をひそめた。
「男って、用事だけならこんな時間に連絡してこないよ。相手が女の子なら、なおさら」
「そうなの?」
「課題を口実にして、実はもっと親しくなりたいと思ってる可能性が高いな。美咲は優しいから、そういうの気づかないでしょ」
美咲は少し困ったような顔をした。
「でも、悪い人じゃないと思うんだけど」
「悪い人かどうかじゃなくて、勘違いされると面倒だろ?美咲が嫌な思いするのは俺も嫌だし」
「うん。じゃあ、必要最低限にしてみる」
「ありがとう。心配しすぎかもしれないけど、美咲のことが大切だから」
数週間後、田中先輩とのやり取りは自然と減っていった。
美咲なりに距離感を考えてくれたのだと思う。
バイトの件も、俺が気づけてよかったと思った。
「お疲れさま」
バイト先に迎えに行った時、店長らしき男性が美咲の肩に手を置いて話しかけているのが見えた。
美咲は苦笑いを浮かべているが、明らかに困っている様子だった。
帰り道、俺は慎重に切り出した。
「あの店長さん、ちょっと距離近くない?」
「え?そうかな」
「さっき見てたけど、肩とか触ってたよね。美咲、嫌じゃなかった?」
「うーん、フレンドリーな人だから、そういうものかなって」
「いや、それ普通じゃないよ。職場で部下の肩触るって、完全にアウトだって」
俺は真剣な顔で言った。
「美咲は断れない性格だから、向こうもいい気になってるんだ。エスカレートする前に、環境変えた方がいいんじゃない?」
「でも、急にやめるのも」
「美咲が嫌な思いしてまで続ける必要ないよ。他にもバイトはいくらでもあるし、俺も心配で仕方ない」
数日後、美咲はバイトを辞めることにしたと報告してくれた。
「小鳥遊くんが言ってくれなかったら、ずっと我慢してたかも。ありがとう」
安堵したように微笑む美咲を見て、俺の胸も軽くなった。
俺がそばにいることで、彼女が少しでも安心して過ごせるなら、それでよかった。
変な人間に付け込まれる前に守ることが、俺にできる愛情表現だと思っていた。
◇
しかし、ある時期から美咲の様子が、ほんの少しずつ変わり始めた。
最初に気づいたのは、LINEの返信だった。
以前は俺がメッセージを送ってから数分で「了解!」「楽しみ♪」といった感情のこもった返事が来ていたのが、今は一時間、二時間と空くことが増えた。
「さっき何してた?」
「図書館で勉強してました」
「スマホ見てなかったの?」
「集中してて。ごめんね」
文面も変わった。
以前なら「レポート地獄で死にそう」「助けて~」みたいな一言が添えられていたのに、今は報告書のように簡潔だ。
嘘をついているようには見えなかったが、どこか他人行儀で、俺を安心させようとする気遣いが感じられなくなった。
会話も微妙に変化していた。デート中、俺が話している間に、美咲が手元で何かをしていることが増えた。
「何してるの?」
「あ、ごめん。スケジュール確認してて」
手帳を覗き込むと、びっしりと予定が書き込まれている。
以前の美咲は予定なんてほとんどなくて、俺との時間を最優先にしてくれていたのに。
「忙しくなったんだね」
「うん。最近、色々やることが多くて」
「何の用事?手伝えることがあったら言ってよ」
「大丈夫。自分でできることだから」
その「自分で」という言葉に、なぜか少し距離を感じた。
俺が選んだ服への反応も変わった。
「この服、美咲に似合うと思うんだ」
「ありがとう。でも今日は、こっちの気分かな」
断り方は優しいのに、以前のように「小鳥遊くんが選んでくれるなら」と嬉しそうに着てくれることがなくなった。
自分の意見を言えるようになったのは良いことかもしれないが、なんとなく寂しかった。
一番気になったのは、美咲の「間」だった。
「今日、大学どうだった?」
少し考えてから、「普通だったよ」
「誰かと話した?」
また少し間を置いて、「クラスメイトと少し」
まるで、頭の中で答えを整理してから話しているような。
以前なら思ったことをそのまま口にしていたのに、今は一度フィルターを通しているような感覚があった。
俺は焦りを感じ始めた。美咲が俺から離れていっているような気がした。もっとちゃんと見ていないといけないと思った。
「今日、どこにいた?」
「学校」
「授業の後は?」
「図書館で勉強してた」
「何時まで?」
「五時頃まで」
「一人で?」
美咲の表情が、ほんの一瞬曇った。でもすぐに普段通りの顔に戻る。
「うん、一人だよ」
その微細な表情の変化を見逃さない自分に、少し誇らしさも感じていた。
俺だけが気づける、小さなサインだと思った。
質問が増えた。
一つ答えてもらうと、また次の疑問が浮かんでくる。
美咲は答えてくれるが、その表情には以前のような安心感がなかった。
決定的だったのは、ある夜のことだった。
いつものように寝る前の電話をかけた。
何度鳴らしても出ない。
メッセージを送っても既読がつかない。
位置情報アプリを確認すると、なぜか「取得できません」と表示された。スマホの調子が悪いのかもしれない。
でも、不安で眠れなかった。事故に遭ったんじゃないか。
変な人に騙されているんじゃないか。布団の中でスマホを握りしめ、何度も画面を確認した。
翌朝、八時過ぎにようやく連絡が来た。
「ごめん、昨日は早く寝ちゃって」
その一文だけ。絵文字もスタンプもない。
俺はすぐに電話をかけた。
「何で電話出なかったの?すごく心配したんだけど」
「本当にごめん。疲れてて、気づかなかった」
「疲れてても、せめて一言くらい返せるでしょ。『今日は早く寝ます』って。それだけで俺は安心できるのに」
「……ごめんなさい」
「俺がどれだけ心配したか分かる?何かあったらどうするつもりだったんだ」
「分かってる。次は気をつける」
美咲は謝り続けたが、その声には以前のような震えがなかった。
義務的に謝っているような、そんな冷たさを感じた。
「もう大丈夫だから」
最後に彼女が言ったその言葉の響きが、妙に落ち着いていて、俺の知っている美咲とは違って聞こえた。
俺は何か大切なものを失いかけている気がした。
でも、それが何なのか、どうすれば取り戻せるのか、まだ分からなかった。
◇
健太と飲んだ時、彼は俺の話をずっと聞いていたが、途中で少し困ったような顔になった。
「なあ、お前さ。ちょっと美咲ちゃんのこと、心配しすぎじゃないか?」
「心配?」
俺は首をかしげた。
「普通に彼女のこと大切にしてるだけだけど」
「いや、そうなんだけど。でも、この前の高校の同窓会も行かせなかったろ?美咲ちゃん、すごく楽しみにしてたって幹事の佐藤が言ってたぞ」
「ああ、あれか」
俺は納得した顔で頷いた。
「あれはさ、参加者リストを見たら、昔美咲にしつこく告白してた松本の名前があったんだよ。美咲、ああいう面倒な状況になると固まっちゃうだろ?酔った勢いで変なこと言われたら、『大丈夫です』って笑って我慢しちゃうタイプじゃん」
「でも、それって」
「だから俺が『今回はやめとこうか』って提案したんだ。案の定、美咲も『そうだね』って納得してたし。後から『行かなくてよかった』って言ってたよ」
実際には美咲は何も言わなかった。でも、あの時の表情を見れば、俺の判断が間違っていたとは思えなかった。
「その理由、美咲ちゃんに説明したの?」
「しないよ。わざわざ嫌な記憶を思い出させる必要ないだろ。俺が判断して、俺が責任取ればいいんだから」
健太は少し考え込んでから、慎重に言葉を選ぶように話した。
「お前、美咲ちゃんのこと愛してるんだよな?」
「当たり前だろ。何言ってんだよ」
「だったら、もうちょっと彼女を信じてやってもいいんじゃないか。美咲ちゃんだって大人なんだし、自分で判断できるだろ」
俺は思わず苦笑してしまった。
「健太、お前は美咲のこと表面的にしか知らないからそう言えるんだよ。俺は二年近く一緒にいて、彼女がどういう時に困って、どういう時に無理をするか全部分かってる」
ビールを一口飲んでから、俺は真剣に説明した。
「美咲はね、本当に優しすぎるんだ。人に嫌われるのが怖くて、自分が嫌でも『大丈夫』って言っちゃう。断れない性格だし、変な人に付け込まれやすい。だから俺が先回りして、危険な状況を避けてあげる必要があるんだよ」
「でも、それって」
「放置して彼女が傷つくくらいなら、俺が悪者になった方がいい。美咲も、本当はその方が安心できると思う」
健太は何か言いかけて、でも結局深いため息をついた。
「お前がそう思うなら、まあ、いいけど」
「分かってくれた?」
「いや、分かったっていうか」
健太は曖昧に笑って、話題を変えようとした。
その時の彼の表情に、ほんの少し違和感を覚えた。でもそれはすぐに消えた。健太には、俺たちのことは分からないんだと思った。
美咲が最近少し距離を置いているように見えるのも、きっと周りの人間が余計なことを吹き込んでいるからだろう。「もっと自立しろ」とか「束縛されすぎ」とか、無責任な意見を聞かされて混乱しているのかもしれない。
でも大丈夫だ。俺が彼女の本当の気持ちを一番よく知っている。美咲は、俺に守られていることで安心できているはずだ。
俺以外の人間には、美咲の繊細さなんて分からない。美咲のことを一番理解しているのは俺なんだから。
◇
決定的な出来事が起こったのは、それから一週間後だった。
美咲から「実家の母の具合が悪いから」という理由でデートをキャンセルされた。メッセージは短く、いつもの絵文字もなかった。
心配になった俺は、お見舞いの品を持って彼女の実家へ向かった。美咲一人では、きっと右往左往しているだろう。俺が行って、状況を整理してあげなければ。
しかし、インターホンを押して出てきた母親は、エプロン姿で頬に健康的な赤みを差していた。
「あら、○○くん?」
「あの、美咲さんから、お母さんの具合が悪いって聞いて」
母親はきょとんと目を瞬かせた。
「具合?私?全然元気よ。美咲?今日は来てないわよ。あの子、あなたとデートだって言ってたけど」
その瞬間、耳の奥でキーンという高い音が鳴った。
世界の音が一瞬遠のき、母親の声だけが妙にはっきり響いた。
嘘をついている。
あの、何も隠し事ができないはずの美咲が。「ごめんなさい」と謝ることしかできなかった美咲が。
「すみません、ちょっと連絡してみます」
頭を下げて、その場を離れた。喉の奥が渇いていた。
俺は電柱の影で立ち止まり、スマホを取り出した。指先がかすかに震えていて、何度もパスコードを間違えた。
位置情報アプリを開く。
画面に表示された赤いピンは、実家とは正反対の場所を示していた。駅前のカフェ。俺たちがよく行く、あの静かな店だった。
心臓がどくりと大きな音を立てた。
誰かに唆されているんだ。きっと誰かが、純粋な美咲に悪いことを吹き込んでいる。「もっと自由になりなよ」とか「束縛されすぎじゃない?」とか、無責任な言葉で彼女を惑わせているに違いない。
美咲は真面目だから、そういう「正論」に弱い。自分が悪いのかもしれないって、すぐに信じ込んでしまう。
俺がちゃんと見ていなかったから、こんなことになったんだ。もっと早く気づくべきだった。
タクシーを拾い、運転手に行き先を告げた。自分の声が、やけに低く響いた。
車内で、また位置情報を確認する。赤いピンは同じ場所に留まっている。逃げてはいない。まだ間に合う。
「大丈夫。話せば分かる」
自分に言い聞かせるように呟いた。美咲は俺を嫌っているわけじゃない。ただ、周りの声に混乱しているだけだ。俺がちゃんと説明してやれば、きっと分かってくれる。俺がどれだけ彼女のことを思って行動してきたか。
窓の外を流れる景色が、やけに鮮明に見えた。なのに、何も現実味がなかった。
この街の中で、美咲だけが俺から離れようとしている。
その事実だけが、異様にはっきりしていた。
俺は拳を握りしめ、急いでカフェへ向かった。美咲を、ちゃんと守ってあげるために。
## 第七章 対峙
カフェに着くと、ガラス越しに中を見渡した。昼下がりの店内はほどよく埋まっていて、美咲は一番奥の席、壁を背にして一人で座っていた。対面には誰もいない。
胸の奥の警戒心が、ほんの少しだけ緩んだ。俺は少し安堵しながら、彼女の席へ歩み寄った。
「美咲」
俺が声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。その表情を見て、俺は息を呑んだ。
いつものおどおどとした表情ではなかった。表情が抜け落ちたような顔で、まっすぐに俺を見ていた。そこには怯えも戸惑いもなく、ただ冷たい静けさだけがあった。
「どうして嘘をついたんだ。お母さん、元気だったぞ」
俺は努めて冷静に、諭すような口調で言った。喉が乾いて、声が少し掠れるのを感じた。
「ごめんなさい」
美咲は小さく謝った。けれど、その声にはいつものような怯えが含まれていなかった。機械的で、感情の色がなかった。
「誰かに何か言われたのか?健太か?それとも他の誰かか?美咲、騙されちゃダメだ。俺以外の人間の言うことは、無責任な綺麗事ばかりなんだよ」
俺は畳み掛けた。彼女の手を取ろうと手を伸ばす。
しかし、美咲はその手をスッと避けた。
その手は、迷いなく避けられた。その動きがあまりに自然で、かえって恐ろしかった。
「大丈夫だよ」
美咲が言った。その声は穏やかで、落ち着いていて、まるで病人をなだめるようだった。
「もう、大丈夫だから」
その「もう」という言葉の重みに、俺の胸が締め付けられた。
その時、カフェの入口のベルが鳴った。背後に立つ気配がして、俺は振り返った。
カツ、カツ、と革靴の音がこちらへ近づいてきた。俺が振り返るよりも早く、濃紺のスーツを着た男がテーブルの横に立った。
四十代半ばくらいの、細身の男だった。仕立てのいいスーツを着ていて、眼鏡の奥の目は冷静そのものだった。敵意も好奇心もなく、ただ仕事としてここに来ている目だった。
「どなたですか」
俺が睨みつけると、男は表情一つ変えず、胸ポケットから名刺入れを取り出した。
「弁護士の相馬と申します」
男の声は低く、抑揚がなかった。事実だけを淡々と伝える声。一片の温かみもない。
俺の返事を待たず、テーブルの端に名刺を差し出す。
「美咲さんの代理人として参りました」
名刺がテーブルに置かれる乾いた音が、やけに大きく聞こえた。
俺は名刺を受け取ることができなかった。手が動かなかった。弁護士、代理人という言葉が頭の中で空回りしている。
美咲は俯いたまま、何も言わなかった。ただ、テーブルの上で組んだ両手が、わずかに白くなっているのが見えた。力を込めているのだ。感情を押し殺すために。
相馬弁護士は椅子に座ることもなく、美咲の隣に立ったままだった。その立ち位置だけで、もう彼女が俺の手の届かない場所にいることが分かった。
◇
「弁護士? 代理人?」
意味が分からなかった。単語が頭の中で空回りしている。俺は縋るような思いで美咲を見た。彼女は相馬弁護士の後ろに隠れることもなく、ただ静かにそこに座っていた。膝の上で組んだ両手だけが、わずかに震えている。
「どういうことだ、美咲」
彼女の代わりに、弁護士が口を開いた。
「単刀直入に申し上げます。彼女はあなたとの関係を解消し、これまでの精神的苦痛に対する慰謝料を請求することを希望しています」
「精神的苦痛? 慰謝料? 何を言ってるんだ。俺たちは愛し合っている。俺は彼女を守ってきたんだぞ」
俺は声を荒らげた。周囲の客が驚いてこちらを見ているが、構っていられなかった。
「美咲、何か言えよ! 騙されてるんだろ?」
「違います」
美咲の声は、驚くほどはっきりしていた。二年間で一度も聞いたことのない、芯の通った声だった。
彼女はバッグから黒いノートを取り出した。表紙は使い込まれて角が擦れ、何度も開閉されたことを物語っている。それをテーブルの上に置く手つきは、静かだが確固たる意志があった。
「これは何だ」
「私たちの二年間の記録よ」
ノートには日付と出来事、そしてその時の感情が詳細に記されていた。丁寧な字で、時には震える手で書かれたような箇所もあった。
最初のページを見ると、こう書かれていた。
『2023年4月12日。初めてのデート。
自分で選んだ服を褒められたあと、「もっと似合う服を一緒に探そう」と言われた。
断れなくて、彼が選んだ服を買った。
最初は嬉しかった。選んでもらえることを、愛されていることだと思った』
『2023年6月3日。友達と遊ぶ約束をしていたのに、「無理しなくていいんじゃない」と言われて断った。
私のためだと言われると、うまく断れない』
初期の記録には、まだ「嬉しかった」「愛されてる」という言葉が残っていた。
でも、ページをめくるにつれて、その言葉は少しずつ減っていく。
『2023年8月18日。スマホを見られた。
「お互い隠し事なしでいこう」と笑って言われた。
普通のことなのかもしれない。
でも、なぜか背中が冷たくなった』
『2023年10月9日。田中先輩との連絡を減らすように言われた。
「男が親切にするのは下心があるから」と。
確かにそうかもしれない。
でも、課題を聞けなくなって困っている。
私が考えすぎなのかな』
『2024年2月8日。高校の同窓会を欠席した。
「行かない方がいい」と言われて、理由は教えてもらえなかった。
あとで幹事から「急に来られないって言われて困った」と連絡が来た。
私は行きたかった。
でも、彼が心配するなら仕方ない』
『2024年5月25日。バイトを辞めた。
店長のことは少し苦手だった。
でも、自分で考える前に「危ないから辞めた方がいい」と決められていた気がする。
これでよかったのか、まだ分からない』
『2024年6月10日。体調が悪くて寝ていたら、彼がおかゆを作ってくれた。
優しい人だと思う。
こんな人を疑うなんて、私の方がおかしいのかもしれない』
『2024年8月12日。友達に「最近会えないね」と言われた。
確かに、断ってばかりいる。
彼といる時間が増えたから。
「ラブラブでいいね」と笑われた。
そうだと思う。思うのに、少し苦しい』
『2024年11月14日。夜11時に電話に出られなかった。
翌朝、「どれだけ心配したか分かるか」と言われて、長く怒られた。
私が悪い。
でも、なぜこんなに息が苦しいんだろう。
謝っているのに、手が震える』
『2025年1月20日。母に会いに行くと言ったら、「俺も一緒に行く」と言われた。
一人で実家に帰ることもできない。
母に話したら「それは普通じゃない」と言われた。
普通じゃない、という言葉がずっと残っている』
そして、最後のページ。
『2025年3月1日。私は人形じゃない。
私には私の意志がある。私には私の人生がある。
でも、彼といると私は消えていく。
私の好きなもの、私の友達、私の時間、私の感情。
全部、彼のものになっていく。
私はもう、いないみたいだ』
弁護士が淡々と説明を続けた。
「彼女は交際期間中、あなたの言動を詳細に記録し、会話の録音も残しています。行動の制限、人間関係の遮断、人格の否定、経済的自由の侵害。これらは典型的なモラルハラスメントであり、精神的DVの証拠として十分に機能します」
「DV? 俺が? 冗談じゃない。俺は彼女を愛して、守ってきたんだ」
「愛していたのは、支配できる美咲さんであって、一人の人間としての彼女ではありませんね」
美咲が静かに言った。その声は震えていたが、確かな意志があった。
「あなたは私が何も決められないと思っていたでしょう? 違うの。
私が何かを決めようとすると、あなたが全部否定した。
私が何かを決めようとすると、あなたはいつも別の答えを出した。
服を選べば、もっと似合うものがあると言った。
友達と会おうとすれば、無理しなくていいと言った。
バイトを続けようとすれば、危ないからやめた方がいいと言った。
私が少しでも自分で決めようとすると、あなたはそれを上書きした」
美咲の目に涙が浮かんだ。でもそれは悲しみの涙ではなく、長い間押し殺してきた感情が溢れ出る涙だった。
「あなたが私の決定をすべて否定するから、逆らったら何を言われるか怖くて、諦めて従うふりをしていただけ。そうしないと、あなたが不機嫌になって、何時間も私を責め続けるから」
「そんな…俺は、お前のためを思って」
「私の友達を遠ざけたのも、私のため? 私のスマホを監視したのも、私のため? 私の予定を全部把握しようとしたのも、私のため?」
美咲の声が少しずつ大きくなっていく。
「違うわ。全部、あなたのため。あなたが安心するため。あなたが『良い彼氏』でいられるため。私はあなたの不安を解消する道具じゃない」
「でも、お前は『ありがとう』って」
「言わなきゃいけなかったから」
美咲の声が震えた。
「あなたに逆らったら、何時間も説教される。『お前のためを思って』『俺がいなかったらどうするんだ』って。だから私は笑って、『ありがとう』って言うしかなかった。それが一番安全だったから」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見て、言った。
「あなたは、自分より弱い人間を作って、その人を支配することで自分の価値を確認したかっただけ。私があなたに依存していたんじゃない。あなたが、私という『弱い人形』に依存していたのよ」
その言葉は、俺が二年間築き上げてきた世界を、音を立てて崩壊させた。
◇
言葉が出なかった。
「接近禁止命令の申立て準備を進めております。今後、依頼人への直接の接触は一切禁止されます。電話、メール、SNS、待ち伏せ、第三者を介した連絡も含めて、すべて法的措置の対象となります」
弁護士の言葉が、うまく意味にならないまま頭の中を通り過ぎていった。
手のひらが異常なほど汗で濡れている。
足元が崩れる、というのはこういうことかと思った。
俺が守護者で、彼女が被保護者。俺がしっかりしていて、彼女が頼りない。その盤石だと思っていた構図が、最初から俺が一人で作り上げた幻想だったというのか。
記憶が、フラッシュのように頭の中で明滅し始めた。
美咲の「ありがとう」。あれは感謝じゃなかった。
美咲の「任せます」。あれは信頼じゃなかった。
美咲の困ったような笑顔。あれは甘えじゃなかった。
全部、全部、俺から身を守るための演技だった。俺という脅威から逃れるための、必死のカモフラージュだった。
胃の底から何かが冷たく這い上がってくる。吐き気なのか、それとも叫びなのか分からない。喉がひりひりと焼けるように熱い。
「そんな……そんなはずない」
やっと出た声は、自分のものとは思えないほどかすれていた。
自分が信じてきたものが、一気に崩れていった。
崩れた先に残っていたのは、空っぽの俺だった。
息がうまくできなかった。
椅子から立ち上がろうとしたが、膝がガクガクと震えて力が入らない。テーブルに両手をついて、必死に体を支える。木のテーブルが、やけに冷たく感じられた。
席を立ち、去っていこうとする美咲の背中に、俺は縋るように声を絞り出した。
「待ってくれ、美咲!」
その声は、自分でも驚くほど情けなく、悲鳴に近い音だった。店内の客たちの視線が一斉に集まるのを感じたが、もうどうでもよかった。羞恥心すら、どこかに吹き飛んでしまっていた。
「俺は…俺は本当に、お前を守りたかったんだ! 嘘じゃない! 愛してたんだよ!」
言いながら、自分でもその言葉にしがみついているのが分かった。
でも、その叫びは、静まり返った店内に虚しく響いただけだった。
周囲の客たちは、気まずそうに視線を逸らしていた。誰も何も言わなかった。
美咲は一度だけ足を止め、ゆっくりと振り返った。
罵倒されるかと思った。泣き叫ばれるかと思った。憎しみの表情を向けられるかと思った。
だが、違った。
その顔には、軽蔑も怒りもなかった。ただ、もう何も感じていないような、乾いた微笑みだけがあった。
それは、俺が二年間一度も見たことのない顔だった。
その表情が、どんな罵倒よりも、どんな非難よりも、俺の心を完膚なきまでに破壊した。
足から力が完全に抜けた。椅子に崩れ落ちるように座り込み、そのまま前のめりに倒れそうになる。両手で顔を覆った。指の隙間から、ぽたぽたと何かが落ちる音がした。涙なのか、汗なのか、もう分からなかった。
その時ようやく、俺はもう彼女にとって何者でもないのだと分かった。
店内には、気まずそうにこちらを見る客たちと、困惑した表情の店員がいるだけだった。俺の世界から、すべての色が抜け落ちていた。
俺が信じていたものは、全部そこで終わった。
もう、何も残っていなかった。
◇
「守られていたのは、あなたの安心感だよ」
その言葉が、俺の胸に深く刺さった。
美咲は二度と振り返らず、弁護士と共に店を出て行った。
ガラス戸の向こうを歩いていく背中は、まっすぐだった。
俺は、彼女を守っているつもりだった。
でも本当は、守られていたのは俺の方だった。
美咲の「ありがとう」で。
「任せます」という笑顔で。
俺が「必要とされる人間」でいられる安心感を、ずっと彼女に支えてもらっていた。
愛だと思っていたものは、支配だった。
優しさだと信じていたものは、暴力だった。
冷め切ったコーヒーを前に、俺はようやく理解した。
本当に強かったのは、美咲の方だった。
最初から、ずっと。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
この話は、「守る」という言葉が、どこから支配に変わるのかを書いてみたいと思って生まれました。
本人は本気で優しさだと思っている。
でも受け取る側は、少しずつ息ができなくなっていく。
そのズレがいちばん怖いのではないかと思っています。
小鳥遊は、自分を悪人だと思っていません。
だからこそ厄介で、だからこそ美咲は長い時間をかけて記録し、自分の人生を取り戻そうとしました。
読んでくださった方の中で、何か一つでも引っかかるものが残ったなら嬉しいです。
ありがとうございました。




