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三. 川中島の戦い1

永禄四年(1561年)九月九日。

深い闇が、信濃の山々を濃密に包み込んでいた。


馬場信房、高坂昌信、そして山本勘助。武田家が誇る三将は、一万二千という大軍を率い、獣道さながらの峻険な山中を音もなく進んでいた。足音を殺し、鎧の触れ合う音すら禁じた兵たちの緊張は極限に達している。


目的は、妻女山に陣を張る上杉政虎の奇襲。

海津城で軍師・山本勘助が献策した「啄木鳥きつつきの戦法」である。一隊が妻女山の敵を叩き、驚いて山を下りた敵を、八幡原に布陣する武田信玄の本隊が挟み撃ちにする――。すべては、宿敵・上杉との決着をつけるための乾坤一擲の策であった。


ようやく辿り着いた妻女山の陣。

夜の帳の中で、そこには数えきれないほどの松明が赤々と燃え盛っていた。ゆらゆらと揺れる火影は山肌を不気味なほど鮮やかに照らし出し、上杉軍の殺気を雄弁に物語っているように見えた。


だが、近づくにつれ、将たちの顔に戦慄が走る。


「……何かがおかしい」


高坂昌信が、手綱を握る手に力を込めた。

そこには、数千の人間が息を潜めているはずの濃密な気配も、繋がれた馬が鼻を鳴らす音すらもない。ただ、風に煽られる火の粉が虚しく舞うばかりであった。


馬場信房が、敵陣の最奥まで駆け抜け、呻くように声を上げた。


「やっ、もぬけの殻か……!」


松明は偽りの灯火に過ぎなかった。上杉政虎は、武田軍の動きを完全に見抜いていたのである。敵軍は、この奇襲隊が山を登るよりも早く、密かに妻女山を下り、霧の立ち込める千曲川を渡り終えていた。


勘助の顔が、火影の中で蒼白に染まった。

隻眼を見開き、八幡原の方向を凝視する。今、あちらにいるのは信玄率いるわずか八千の本隊のみ。一万二千の別働隊がいない今、上杉の全軍が襲いかかれば、主君の命は風前の灯火となる。


「まずい、御屋形様が危うい!」


勘助の絶叫が、静寂の妻女山に響き渡った。


「全軍、走りに走れ! 八幡原へ駆け下り、御屋形様をお守りするのじゃ! 急げ!」


奇策は破れた。

逆転を狙う一万二千の将兵は、夜明け前の闇を切り裂き、主君の待つ死地へと狂ったように駆け出した。

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