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溺愛テンプレ祭り(※べったべた)  作者: 絹ごし春雨


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前編『英雄はただひとりのために』

 今日は、勇者の剣を光らせ、安全を祈願する”勇者の儀“。王都の民は熱狂していた。第二王子レオンは勇者だ。彼がいるなら王都は安心。



アリアは疲弊していた。アリアは勇者にキスで力を授ける祝福の乙女。しかし、最近のレオンは本当に酷い。


「アリア、時間だ。キスを」

淡々と要求される、義務でしかないキス。


アリアはそっと唇を押し当てる。儀礼通りに。


しかし、勇者の証である聖剣は沈黙したまま。ただの金属にしか見えない。


「最近お前がキスをしても力が出ない」


「お前は、不要だ。婚約破棄だ。

アリア・エヴァンズ」


アリアの世界の音が、一瞬消えた。


 ざわめく群衆の中進み出る影があった。ノエル・ランカスター。第二王子である勇者の従兄弟。彼もまた王家の血を引いている。しかしキスを強要されたことはない。アリアがレオンの婚約者だからかもしれないが。


「もう、いいでしょう」


何か長い間押し殺したものを感じさせる決意ある足音。


「……これ以上、見ていられない」


 ノエルは壇上を歩みきると、迷いなくアリアの脇に立った。

まるで、アリアを支えるように。


「……彼女は、私が保護します」


静かな声が、広場の空気を一瞬で支配する。


「ふん、好きにしろ」


レオンは、鼻を鳴らした。


「立てますか? アリア嬢」


ノエルの手が、そっと差し出される。逃げ道のある、優しい丁寧な手。


アリアは一瞬だけ迷った後、その手を取った。


「……はい」


 胸の奥が酷く傷ついていた。投げやりな自分になりそうなのを、ノエルの手だけが引き戻してくれる。


久しくレオンからは向けられていなかった、懐かしいあたたかさだった。


ノエルはアリアを支えながら、人々の視線を遮るように歩き出した。

ざわめきはまだ遠くで渦巻いているのに、水の底にいるようだ。


「今は、外に出ましょう」

ノエルの声は落ち着いていて、妙に安心感がある。


アリアは小さく頷いた。

喉の奥に詰まったものが、まだ消えないまま痛む。


 広場を離れた瞬間、アリアの肩がまた震えた。

ノエルは気づかないふりをしながら、歩幅をゆるめる。


「……大丈夫です。ゆっくりで」


その言葉に、アリアは息をひとつ落とした。


大丈夫じゃないのに、そう言ってくれる人がいる。それだけが救いだった。


 アリアの足取りはゆっくりだった。

それを乱さぬように寄り添いながら、ノエルは外の空気を吸い込む。


「……本当に、よく耐えましたね」


アリアは歩みを止めた。

ノエルの声色が、ほんのわずかに震えたのを感じたから。


「耐えた…んでしょうか……私は祝福の乙女なのに……役に立たないと……価値がないのに」


言葉が途切れ、涙がこぼれそうになる。


ノエルは、アリアの正面に回り込んだ。


「見ていました……あなたがどれだけ傷つけられたことか。……胸が痛みました」


その瞳は、いつもの冷静さを崩していた。


アリアは目を見開く。


ノエルはすぐに視線を外し、言葉を選ぶように続けた。


「今は、休むほうが先ですね。……失礼」


ノエルはアリアを屋敷に連れて行った。






 ノエルの屋敷に入った瞬間、空気が変わった。


ひんやりとして落ち着いた香り。

広いはずなのに、不思議と圧迫感がない。


まるで――

「ここにいていい」と静かに包まれているようだった。


「こちらへ。部屋を用意させます」


ノエルが歩くたび、マントの裾が柔らかく揺れる。

その背中を見ているだけで、不安が少しずつ薄れていくのを感じた。


けれど同時に、胸の奥がきゅっと痛む。


……私は、役に立たなかったのに。


レオンの「不要だ」が、まだ耳の奥にこびりついて離れない。


ノエルが扉を開け、アリアの方を振り返った。


「ここなら誰にも邪魔されません。安心してください」


その優しい声音に、不意に視界が揺れる。


「……すみません。私……こんな時、どうしていいのか分からなくて……」


ぽたり、と涙が落ちる。ノエルは驚いたように目を瞬いたあと、そっと距離を詰めた。


「どうして謝るんですか。傷ついた時に泣くのは、普通のことです」


「……普通、ですか」


「ええ。あなたが役に立たないなんて、誰が決めたんです?」


ノエルの言葉が、胸に静かに沈んでいく。

息がしやすくなるのに、涙は反対に込み上げてくる。


「あなたは……ずっと頑張っていた。

だから今は、頑張らなくていい」


その瞬間、アリアはもう涙を堪えることが出来なかった。まるで子供のように泣きじゃくる。


ノエルは、ただ静かに寄り添った。


アリアは小さく唇を噛んだあと、かすかに声を落とした。


「……ノエル様。私、もう少しだけ……ここにいてもいいですか」


ノエルはただ、受け入れるように頷いた。


その優しさが、いちばんあたたかかった。


不思議なことに、守られている、と感じるのだ。アリアは自分が救われていると感じた。

 どれほど泣いていたのだろう。

涙はようやく落ち着き、呼吸がゆっくり戻ってくる。


「……失礼いたしました。もう、平気です」


アリアは袖でそっと目元を押さえ、ノエルに向き直った。目は真っ赤だ。


「落ち着きました。……ありがとうございます」


声はかすれていたが、もう震えてはいない。

帰らなければ、と一歩足を引く。


「そろそろ……戻ります。ご迷惑をおかけしました」


そう言って背を向けた瞬間、ノエルの指先が、ほんのわずかにアリアの袖を引き留めるかのように、まるで行って欲しくないと言うかのように触れた。


アリアは振り返る。


ノエルは驚いたように手を引き、浅く息をついた。


「あ……すみません。無理に引き止めたいわけでは……」


いつもの冷静さが崩れ、その隙間から視線が揺れている。


「ただ……あなたが“戻る場所”を失っているのなら、誰もいない部屋に帰っていく姿を、見たくなかっただけです」


「……ノエル様?」


ノエルはゆっくりと視線を下げた。


「あなたに、今すぐ笑えとは言いません。

無理に元気になれとも言いません」


言葉の選び方が、ひどく丁寧で優しい。


「でも……ひとりで泣く必要は、ないでしょう?」


私が、そばにいてもいいでしょう?


言外の声が聞こえてきそうだった。胸の奥が何か知らぬ感情で満たされる。


「……帰りたく、なくなってしまいますね。そんな風に言われたら」


小さくこぼれた本音に、ノエルは目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。


「では……もう少しだけ、ここにいてください」


彼は唇だけで、私のために、と言う。アリアは聞き取れなかったけれど、ノエルの視線がじんわりとした熱を帯びて自分を包み込むのを感じていた。


「今日は、本当にありがとうございました」


アリアはノエルに送ってもらい、自宅に帰った。馬車を降りると、ノエルがアリアを引き留める。


「また、お話してくださいますか?」


 アリアは驚いたように目を丸くした。夜気が肌を撫で、馬車の車輪が遠ざかる音だけが小さく響く。


「……私で、よろしければ」


ようやく絞り出した声は、情けないほど心許ないのに、ノエルはほっとしたように息をついた。


「もちろん、あなたでなければ意味がありません」


その言い方があまりに自然で、あまりに真っ直ぐで。


「……そんな風に言われたら、期待してしまいますから気をつけた方がいいです……」


ノエルは隠しきれないと微笑んだ。


「期待してくださって……構いません」


「……」


「あなたを慰めたくて言ったのではありません。

 “また話したい”と願ったのは……ただ、私の気持ちです」


アリアは息を飲んだ。


ノエルは一歩、彼女に近づく。

触れはしないけれど、指先がかすかに震えているのがわかった。


「今日のあなたを見て……放っておけないと思ったのは確かです。

 ですが、それだけではありません」


月明かりに照らされたその瞳は、夜の色を溶かし込んだように深い。


「私は、あなたを見ていました。ずっと……どうか、覚えておいて」


そこまで言って、ノエルはふっと言葉を切った。

一歩踏み込めば戻れないと、どちらも悟った。


アリアは胸の中でそっと息を整えた。


「……ノエル様。私……またお話ししたいです」


自分でも驚くほど、まっすぐに言えた。

ノエルの表情がわずかにほどけて、深い夜の底に静かに光がともる。


「ありがとうございます。アリア様」


名を呼ばれただけで、胸の奥が温かく満たされていく。


「では……また近いうちに」


丁寧に頭を下げると、ノエルはアリアの手に触れそうで触れない距離で一礼し、馬車へ戻っていった。


扉が閉まる音がしても、アリアはしばらくその場から動けなかった。

頬に残る涙の跡が、夜風に少しずつ冷えていく。


――帰りたくないと思ったのは、きっと今日が初めて。


馬車が遠ざかるきしみを聞きながら、アリアは胸にそっと手を当てた。




 あれからアリアとノエルは何度も会った。初めはまだぎこちなく。次はアリアが借りていたハンカチを返すために。


お互いに会える理由を探していたのだと思う。


だんだん、笑うことが増え、自分から不安を話すようになった。ノエルは、ただ寄り添って聞いてくれた。


ある日、ノエルがティーカップを渡すとき、指先が触れ合った。


「すみません。私……」


ノエルは首を振る。


「アリア様。痛みは急に治るものではありません」


そして静かに続ける。


「…あなたが、触れてもいいと思える日が来るまで。私は待ちます」


胸がじんわりと温かくなり、涙が出そうだった。


アリアの隈が消えた頃、帰り際、ふと立ち止まり、口から言葉がまろびでる。


「……明日も来てもいいですか?」


二人の関係が静かに変わる瞬間だった。





 その頃――レオンは、苛立ちを隠せなくなっていた。


聖剣は相変わらず沈黙したまま。

どんなに力を込めても、刃は冷たい金属のまま光を宿さない。


「……なぜだ。なぜ光らない」


手の中の剣が、まるで自分を嘲笑っているようだった。


側近がひそひそと囁く。


「最近の殿下は……調子が……」

「アリア様を手放してからだと、噂が……」


レオンは歯を噛みしめた。


アリアを手放したから? そんな馬鹿な。


彼女はただの儀式要員。キスで力を渡す祝福の乙女。

それ以上の価値など――ないはずだ。


だが、夜。

誰もいない訓練場で聖剣を握りしめると、否応なく思い出す。


アリアが自分の名前を呼ぶときの、控えめな声。

文句一つ言わず、黙って唇を寄せてきた従順さ。

その温度。


……あれが、ない。


胸の奥にぽっかりと穴が開いたような虚無が広がる。


焦りはそのまま、苛立ちになる。


「ちっ……戻ってこい、アリア」


その低い声は、自分でも情けないと分かっているのに止められなかった。


そしてある日。


とうとう側近の一人が、恐る恐る告げた。


「殿下……アリア様は、最近ノエル様の屋敷に……よく通っておられるとか」


レオンの手から、聖剣が音を立てて落ちた。


「……は?」


心臓が冷える。

そして次の瞬間、顔が熱くなった。


「ノエル……だと?」


自分が捨てたはずのアリアは、

誰かに拾われ、

誰かのもとで笑っているらしい。


レオンは噛みしめた唇に血が滲むほど力を込めた。


「……ふざけるな。アリアは、俺の婚約者だ」


破棄したことを――

自分の口で突きつけたことを――

都合よく忘れたかのように。


剣は冷たく光らなかった。

ただ、レオンだけが焦りに焼かれていた。




 その日、アリアは王宮の外庭園に呼び出された。

理由は「話がある」とだけ。差出人の名前は書かれていなかったが、筆跡を見ればレオンのものだとわかった。


 花の香りが薄く漂う。

青々とした生垣が風に揺れ、鳥の声だけが遠くで響いた。


「来てくれたな、アリア」


レオンは噴水のそばに立っていた。

儀礼服の金糸が陽光を受けて輝いているのに、その瞳には翳りが宿っていた。


アリアは一礼して距離を保つ。


「ご用件を伺えますか、殿下。婚約は滞りなく破棄されたはずです」


「そんなものどうにでもなる。……やり直さないか?戻ってこい、アリア」


「聖剣が応えない。皆、お前が私を選ばないからだと言う」


アリアのまつげが震えた。


「殿下。私は――」


言い終える前に、レオンの手がアリアの腕を掴む。

痛みこそないが、その指先には切迫した力が宿っている。


「おやめください」


その声は、風よりも静かだった。


レオンが振り返る。

いつからそこにいたのか――ノエルが立っていた。


深い青の外套の裾が風に揺れ、落ち着いた眼差しが二人を見つめている。


「アリア様が困っておられると、お気づきになりませんか」


「……ノエル。これは王族の問題だ。口を挟むな」


「いいえ」

ノエルは一歩だけ近づいた。

アリアの側に駆け寄るのではなく、レオンの視線を正面から受け止める位置へ。


「これは“アリア様の意思”の問題です。

殿下の権力とは関係ありません」


レオンの眉が怒りに歪む。


「お前は私に逆らうつもりか?」


「私は、公爵家嫡男として正しいことを申し上げているだけです」


短い沈黙が落ちる。


ノエルの声は静かだったが、決して折れない強さを帯びていた。


「アリア様。……殿下の手を離してもよろしいですか」


アリアの心臓が小さく跳ねた。

名前を呼ぶ声が、優しく、揺るぎなく、自分の味方であると告げている。


アリアはそっとレオンを見る。


「殿下。私は……戻りません」


「なぜだ」


アリアが逆らうなんてとその顔に書かれている。


「私は、私がひとりで泣いていたときに、手を取ってくださった方のもとにいたいのです」


ノエルがゆっくりとアリアの側に歩み寄った。

触れはしない。けれど、彼女が望めばすぐに支えられる距離に。


「殿下。これ以上アリア様を困らせるなら……私は、たとえ相手があなたであっても、立ち塞がります」


風が、庭園をすり抜けていく。

沈黙と共に踵を返す二人。


レオンの中の“喪失”が決定的になった瞬間だった。




 数日後。

王都近郊の森に魔物が出没し、王家主導の討伐隊が組まれた。


本来なら聖剣を扱う勇者であるレオンが前線に立つはずだった。

だが、その姿を見て騎士たちがざわつく。


「殿下、聖剣が……」


レオンの握る聖剣は、まるで鈍った鉄のように光を失っていた。


「気にするな。私が振れば——」


強がって剣を振るが、刃は魔物の皮膚を一寸も切り裂けない。


「……嘘だろう……?」


魔物が吼え、レオンは焦りのまま後退した。

守るべき場所で、力が一切発揮されない。


後方から騎士の声が飛ぶ。


「殿下! 下がってください、危険です!」


熱病のように苛立ったレオンは怒鳴り返す。


「黙れ! 私は勇者だ! 私に従え!」


だがその叫びは、誰にも届かない。

魔物が突進し、レオンは思わず盾を持つ騎士を前に突き飛ばした。


「ひっ……!」


それは決定的だった。

勇者が、味方を盾にする姿を——皆が見た。


騎士に深い傷が走る。

血が草に落ちる音が、ひどく冷たく響いた。


「……殿下……今のは……」


誰も言葉を続けられなかった。


その隙に飛び込んだ別の騎士が魔物を仕留め、討伐は終わった。

レオンの剣は最後まで光らなかった。


その日のうちに、騎士団内で低い声がささやかれ始めた。


「もう……殿下は勇者ではないのでは?」


「聖剣に拒まれている……?」


「祝福の乙女をあれほど雑に扱えば当然だ」


レオンにはその囁きが耳に入っているはずだったが、何も言わなかった。

いや、言えなかった。


彼の名誉は、誰にも守られようがなく、静かに崩れ落ちていく。




討伐隊をすり抜け、大型の魔物が王都に入ったと噂が広がった。


昼下がりの陽はまだ高いのに、街路には薄い影が落ちたように見えた。

誰もが「まさか」と思いながら、同時にどこかで「あり得る」と知っている――そんなざわめきが空気に漂う。


ノエル・ランカスターは、報告を受けた瞬間に外套の裾を翻した。


「城門はまだ破られていないな?」


「は、はい! しかし殿下は……再編成の指揮を――」


従者の声は震えていた。だが、ノエルの歩みは揺れなかった。

踏み出すごとに、決意が硬質な音を立てるようだった。


「街に入られたら終わりだ。」


それは叫びでも高ぶりでもなく、静かに押し沈めた真実だった。


従者が続けて言う。


「……アリア様も、まだ街に……!」


その名が出た瞬間、ノエルの足がふっと止まった。

風が一筋、彼の横顔をかすめる。表情は変わらないのに、沈黙の温度だけが僅かに揺れた。


「……そうか。」


たったそれだけ。

だが、その一言で彼の中の迷いが完全に消えた。


守りたいもの、それがあれば理由は十分。


ノエルは剣の柄に手をかけ、鞘の位置をわずかに整える。

整えたのは武装ではなく、自分自身の重心だった。


「殿下を待つ時間はない。あれが街へ辿り着けば、彼女が――」


言葉は途中で切れた。

代わりに、深い呼吸がひとつ落ちる。


従者が慌てて前に出る。


「お、お待ちください! 単独で向かうなど――!」


「単独で間に合ううちに行く。」


その声音は、淡々としているのに人を押し返す強さを帯びていた。

逃げる覚悟ではなく、守る覚悟を固めた者の声。


遠く、城門の向こうで風向きが変わる。

土埃の微かな匂い――魔物が近い。


ノエルは振り返らずに歩き出す。


「街に踏み込ませない。それだけだ。」

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