最終章『そして、神になる』
学園に入学して、三年が経った。
春の風が枝垂桜を揺らし、白亜の塔の影が石畳を静かに撫でる。
私は、最終学年――三年生となった。
学院の廊下を歩けば、「進路」や「就職」など、未来を語る声があちこちから聞こえてくる。
けれど、私にとってはどれも関係のない話だった。
入学当初からすでに、私はあらゆる卒業要件を満たしていた。
学問、魔術、社交、戦技。全てにおいて特級の資格を与えられた“例外”――それが、私という存在。
それでもこの場にとどまり続けたのは、ただ一つ。
お姉様が、ここにいたから。
学院も、王家も、教会も――
もはや私の進路に“口を出す”ことはしなくなった。
何もしないことが、最善。
それが、彼らが選び取った“無害な正解”だった。
◇ ◇ ◇
「セフィラ。そういえば、もう……とっくに私の背を越えてしまったのね」
昼下がりの中庭で、お姉様がふとそんなことを呟いた。
淡い春の光が、藤の花越しに彼女の頬を優しく照らしている。
「昔は、私の影に隠れてたのに。今じゃ、こうして見上げるようになったわ」
その瞳は柔らかく細められ、どこか懐かしむような温もりがあった。
私は、そんな彼女の前に膝をつき、微笑んで言った。
「でも、心はずっとお姉様の妹よ。私の中では、昔のまま」
アメリアはくすっと笑って、私の髪にそっと手を伸ばした。
その仕草が、いつかの離宮の夜と重なって、胸が締めつけられた。
◇ ◇ ◇
けれど――その瞳の奥には、時折、深く沈んだ影が見える。
あの時と、同じ。
病に伏せ、死にかけていた頃。
何も言わず、すべてを受け入れるように静かに笑っていた、あの眼差し。
今も、その眼差しが、ふとした瞬間に私を射抜く。
彼女は、私が世界を書き換えたことを知らない。
けれど、どこかで“何か”を悟っているような、そんな気配があった。
その視線に触れるたび、私は心を抉られる。
「……もう、大丈夫なのに」
そう伝えたかった。
でも、もしも伝えてしまえば、彼女は私から離れていってしまうかもしれない。
私の“愛”が、どれほど異常で、どれほど重く、どれほど――恐ろしいものかを、彼女が知ってしまったら。
今の私は、かつての“人”ではない。
神に等しい存在となった。
この世のすべてを捻じ曲げ、書き換えるほどの力を手にした。
けれど、そんな私でさえ――お姉様の心ひとつで、どうにでもなってしまう。
いや。すでに、私は壊れていた。
彼女の笑顔ひとつで、私の呼吸が変わる。
彼女の沈黙ひとつで、世界が揺らぐ。
でも、それでも“妹”という仮面だけは、手放すわけにはいかなかった。
それだけが、私と彼女を繋ぎとめている、最後の一本の糸だったから。
「……お姉様。私、ずっと妹でいるから。あなたが望むなら、ずっと」
そう言いながら、私の背後では、呪いが静かに、しかし確実に蠢いていた。
限界は――近づいている。
私は知っている。
いつかこの仮面は、音を立てて崩れる。
そのとき、世界はまた、ひとつ姿を変えるのだろう。
でも、私にはもう“引き返す”という選択肢はない。
私は、愛する人の隣に立つためだけに、“神”にすらなったのだから。
◇ ◇ ◇
季節は再び巡り、三年の時が満ちようとしていた。
春の風は、少しだけ湿り気を含んでいた。
学院の石畳の小道に花弁が舞い、枝垂桜の薄紅が、昼の空に優しく揺れている。
三年生たちは、皆どこか浮き立っていた。
「進路が決まったの」
「王都で就職よ」
「婚約者に迎えに来てもらう予定なの」
――卒業という季節は、いつも別れと始まりを連れてくる。
だが、私はどこにも行くつもりはなかった。
王家も、学院も、教会も。
私の進路を“決める”ことなど、とうに放棄している。
彼らは理解していたのだ――私を導こうとした者たちが、どうなったかを。
そして、いまや彼らの共通認識はただ一つ。
「セフィラ様のご意思が、世界の意志です」
◇ ◇ ◇
そんな春の午後。
談話室で、お姉様と並んで座っていたときのことだった。
薄く開けた窓から風が入り、紅茶の香りがカップの縁を包む。
光がレースのカーテンを透かし、床に柔らかな影を落としていた。
その静かな空気の中で、ふいに彼女が言った。
「そういえば……セフィラが卒業したら、どうしたいのかって、私、ちゃんと聞いたことなかったかも」
私は、手の中のカップを落としかけた。
ただの会話。妹の将来を案じる、自然な問いかけ。
けれど――私にとって、それは触れてはならない“地雷”だった。
卒業。未来。別れ。
その口から、“私と離れる可能性”が語られた。
――それだけで、世界がぐらついた。
私はそのまま立ち上がり、彼女の手をそっと取った。
「……少しだけ、付き合ってください」
次の瞬間、空間がきしむように歪み、転移術式が発動する。
◇ ◇ ◇
辿り着いたのは、私の離宮だった。
湖畔に佇む白亜の館。
光を弾く水面と、風に揺れる銀葉の並木道。
空気そのものが、私の魔力で精密に制御された聖域。
「お姉様。今日からここで暮らしてください」
アメリアは、一瞬だけ目を見開いた。
「……セフィラ、これは……?」
「卒業までの間だけでも。自由に過ごして。何が欲しいか言ってください。何も要らないなら――私がすべて、整えます」
彼女は驚きと困惑を浮かべたまま、それでも静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
それからの日々。
お姉様は外の世界と切り離されたまま、私の離宮で暮らした。
私は毎日、彼女のもとに通った。
けれど、「好き」とは一度も言わなかった。
私の愛は、言葉ではなく、“かたち”で示すものだった。
彼女の髪を結い、好みの紅茶を淹れ、雨が降りそうな日は膝掛けを持っていった。
彼女が読みたがっていた本を魔導図書館から取り寄せ、好きな花を温室に咲かせた。
ただ隣に座っているだけで、心が安らぐような時間を差し出し続けた。
私は“妹”ではない。
ただの“同居人”でもない。
――これは、花嫁への奉仕。
彼女の微笑み一つひとつが、私の心を焼くように愛おしかった。
◇ ◇ ◇
アメリアお姉様は、戸惑っていた。
“受け入れていない”のではない。“受け止めきれない”。
かつて、彼女は自分が死ぬ運命にあると信じていた。
だから私の気持ちに向き合わないようにしていた。
でも今――妹として育てたはずの少女が、
神に等しい力を持ち、彼女を囲い、尽くし、見つめ、触れる。
その眼差しが、“妹”のものではないと、彼女は分かっていた。
それでも、彼女は逃げなかった。
困ったように笑いながら、私の額に手を当てて、冗談めかして言った。
「熱があるんじゃない?」
私は、ただ黙ってその手に頬を寄せた。
何も言わずに。ゆっくりと、そっと。
――その沈黙が、答えだった。
◇ ◇ ◇
周囲の使用人たちも、何も言わなかった。
「ついに、この時が来たのだな」
「神の采配であるなら、従うまで」
彼らは私に接するのと同じ敬意を、お姉様にも向けた。
誰ひとり、逆らおうとは思わなかった。
彼女の姿を見た者は、皆、息を飲み、膝を折った。
それが、“神の花嫁”となる者の重みだった。
◇ ◇ ◇
そして――卒業式当日が、来た。
空は澄みわたり、風は青く、鐘の音が遠くで鳴っていた。
だがその裏で、もうひとつの準備が静かに進んでいた。
私は、学院の式典の陰で、自ら編み上げた因果術式を重ね、
今日という日を、“婚姻の日”に書き換えた。
誰にも邪魔はさせない。
この儀式は、絶対だ。
◇ ◇ ◇
アメリアお姉様は、今。
大聖堂の控え室にいた。
白のドレスを身に纏い、まだ仮の姿として、化粧は薄く、髪は簡単にまとめられている。
紅茶の湯気が、静かに揺れていた。
彼女は窓辺に腰をかけ、ひとりで外を見ていた。
花嫁としての装い。
けれど、その背中には――まだ、“迷い”が残っていた。
──私は、扉の前に立っていた。
白銀の彫刻が刻まれた重厚な扉。
その向こうには、私のすべてがいる。
掌に汗が滲む。指先が震える。
この手が、世界を壊してきた手だとは信じられないほど、いまはただ、ひとりの人に触れることだけを願っていた。
そっと、ノックをする。
コン……と控えめな音が空間に溶けた次の瞬間、静かに扉が開いた。
そして、彼女がいた。
銀糸のドレス。微かな化粧。編み上げられた柔らかな髪。
完璧ではない、けれど、あまりにも美しい――花嫁としての、彼女。
私の姿を見つけたその目が、わずかに揺れ、そして優しく緩んだ。
私は、声をかける。
「……お姉様。準備は、整っていますか?」
その言葉を聞いた瞬間、彼女はふっと目を細め――笑った。
けれどそれは、いつもと少し違う笑い方だった。
癖のように口元を緩める、あの穏やかな微笑みではない。
もっと深く、もっと根っこから突き上げてくるような、こらえきれなかったものが滲み出るような笑顔。
私は、それを見た瞬間、言葉をなくした。
ただ、その場で立ち尽くしたまま、胸が熱くなっていくのを感じていた。
喉の奥が焼けるように熱くて、それなのに、嬉しくて仕方がない。
私は、一歩踏み出した。
そして、手を差し出した。
細く、長い指先。
この手で何度、世界を壊し、塗り替えてきただろう。
だけど今はただ、あなたに触れるためだけの手。
彼女が、私の手を取ってくれる。
触れられた瞬間、心臓が跳ねた。
それは、神の奇跡ではない。私という存在の、すべての因果が報われる瞬間だった。
その温もりを掌に受け止めながら、私は静かに言葉を紡いだ。
「……お姉様は、本来なら、数年前に死ぬはずだったんです」
私はその言葉を、まるで祈るように、そっと囁いた。
花嫁控室。白百合の香りが静かに満ちたその空間は、あまりにも清浄で、現実味が薄れていた。
目の前に座るアメリアは、淡い銀糸のドレスに身を包み、穏やかに紅茶を口にしていた。
彼女の美しさは昔と変わらない。
それでいて、どこか老いすら寄せつけず、それでもその瞳の奥には「終わり」を見ているような、静かな諦念があった。
だから、私は伝えなければならなかった。
ようやく言葉にできる、今日、この瞬間に。
「呪いの因果が、ずっとお姉様を蝕んでいたんです。ゆっくりと、静かに。でも、確実に……。だから私は、それを壊しました」
あの夜のことを思い出す。
苦しそうな寝息。
夜毎に衰弱していく肌。
目を閉じるたびに見えていた、悪夢のような未来。
私は、恐れていた。
失うこと。
触れられなくなること。
名前を呼ぶたびに返ってくる声が、いつか途切れることを。
だから私は、理を壊した。
「だって、お姉様が死ぬ世界なんて……間違ってるじゃないですか」
私にとって、それはあまりにも当然すぎる理屈だった。
けれど、言葉にして初めて気づいた。
この手の中にあるものが、世界の秩序そのものだということに。
「覚えてますか? あの離宮で、私が初めて“お姉様”と呼んだ日のこと」
あの頃の私は、壊れていた。
人形のように命令に従い、感情を知らず、心を持たなかった。
でも――
あなたが、私に名前を与えてくれた。
「初めて名前を呼ばれたとき、心臓がちゃんと動いた気がしたんです。あの瞬間から、私、やっと“生きている”って思えたんです」
それは、世界が始まる音だった。
名前を呼ばれるたびに。
手を引かれるたびに。
声をかけられるたびに――私は、生きていた。
「お姉様の声、手、眼差し……全部、私の最初で最後の宝物でした。
名前を呼ばれるたびに、細胞が震えて、脳が焼けるみたいに嬉しくて。
ずっと、それを繰り返してほしかったんです」
この想いは、正しくなんかない。
でも、止めることもできなかった。
「お姉様が触れた毛布は、肌の温度を保てるよう魔術で封じて、毎晩包まって眠ってました。……笑わないでくださいね?」
笑われても、よかった。
でも彼女は、笑わなかった。
ただ、まっすぐ私を見つめてくれた。
「お姉様の匂いも、声も、足音も、寝相も、紅茶の好みも。……世界が全部消えても、それだけで私は生きていける」
私は、ずっと渇いていた。
愛されることに、飢えていた。
「でも……だんだん、足りなくなってきたんです」
庇護の手。妹を見るまなざし。
それが、“妹”の枠を越えないことに気づいてしまってから。
「私は、お姉様の“可愛い妹”でいたいだけじゃない。
もっと深く、もっと強く、もっと――あなたの中に、残りたかった」
眠っているあなたに、何度もキスをした夜。
「ごめんなさい。指先も、髪も、唇も、抱きしめたかった。お願いされてじゃなくて、私から……触れたかった。……でも、それじゃ駄目だって、我慢してました」
けれど、お姉様は、いつも「終わり」を見ていた。
それが、どうしても許せなかった。
「だったら、世界の方を壊せばいい。
お姉様が死ぬ未来なら、未来ごと燃やして、私が書き換える。
神が許さなくても、誰も認めなくても――それで、お姉様が生きられるなら、私は何度でも、世界を壊す」
私は、全ての理を捨ててでも――あなたを選んだ。
「だから……お姉様。ねえ……今度は、私を、欲しがってもらえませんか?」
この十年分の、歪で、激しくて、正しくなんてなかった愛情を。
今、すべてここに差し出す。
──怖かった。
それでも、私は彼女に、すべてをぶつけた。
「……あなた、こんなに……ここまでして……私のために?」
その言葉を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
「嫌いになりましたか……?」
震える声。自分でも驚くほど、か細かった。
「呆れてるわよ。心底、ね」
心が沈む。やっぱり、駄目だったのかと、思ったそのとき――
彼女の腕が、私をそっと抱きしめた。
「……でも、それ以上に、嬉しいわ」
世界が反転した。
「だって、ここまで好きになってくれるなんて……滅多にないもの」
「……お姉様……?」
「ねえ、ここまで好きになってしまったの?」
もう、限界だった。
「はい。好きです。好きなんです。ずっと、ずっと……大好きなんです、お姉様」
嗚咽のように、繰り返し、繰り返し、愛の言葉が漏れる。
「なら……もう、結婚しましょう?」
「……え……?」
「私は……もうとっくに、あなたのこと、愛してるわよ」
すべての感情が、一瞬であふれた。
涙が、頬を伝う。
そして、私はその腕の中で泣いた。
すべてを壊して、すべてを捧げて、やっと得た幸福の中で。
それは、神の涙ではなかった。
ただの、ひとりの少女が。
十年分の、どこまでも歪で、真っ直ぐで、誰より純粋な愛情に、報われた瞬間の涙だった。
お姉様の手が、私の頭を撫でる。
ずっと、恋い焦がれてきた、その優しい手。
「まったく……ここまでされたら、もう逃げられないわね」
その言葉に、私は震えながら答えた。
「逃げないでください……ずっと……私の、そばにいてください……」
「ええ。私の可愛いセフィラ」
そして――
彼女の唇が、私の唇に、そっと重なった。
それは祝福でも、慈愛でもない。
ようやく結ばれた、たった一度きりの、本当の愛の約束。
私の心も、魂も、世界そのものも、
すべて、この人のために在ると――その瞬間、確かに知った。
◇ ◇ ◇
──神が、たったひとりの人間を愛した。
それがこの世界の新たな神話の始まりになるのだとしても、私にとっては、ただの真実にすぎなかった。
私は、たったひとりの少女。
ただ、アメリアお姉様を、誰よりも、何よりも、心の底から――愛した。
それだけ。
それだけで、私は神になった。
帝都最大の大神殿。千年の歴史を誇る聖域。
天を突くような白亜の尖塔に囲まれたこの場所は、古より神の祝福を受けし地とされてきた。
その中心。誰も立つことを許されぬ“神域”の祭壇の上で、私は静かに立っていた。
重く荘厳な鐘の音が、大理石の柱を震わせる。
天蓋の隙間から差し込む光は、まるで天界から注がれた祝福の矢のように、私の身体を貫いていた。
その瞬間、私はこの身が燃え上がるのを感じた。
喜びで。畏れで。
何より、今この瞬間が夢ではないことへの――感謝で。
祭壇の左右には神官たちが整列していた。
誰もが膝を折り、神託を受けるかのように頭を垂れている。
背後の席には、帝国の中枢を担う貴族たちが並んでいた。
誰もが声を失っていた。
私を、神として見ていた。
けれどそれ以上に、私という“少女”の愛の成就に、ただ圧倒されていた。
──神が、人を娶る。
この瞬間、世界は震え、再び形を変えた。
けれど、誰一人それを拒まなかった。
誰も否定しようとはしなかった。
「神が“このひとりの人間だけ”を愛してくださるのならば、
この世界はきっと、永遠に穏やかだ」
誰かがそう言った。
それは祈りであり、祝詞であり、祝福だった。
私は、目の前に立つ彼女――アメリアを見つめた。
白銀に輝く衣装。清らかに結い上げられた髪。
そしてその瞳。
変わらなかった。
あの日、崩れかけた噴水の前で、私の頭を撫でた時と、同じ眼差し。
今、私は神になった。
でも、彼女は、それでも私を見てくれる。
まるで、昔と変わらないまま。
──私は、神であっても、ただのセフィラでいい。
「お姉様」
私の声が響く。
この空間を支配する“力”としてではなく、ただの“音”として。
彼女が微笑み、優しく頷いた。
その顔を、私は忘れない。
この先、世界が何万年を積み重ねても、私はこの瞬間だけを記憶し続ける。
私は、彼女の指に、ゆっくりと指輪をはめた。
それは、神の贈物ではなかった。
人としての。
恋するひとりの少女としての。
永遠を誓う証だった。
私の身体から、柔らかな金の光が舞い上がる。
神性が、彼女の指先を包み込む。
でも、もうそれに意味はない。
私はただ、アメリアに触れたかっただけなのだ。
アメリアの唇が動く。
「セフィラ」
たったそれだけの言葉に、私は涙が出そうになる。
私は何も言えなかった。
唇が震え、声にならない。
ただ、頷く。
それだけで、世界が満ちる気がした。
彼女の手が、私の頬に触れる。
そのぬくもりに、私はようやく、神ではなく“人間”に戻れた気がした。
──世界の理が、今、塗り替えられる。
神と人。
少女と少女。
ふたりの誓いが、永遠となった瞬間だった。
◇ ◇ ◇
私たちが暮らしているこの屋敷は、帝都の喧騒から少し離れた、緑豊かな丘の上にある。
以前、お姉様を閉じ込めていた離宮とは違う。
ここには鍵も柵もない。けれど誰も立ち入れない。
この土地全体が、“不可侵の神域”として保護されているから。
私はこの場所を、すべてお姉様のために整えた。
陽の光がよく入る窓辺、彼女の好きな種類の花が咲き続ける庭。
本棚には、かつて読みたがっていた本の初版本。
キッチンにも、寝室にも、ささやかだけれど丁寧な幸福が詰まっている。
お姉様は時折、自分の手で朝食を作ってくれる。
私はそれを一口頬張るたびに、胸の奥が温かくなるのを感じる。
かつて世界を壊した私が、
いま、愛する人の作る卵料理に心を揺らしている。
それが、ひどく不思議で、尊くて――愛おしい。
私たちは、完全に引きこもっているわけではない。
お姉様が本を欲しがれば、一緒に街へ出かける。
小さな帽子をかぶって、手をつないで市場を歩く。
誰も声をかけてはこない。ただ、皆が静かに頭を垂れるだけ。
その視線のすべてを、私は忘れているふりをして、
お姉様の欲しがる品を見つけることに集中する。
今日の朝も、陽は優しく、風は穏やか。
私は一階の花瓶に白百合を活けながら、上階の書斎から響く紙の音に耳を澄ませていた。
──お姉様、またあの本を読んでいるのね。
先日、買ったばかりの年代記。私たちの結婚が記された、あれ。
『西暦2312年。神格セフィラ・ナハト・エルディシアと、公爵令嬢アメリア・ヴェルトの婚姻が、帝国史に正式に記録される。
この日を境に、“世界の理”が書き換えられたとも言われている──』
――『帝国年代記・改定第四巻』より
私は、そっと微笑んだ。
あれほどの愛を注ぎ、奇跡を起こしたつもりだったのに、
歴史の一文に収められてしまうと、なんだか、とてもちいさく思えてしまう。
けれど。
その一文が、あなたを生かし、あなたを私のもとに残してくれたのなら――
私は何度でも、歴史に名前を刻み続けよう。
「お姉様」
私は階段を上がり、書斎の扉をノックもせずに開ける。
本を閉じたお姉様が、朝の光のなかで、ゆるやかに振り返った。
「今日は、いいお天気ですから。お散歩に出ませんか?」
白いワンピースに、ほんの少し花の香り。
花瓶に残っていた最後の白百合を胸元に挿しながら、
私は、彼女のもとへ歩いていく。
お姉様は静かに立ち上がり、私の手を取ってくれる。
その手は、昔より少し細くなっていたけれど、
温かさは、まったく変わっていなかった。
屋敷は、ふたりで暮らすには少し広い。
でも、私にとっては、世界でいちばんちいさな、
そして、永遠に広い場所。
神と人。
少女と少女。
愛と祈り。
ふたりきりの箱庭で、私たちは今日も生きている。
私と、アメリアと、
そして、この静かな祝福の中で。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました!
『死ぬはずだった悪役モブ令嬢(16歳)、婚約者(8歳)の愛が重くて死に損ねました』
そのセフィラ視点のサイドストーリー、これにて完結です。
正直、おねロリ百合のサイドストーリーとして書き始めたのに、
まさかここまで“神”とか“因果改変”とか“世界を書き換える狂愛”になるとは……自分でも驚いてます(笑)
ほんのり切ない箱庭エンドを目指していたのに、
気づけば花嫁に指輪をはめていた。どうして……?
でも、彼女たちにとって、これはたしかに幸福のかたちでした。
そう信じて、筆を置きます。
──さて。ここからは少し雑談です。
実は、他の登場人物から見た“セフィラとアメリアのふたり”も描いてみたいなと構想中です。
・学園編(別視点)
・箱庭編(第三者目線)
……でも正直、ネタが迷走してるので、気長にお待ちください。
あと、次はまったく別のジャンルで社会人百合描きたいな〜とフラフラしてます。
描きたい百合が日替わりで変わるんです……すみません……。
それでも、「また読んでみたいな」と思っていただけたら嬉しいです!
そしてもし、ちょっとでも気になってくれた方は、
こちらの作品もぜひ!
「女官リセル、冤罪で死罪寸前!?助けてくれたのは無口な女騎士でした」
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全8話+後日談3話、完結済の歴史×陰謀×百合。
たった一人に手を差し伸べられる奇跡、よろしければ。
ではでは、また次の物語でお会いできますように!
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
──心からの愛と、祈りをこめて。