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一. 決意

天文十年(1541年)六月十四日。

甲斐と駿河を結ぶ峻険な道、河内路。山々には深い霧が立ち込め、真夏に近いというのに肌を刺すような湿った冷気が漂っていた。

武田信虎は、信濃侵攻からの凱旋の余韻に浸りながら、馬を進めていた。目的地は駿河。娘婿である今川義元と会い、しばしの休息とさらなる策を練るための旅のはずであった。

だが、国境に近い山中で、信虎の眼前に立ちふさがったのは、あろうことか自らの家臣たちであった。

板垣信方、甘利虎泰、そして飯富虎昌。武田の家を支えてきたはずの譜代家臣たちが、甲斐への道を完全に封鎖している。その中心にいたのは、我が子・晴信に他ならなかった。

「……何事だ、これは」

信虎の低く鋭い声が、静まり返った山中に響く。しかし、返ってきたのは静寂と、家臣たちの揺るぎない拒絶の視線であった。

晴信一派による、父・信虎の駿河追放。

家臣たちの支持を失った猛将に、もはや戻るべき居場所はなかった。晴信は一歩も退くことなく、ただ冷徹に父を見据えている。

この瞬間、武田家の第19代家督と甲斐国守護職は、父から子へと、血を流さぬ政変によって引き継がれた。


信虎は、静かに馬首を駿河へと向けた。

去り際、吐き捨てるように、しかしどこか自嘲気味に呟いた。


「書物ばかり読んでおる、愚か者めにしてやられたわ」


その言葉を背に、信虎の姿は霧の向こうへと消えていった。

残された晴信は、父の消えた道を見つめ、静かに呼吸を整える。新たな「武田の世」が、この薄暗い山の中から、産声を上げた。


天文十年(1541年)六月。

甲斐の空は高く、注ぎ込む陽光はすでに真夏の力強さを孕んでいた。躑躅ヶ崎館の庭園には、青々と茂る木々の間を縫って、突き抜けるような鳥のさえずりが響き渡る。


父・武田信虎を駿河へと追放し、国衆たちの動揺を抑え込んだ直後の、奇妙なほどに穏やかな午後であった。


若き新当主・武田晴信は、縁側に腰を下ろし、眩しそうに目を細めて庭を眺めていた。その傍らには実弟の次郎信繁が座り、少し離れた位置には、宿老・板垣信方が岩のように静かに控えている。


「……静かなものだな、信繁」


晴信が呟く。信繁は兄の横顔を盗み見た。父を追放したという拭い去れぬ罪を背負いながら、ようやく手に入れた「己の国」への高揚が、夏の風に混じって流れていく。


「新しく儂の旗を作ろうと思っている」


唐突に晴信が切り出した。

おもむろに懐から取り出したのは、一枚の懐紙である。晴信はそれを広げ、信繁と信方の目の前に差し出した。


「信方、どうだ」


鋭い眼光を向けられた板垣信方が、身を乗り出して紙面を凝視する。そこには、力強い筆致で十四文字の漢文が躍っていた。


『疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山』


板垣は一つ頷き、重厚な声で応じた。

「……孫子でございますな。兵法の神髄、まさに戦国の世を往く武田の進むべき道かと」


晴信は満足げに口角をわずかに上げると、今度は隣の弟に視線を転じた。


「信繁はどうみる」


兄の真意を測るように、信繁はその墨痕をじっと見つめる。風、林、火、山。山に囲まれた甲斐の国から、その理を掲げて外の世界へ打って出ようとする兄の野心が、白い紙面から溢れ出しているように感じられた。


信繁は顔を上げ、静かに問いかけた。


「――兄上。京にお上りになられますか」


その問いが空気に溶けるよりも早く、遠くの林から鋭い声が響いた。

忍び音を過ぎた不如帰ほととぎすが、一一声、夏の訪れを告げるように鳴き捨てて飛び去っていく。晴信は返答を伏せたまま、その鋭い鳴き声の消えた空を、ただじっと見つめていた。

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