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二. 上田原の戦い

天文十七年(1548年)二月。

甲斐の山々は未だ深い雪と氷に閉ざされていた。冷徹な風が吹き抜けるなか、武田晴信は、諏訪、高遠、山内上杉といった諸勢力を次々と撃破し、その勢いは天を突くほどに鋭かった。


甲府・躑躅ヶ崎館の門前。

出陣の儀が執り行われる。晴信が厳かに声を張り上げた。

「御旗、楯無も御照覧あれ!」

「応!」

地響きのような兵たちの咆哮が、凍てついた空気を震わせる。晴信は五千の兵を率い、信濃の地へと踏み出した。


一行は大門峠を越え、上原城にて板垣信方率いる諏訪衆、さらには小山田信有の郡内衆と合流する。総勢八千余。対するは、北信の雄・村上義清。五千の精兵を擁する村上軍は、岩鼻まで南下し上田平に陣を敷いた。


千曲川の支流、産川を挟んで両軍は対峙した。

武田の陣には、無数の「武田菱」の旗指物が冬の陽光に煌めき、異様な威圧感を放っている。

先陣を願い出た真田幸綱を退け、晴信は宿老・板垣信方を先鋒に据えた。栗原左衛門尉、飯富兵部少輔、上原昌辰、小山田信有、そして弟の信繁。武田の誇る精鋭が、一斉に村上勢へと牙を剥いた。


戦いの序盤、板垣勢の攻勢は凄まじかった。村上の前線を紙のごとく切り裂き、敵陣深くへと突き進む。

だが、この勝機が牙を剥く。

「この程度のものか、村上も」

勝ちに驕った信方は、敵前という危地にもかかわらず、あろうことか首実検を始めた。


村上義清はその隙を見逃さなかった。

「今だ! 突き崩せ!」

逆襲に転じた村上勢の猛攻。不意を突かれた板垣勢は瞬時に混乱の渦に叩き込まれる。信方は慌てて馬に乗ろうとしたが、すでに遅い。敵兵の鋭い槍がその胴を貫いた。

武田の双璧の一人、板垣信方、討ち死に。


この一柱の崩落が、武田軍全体を激震させた。勢いに乗る村上軍は、逃げ惑う板垣衆を飲み込み、後続の武田本軍をも突き崩していく。

村上義清の鋭鋒は、ついに晴信の本陣へと迫った。旗本衆が後退を余儀なくされる絶体絶命の危機。


「御屋形様をお守りせよ!」

脇備の工藤祐長と馬場信房が必死の横槍を入れ、辛うじて村上勢を押し戻す。だが、乱戦の中で晴信は二箇所の傷を負い、その鮮血が雪を赤く染めた。


小山田信有ら郡内衆が死に物狂いで奮戦し、なんとか壊滅こそ免れたものの、被害は甚大であった。

板垣信方、甘利虎泰。武田家を根底から支えてきた二人の宿老が、この上田原の地に果てた。才間河内守、初鹿伝右衛門ら、失った将兵は七百を数える。


戦場に夜の帳が下りる。

傷を負い、本陣に座す晴信の瞳には、かつてない悲痛の色が浮かんでいた。

幼き頃より自分を導き、誰よりも己の志を理解していた信方。その大きな支えを失った空白は、あまりにも深い。


吹きつける信濃の夜風が、主を失った板垣の旗を虚しくなびかせていた。晴信は暗闇の向こうを見つめ、ただ一人、沈黙に耐え続けた。

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