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四. 川中島の戦い2

永禄四年(1561年)九月十日。

八幡原は深い霧に包まれていた。


武田信玄率いる本隊八千は、妻女山を下りてくる敵を待ち伏せるべく、鶴が翼を広げたような「鶴翼の陣」を敷き、静寂の中で夜明けを待っていた。


だが、霧が晴れ始めたその瞬間、信玄の眼前に現れたのは、妻女山で攻撃を受けているであろうはずの上杉政虎、一万八千の大軍であった。

「車懸かり」の陣を敷き、怒濤の勢いで押し寄せる上杉勢。奇襲を仕掛けたはずが、逆に死地へと追い込まれたのは武田の方であった。


「防げ! 押し戻せ!」


信玄の鋭い下知が飛ぶが、数に勝る上杉勢の猛攻は武田の陣を無慈悲に切り裂いていく。名だたる将たちが泥まみれの乱戦に投じられた。

重臣・諸角虎定が敵陣深くで散り、初鹿野忠次もまた主君を守る盾となって討ち死にした。武田の本陣は、かつてない壊滅の危機に瀕していた。


その最前線で、ひときわ鮮烈に太刀を振るう男がいた。信玄の弟、武田左馬助信繁である。


「ここを死守せよ! 一歩も退くな!」


信繁は血煙の舞う中、獅子奮迅の働きを見せていた。迫りくる上杉兵を次々と斬り伏せ、崩れかける戦線をその身ひとつで繋ぎ止める。だが、押し寄せる敵の波に、信繁の体は確実に削り取られていった。


死期を悟ったか、信繁は激戦の合間に本陣を振り返った。

そこには、毅然と、しかし苦渋に満ちた表情で采配を振るう兄・信玄の姿があった。


「兄上、ご武運を」


信繁は、返り血を浴びた手で、自軍の中央に翻る『風林火山』の旗を指さした。その瞳には、武田の行く末を兄に託す、静かな、そして揺るぎない覚悟が宿っていた。


信繁は再び敵群へと馬を向けた。

「武田典厩信繁、推して参る!」

その叫びとともに、彼は敵の渦中へと消えた。


やがて、妻女山から駆け下りてきた馬場、高坂ら一万二千の別働隊が戦場に到着する。背後を突かれた上杉勢は撤退を余儀なくされ、川中島の激闘は、辛くも武田軍が敵を追い払う形で幕を閉じた。


しかし、戦場に静寂が戻ったとき、得られた勝利の代償はあまりにも大きかった。


「典厩……、勘助……」


血に染まった八幡原に、信玄の絞り出すような声が響く。

武田の副将として兄を支え続けた信繁、そしてこの奇策を献じた軍師・山本勘助。武田家を支える両翼を一度に失った信玄の前に、秋の冷たい風が風林火山の旗を寂しげに揺らしていた。

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