後編『英雄はただひとりのために』
街の空気が妙にざわついていた。
風がひゅう、と通り抜けるたび、胸の奥がざわりと揺れる。
「……なにか、来る。」
アリアは立ち止まり、遠く城門の方を見る。
人々が走り去り、店の扉が乱暴に閉じられていく。その流れの中で、ひとり、逆に駆け出した。
――嫌な予感だけは、どうしても無視できなかった。
息を切らしながら城外の道へ向かうと、
そこには、剣を携えたノエルが、ただ一人、風上を見据えて立っていた。
「ノエル様!」
振り返った彼の目はいつもより深く澄んでいて、
覚悟を隠せていなかった。
アリアは駆け寄り、その腕を掴む。
「無茶です……! あなたが一人で行くなんて――
せめて……せめて、私のキスを」
震える声で言った瞬間、ノエルはわずかに目を伏せ、首を横に振った。
「いいえ。私はあなたのキスが目当てで、共にいるわけではない」
静かで、揺らぎのない声。
だけど、その奥には、言葉にはできない想いが沈んでいた。
アリアの胸が締めつけられる。
ノエルは続ける。
「……必ず、守る」
その一言で、アリアの足が自然に彼へ寄った。
「……ノエル様」
呼吸が触れ合うほど近くに寄ったとき、
風が一瞬だけ止んだ。
――ほんの、刹那。
街のざわめきも遠ざかり、
彼の瞳だけが、静かに世界の中心に残る。
アリアはゆっくりと顔を上げ、
祈るように唇を重ねた。
触れるだけの、柔らかな温度。
あまりに短いのに、永く残る。
ノエルがわずかに息を呑む気配。
その一呼吸の間だけ、周囲の時間が薄く伸びたように感じられた。
風が再び戻ってきたのは、
アリアがそっと身を離したあとだった。
「アリア様……?」
アリアは微笑んだ。涙をこぼす代わりに。
「今のは、力のためのキスではありません」
言葉はゆっくりと、でも揺るぎなく。力は確かにノエルへ。だがそれだけでなく。
「必ず、戻ってきてください」
風が二人の間を通り抜け、外套を揺らす。
ノエルは片手でアリアの手を包み込み、
ほんの一瞬だけ、触れられることを許した。
「……ええ。必ず戻ってきます」
どんな約束よりも重い声音だった。
そしてノエルは、アリアに背を向けて歩き出す。
その背中は、恐れではなく――ただ、彼女のもとへ必ず帰る未来だけを見ていた。
丘の空気は張りつめていた。
遠くで雷のような轟きが響き、地面がじわりと震える。
ノエルはゆっくりと歩を進め、足元の土を確かめるように踏みしめた。
風上から運ばれてくる臭気――血と獣と、壊れた魔力の匂い。
「……近いな」
剣を抜くと、細い金属音が空気を震わせた。
その音が合図だったかのように、茂みが裂ける。
ずるり、と影が盛り上がり、
角の折れた魔物が這い出てきた。
片目は潰れ、こめかみには深い裂傷。
討伐隊の剣を受けたはずなのに、それでも進む執念だけが残っている。
ノエルは眉ひとつ動かさない。
魔物が咆哮を上げた。
その声は胸の奥まで揺さぶり、空気を震わせるほど重い。
だがノエルは動かない。
右足を少し後ろに滑らせ、呼吸を整え――
ただ、その瞬間を待っていた。
魔物が地面を砕いて跳んだ。
土と石が爆ぜ飛び、風がねじれる。
巨体の影がノエルを覆う――
「どけぇぇぇッ!!」
怒号とともに割り込んできた影。
レオンだった。
泥まみれで、息は荒く、剣は震えていた。
「殿下……危険です」
ノエルが言うより早く、魔物の腕がレオンを薙ぎ払う。
レオンは吹き飛ばされ、地面を転がった。
辛うじて立ち上がるが、足元は完全に乱れている。
「私が……私が倒す……! これは王族の務めだ!」
血走った目で叫ぶレオン。
だが、魔物はすでに次の獲物を見定めていた。
ノエルが前へ出た。
その動きは速さではなく、
揺るぎのない“覚悟の速度” だった。
魔物が吠え、爪が閃く。
空気が裂け、衝撃で土が舞い上がる。
ノエルは――踏み止まった。
ほんのわずかに体を捻り、
魔物の攻撃を紙一重で受け流す。
次の一撃。
さらに速い。
だがノエルの剣先がわずかに動くたび、
魔物の軌道が微妙に逸れていく。
まるで彼の周囲だけ、
異様な静けさが支配しているかのように。
レオンが呆然と呟く。
「……なんだ、これは……」
理解できない。
強さの質が、自分とは違いすぎる。
魔物が喉を鳴らし、最後の突進を仕掛けた。
地面が陥没し、砂が爆ぜる。
ノエルは低く息を吸い――
一歩、前に出た。
その一歩が、すべてを変える。
剣が閃き、光が走る。
魔物の咆哮が途切れ、巨体がぐらりと揺れた。
遅れて、血の匂いが風に流れる。
次の瞬間、魔物が地面に崩れ落ちた。
衝撃が丘を震わせる。
沈黙。
ノエルは剣を一度振り下ろして血を払うと、
ただ淡々と息を整えた。
「……終わりました」
その声音は、戦いの前と変わらない。
静かで、揺らぎなく、何一つ誇示しない。
レオンは立ち尽くしたまま、言葉を失っている。
ノエルはちらと振り返っただけで、もう彼を見ていなかった。
視線の先にあるのは――一人。
「アリア様……」
小さく呟き、ノエルは丘を降りていく。
彼が戻るべき場所へと。
城下町は夕暮れをとうに過ぎているのに、いつもの夜色には沈みきれず、どこか薄く震えていた。
家々の灯りがぽつ、ぽつ、と灯るたび、まるで住民たちの不安までもが揺らめいて立ちのぼるようだった。
アリアは中央広場の石畳に立ち、両手を胸の前できつく握りしめた。
視線は城門の向こうへ――さっきノエルが消えた暗がりへと吸い寄せられる。
風が通り抜ける。冷たいのに、胸の奥で熱だけが滞っている。
「……ノエル様」
待つと決めたのは自分だ。
でも、ただ立っているだけで、時間が刃物のように肌を細く切っていく。
広場の隅で、店主たちが扉を閉ざしながらひそひそと囁き合っていた。
「本当に出たのかい、あの魔物が……」
「騎士団が向かったって話だけど、足りるのかね」
聞くつもりはなかったのに耳に落ちる言葉たち。
アリアは顔を伏せる。
ノエル様は……一人で向かった。
たった一人で。
あの深く澄んだ瞳に、覚悟を宿して。
胸の奥が、苦しいほど締まる。
夜気がふと変わった。
ざわ、と。街全体が薄氷を踏んだように震えた。
「……?」
誰かが息を呑む音が後ろから聞こえる。
アリアも同じように、胸の高さで呼吸が止まった。
遠く――城門の向こうで、鈍い光がひらりと閃いた。
剣だ。
あれは、ノエルの剣が月光を跳ね返した光だ。
そして次の瞬間、地の底を叩くような咆哮が闇をかき裂いた。
街の灯りが揺れ、誰かが悲鳴を上げる。
アリアは一歩、思わず踏み出しかけて……足を止めた。
行ってはだめ。私は――信じて待つと決めたのだから。
でも、こみ上げる不安が、喉の奥でちりちりと焼けつく。
「ノエル様……レオン様……どうか……」
小さく呟いた声は、風にさらわれて、夜の中に消えていった。
それでも――
その祈りは確かに、門の向こうの彼らへ届くようにと、アリアは手を組み合わせた。
それは、恐ろしく長い時間に感じた。
風が止まり、街の音が遠のき、ただ胸の鼓動だけが耳の内側を叩いていた。
やがて——戦闘音が、ふっと途切れた。
「……ノエル様……?」
アリアは息を飲み、城門の暗闇を凝視した。
足音はしない。声もない。
静寂だけが、薄く張りつめて流れていく。
不意に、あとから遅れてよろめくような影が揺れた。
アリアの胸が跳ねる。
「ノエル様!」
駆け出した足音が石畳に吸い込まれていく。
門の向こうに近づくにつれ、月光に照らされる影が輪郭を持ち始める。
それは——血に濡れた剣を手にしたノエルだった。
ただ姿を見た瞬間、アリアの視界がじわりと滲む。
「ご無事で……よかった……」
彼の胸元まで迫ったとき、ノエルはそっと片手を持ち上げ、制するように触れた。
その手は温かく、微かに震えていた。
「……アリア様。戻りました」
声はかすかだったが、確かな安堵があった。
アリアはこらえきれず、彼の胸元に額を寄せる。
外套越しに感じる鼓動は、確かに、そこに生きて戻ってきた証だった。
ノエルは剣を静かに地面へ置き、空いた手でアリアの肩を優しく抱き寄せる。
「心配を、おかけしました」
「……ええ。とても、怖かったです」
その言葉を聞いた瞬間、ノエルの息がわずかに揺らいだ。
肩越しに、彼が小さく目を閉じる気配が伝わる。
「あなたが……待っていてくださると、信じていました」
それは、戦場では決して口にしなかった本音。
アリアは顔を上げる。
月光がノエルの瞳に淡く映り、彼の静かな強さと、隠していた弱さが入り混じっていた。
「お帰りなさい、ノエル様」
その一言が、彼の胸の奥に深く落ちる。
そしてノエルは、アリアの手をとり、そっと額へ触れさせる。
「ただいま、アリア様」
夜風がようやく戻り、二人の間に溜まっていた張りつめた空気が静かにほどけていった。
ノエルの「ただいま」という声が風に溶けた、その刹那だった。
城門の陰で息を潜めていた人々が、まるで堰が切れたようにざわめき立つ。
「……倒れたぞ! 魔物が……!」
「見ろ! ノエル様だ……! 無事に戻られた!」
最初の叫びは震えていたが、次の瞬間には歓声の波へと変わった。
「ノエル様がやったぞっ!」
「救われたんだ……! 本当に……!」
「すごい……一人で、あの魔物を……!」
誰かが涙声で呟き、誰かが胸に手を当て、誰かが走り寄ろうとする。
押し寄せる民衆の熱気と感謝が、夜気を揺らした。
アリアはノエルの腕をそっと握り直す。
ノエルは一歩前に出て、片手を軽く上げ、人々に落ち着くよう促した。
「皆さま、ご安心を。魔物は……討伐しました」
その言葉は、剣よりも強く、確かに響いた。
途端に、歓声が高く弾ける。
「やっぱりノエル様だ! 英雄だ……!」
「生きて戻られた……ありがとう……!」
ノエルの名前が呼ばれ続ける。
アリアの耳にも届く喜びの渦は大きくて、温かくて、少しだけ胸が痛いほどだった。
ノエルは民衆を見渡しながら、ふとアリアへ視線を戻す。
その目だけは、周囲の熱気とは違う静けさで満たされていた。
アリアは小さく頷く。
――この人は、英雄になろうとしたんじゃない。私に帰ってきてくれたのだ。
そんな確信の火は胸を熱くした。
歓声の渦の中、城門前に砂煙を巻き上げながら数騎の馬が滑り込んだ。
先頭で馬を降りたレオンが声を張り上げる。
「魔物は倒された!」
誇らしげな宣言。
だが――一瞬の静寂。
次いで、民衆の顔に走る戸惑いと、冷たい色。
「……レオン様だ」
「討伐隊から逃げたって本当だったのか」
「なんで今さら来るんだよ」
「英雄はノエル様でしょ?」
ざわめきはやがて、露骨な拒絶の気配に変わる。
レオンの表情が固まる。
否定しようと口を開いたその時――
人混みを押し分けるように、ノエルがアリアのもとへ駆け寄った。
「アリア様!」
その声に、周囲の空気が一瞬で変わる。
「ノエル様だ……!」
「本当に魔物を倒したんだ」
「命の恩人だよ……!」
賞賛の声が次々に上がる。
レオンの存在など、最初からなかったかのように。
アリアが駆け寄ろうとした瞬間、民衆の波が押し寄せる。
ノエルは反射的に腕を伸ばし、彼女を庇うように抱き寄せた。
「下がってください! アリア様が危険です!」
彼の鋭い声に周囲がはっとして道を開ける。
その光景が、レオンの胸に残酷な現実を突きつけた。
――誰も、自分を見ていない。
ノエルはアリアをかばいながら、静かにレオンへ視線を向ける。
「殿下。詳細は後ほど報告いたします。ですが今は……アリア様を安全なところへお連れします。御前、失礼します」
その一言が、決定的に二人の差を描き出した。
レオンの拳が、悔しさに震える。
ノエルはそれ以上見向きもせず、アリアを守るように導いて人混みから離れていく。
歓声と祝福が、二人の背中を押した。
レオンに向けられる声は、もはやひとつもなかった。
石畳の路地に入った瞬間、喧騒が遠のいた。
ノエルはアリアの手を導くように引き寄せ、人影のない場所で静かに立ち止まる。
「……アリア様」
その声を聞いただけで、張り詰めていた心がほどけていく。
「ノエル様……っ」
言葉より先に涙が零れた。
アリアは彼の胸に飛び込み、震える指で外套を掴む。
次の瞬間、ノエルも強く――けれど大切に包み込むようにアリアを抱きしめた。
抱きしめ合う。
その存在を確かめ合うように。
温もりが重なり、互いの鼓動が胸に響く。
――確かに、生きてる。
生きて、帰ってきてくれた。
その事実が身体を通して伝わって、アリアの喉が震えた。
「怖かったんです……ノエル様がもう戻らないんじゃないかって……」
胸元に顔を埋めたまま絞り出すと、
ノエルの腕がさらに強く回された。
「私も……二度とあなたを泣かせたくありません」
低く、震えるほどの声。
「アリア様の声が、手が……ぬくもりが……
こうして触れていると、私もようやく実感できます。
生きて戻れた、と」
アリアの指が、そっとノエルの背へ回る。
彼の鼓動が早い。自分の鼓動も、速い。
「ノエル様……会いたかった……」
その一言に、ノエルの呼吸がかすかに乱れた。
ゆっくりとアリアを離し、涙の跡に触れながら囁く。
「私もです。
アリア様を残して逝くなど……考えたくもありません」
そして、真っ直ぐに見つめる。
「もう離しません。
誰が何を言おうと、私はあなたの側に。
あなたを守るのは――私です」
アリアの胸がきゅうと締めつけられ、また熱くなる。
「……私も、離れません。
あなたの側にいたい。ずっと……」
ノエルは微笑む。静かに、けれど深い決意を滲ませて。
「ええ。
ずっと、一緒です」
二人の距離が近づく。
抱きしめ合った余韻が、まだ体の奥に震えて残っている。
その温もりだけで、世界は尊かった。
魔物の騒ぎから数日。
王都のどこへ行っても――
「ノエル様だ!」「英雄様、見た!?」「かっこよすぎる!」
そんな声ばかりが聞こえてくる。
アリアは屋敷の中庭でお茶を飲みながら、
そのざわめきを耳にして、ふっと微笑んだ。
そこへ――。
「アリア様、来ましたよ」
振り向けば、今日も完璧な身なりのノエルが立っていた。
けれど、アリアを見るとすぐに柔らかく表情がほどける。
「英雄様、今日も人気なんですね?」
アリアがからかうと、ノエルは苦い顔をする。
「……正直、困っています。
誰に声をかけられても、“アリア様のところへ行くので”と断る羽目になりまして」
「わ、私まで有名になっちゃうじゃないですか」
ふくれて見せるとノエルは笑った。
「好きですよ、アリア様。ずっと」
言葉が落ちた瞬間、アリアの心臓が大きく跳ねる。
「っ……不意打ち反対」
ノエルは軽く身を寄せ、
ためらいもなくアリアにキスを落とした。
最初は触れるだけ。
けれど、アリアがそっと目を閉じると、
ノエルは微かに笑って、もう一度深くゆっくりと。
英雄の物語は街のもの。
けれど「帰ってきた」その先は、二人だけの物語だ。二人の甘い日常は続いていく。




