七. 瀬田橋に我旗を立てよ
元亀四年(1573年)。
三方ヶ原で徳川家康を粉砕した武田軍は、遠江・形部村にて越年した。
一月十日。信玄はさらなる西上を開始する。宇利峠を越えて三河へ侵入し、豊川を渡河。標的に定めたのは、徳川方の三河防衛の要・野田城であった。
信玄はここでも力攻めを避けた。甲斐から呼び寄せた金山掘の職人たちに地下道を掘らせ、城の命脈である水の手を断つ。一ヶ月の攻防の末、二月十六日、野田城は城兵の助命を条件に開城した。
これにより徳川の防衛網は崩壊した。吉田城、さらには家康の本拠・岡崎城までもが武田の牙城に晒される。上洛の道は、今や目前に開かれたかに見えた。
だが、運命は非情であった。
野田城を落とした直後から、信玄は度々喀血を呈し、馬に乗ることすら困難となる。進撃は停止し、武田軍の熱気は冷たい沈黙へと変わった。
長篠城での療養。近習や一門衆の合議を経て、四月初旬、ついに甲斐への撤退が決定する。
薄暗い部屋の褥のなか、信玄は独り、かつて共に戦った者たちの顔を思い起こしていた。
上田原の土となった板垣信方。川中島の霧の中に消えた弟・武田信繁。
「信繁……、信方……。儂は、顕家卿には及ばなかったようだ」
信玄は弱々しく、しかし確かな声で呟いた。
北畠顕家。かつて後醍醐天皇を助けるため、陸奥・多賀城から京の都までを疾風のごとく駆け抜けた若き公卿。彼が掲げたとされる旗こそ、孫子の真髄を記した風林火山の旗であった。
信玄があの旗を掲げた日。そこには北畠顕家のように、圧倒的な速さと武をもって京に上り、乱世を平らげるという壮大な誓いが込められていた。
目を閉じると、遠くの山で不如帰が鳴いているのが聞こえた。あの夏の日、躑躅ヶ崎館の庭で信繁と語り合った時に聞いた声と同じであった。
元亀四年(1573年)四月十二日。
軍を甲斐へと引き返す三河街道の上。武田信玄、波乱の生涯を閉じる。享年五十三。
『大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流』
辞世の句を胸に、信玄は静かに息を引き取った。
瀬田の唐橋に武田の旗を立てるという夢こそ果たせなかった。しかし、父を追い、信濃を平らげ、天下を震撼させたその人生に、一片の悔いもなかったようだ。
甲斐の山々を渡る風が、主を失った風林火山の旗を、いつまでも激しく揺らしていた。
初めてづくしで、ただ歴史をなぞっただけになりました。
”信玄が、孫子の旗を揚げた歴史的解釈”
というアイデア一つで、小説を起こすの無理ゲーだったでしょうか
お読みいただきありがとうございました。




