第三章『“妹”としての仮面』
私が学園に入学したのは、十六歳の春だった。
その日、登校初日。
王都の空は雲一つなく澄み渡り、太陽は煌々と輝いていた。
そして――私は、校門をくぐった。
褐色の肌は艶やかに光を返し、白銀の髪は陽の光を反射して揺れた。
その瞳は、昏く煌めく黄金。見る者すべてを射抜く、夜明けの星のようだった。
制服に包まれたその姿は、あまりにも“神々しすぎた”。
通学路を歩く生徒たちが、一斉に足を止める。
息を呑み、視線を逸らす者。
何も言えず、ただ震える者。
魔術的圧を無意識に浴び、膝をついた者さえいた。
――神が、歩いていた。
そう錯覚してもおかしくない異様な気配が、私の周囲に渦巻いていた。
そして、学園の門で待っていたのは、アメリアお姉様だった。
彼女はすでに二十四歳。
その佇まいは、若き貴族令嬢というより、“聖職者”のようだった。
深紅の教員用ローブに、金糸の装飾。
淡く波打つ亜麻色の髪は首元でまとめられ、瞳は落ち着いた琥珀色。
だが、何よりも――その微笑みが、誰よりも柔らかく、あたたかかった。
「よく来たわね、セフィラ。入学、おめでとう」
その声を聞いた瞬間、私は空気を吐き出した。
私にとって、この場所は“学園”ではない。
世界に与えられた舞台。
お姉様の隣で、生きるための場所。
アメリアお姉様は、王命によって臨時教員として招かれた。
だが、実際にその椅子を用意したのは、私。
住まいも、待遇も、書類手続きも――すべて、私の手で整えた。
周囲がどう思おうと、関係ない。
彼女が、私の傍にいてくれさえすれば――それだけで、よかった。
お姉様は、以前と変わらぬ態度で接してくれる。
私を甘やかさず、必要なときには叱ってくれる。
けれどその瞳には、常に優しさがあった。
それが、どれほどの救いだったか――
初登校の朝、制服の襟を整えてくれた彼女の手の温もりを、
私は今でも、忘れられない。
◇ ◇ ◇
学園生活は、私にとってただの“日常”だった。
授業は容易く、試験は退屈だった。
それでも学び続けたのは、理由がある。
お姉様が、見てくれるから。
冬の講堂。
石造りの壁が冷気を反射し、吐息が白く散る。
試験の最終日。重たい沈黙の中、筆の音だけが響いていた。
私は静かに答案を完成させ、魔力による封印符で表紙を閉じた。
その瞬間、教壇に立つ担当教師が、顔を強張らせながら一歩、身を引いた。
誰よりも早く立ち上がった私に、誰も声をかけようとしなかった。
「……ご苦労さまでした、セフィラ様」
低く、祈るような声でそう告げた教師は、頭を深く垂れて私を見送った。
教室を出ると、廊下の空気はわずかに柔らかかった。
世界が私の背後で、静かに息を潜めていた。
◇ ◇ ◇
結果は、その日の夕方に張り出された。
木製の掲示板に並んだ成績表。誰もが緊張した面持ちで見つめていた。
私の名は、最上段にあった。
“主席:セフィラ・ナハト・エルディシア”
張り出された瞬間、周囲の空気が止まったようだった。
誰も驚かなかった。誰もが納得していた。ただ、畏れていた。
私の隣に、アメリアお姉様が歩み寄ってくる。
「今期も主席ね。ほんとに立派になったわ、セフィラ」
その一言だけで、世界のすべてが満ちていく気がした。
私は、アメリアお姉様の横顔を見下ろした。
その瞳は、あの日と変わらない優しさを宿していた。
けれど私は、もう“ただの少女”ではない。
あの日、あの夜、世界を書き換えたその瞬間から――私の“存在”もまた、定義を失った。
なのに、お姉様だけは、私を変わらずに見つめてくれる。
「……ご褒美、欲しいな」
わざと少し口を尖らせて言うと、彼女はくすりと笑った。
「困った子ね。何が欲しいの?」
――“あなたが欲しい”。
けれど、それはまだ、言ってはいけない言葉だった。
だから私は、少しだけ寂しげに、微笑んでごまかした。
「……久しぶりに、読み聞かせがいいな」
「ふふっ、子供みたい」
そう言いながらも、彼女は断らなかった。
私が何を願っても、拒まなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
私の部屋に、アメリアお姉様が古びた小さな絵本を抱えて現れた。
窓の外では雪が降り始めていた。
白い帳が世界を包み、音を吸い込んでいく。
私は膝を抱えてベッドに座り、彼女はその隣に腰を下ろす。
頁をめくる指先。柔らかい声。
その穏やかな響きが空気を満たすたび、私は心の奥が震えるような感覚にとらわれた。
ああ――今夜もまた、この声に救われてしまう。
「……もう少し、こうしていてもいい?」
囁くように言うと、彼女は小さく息を吐きながらも、そっと頷いた。
「仕方ない子ね……少しだけよ」
それだけで、私はどれほど満たされただろう。
⸻
けれど、その満たされる感覚の隣で、胸の奥には、いつも黒い熱が渦巻いている。
もっと触れたい。
もっと、近くにいたい。
もっと――私だけのものにしたい。
私の身体の奥に流れる呪いの核が、疼くように告げていた。
この手で書き換えた世界
神を殺して得た未来
たった一人を、愛するためだけに築いた舞台
なのに、どうして、まだ飢えているのだろう。
私は、まだ“人”のかたちをしている。
けれどその奥では、もうとっくに――それすら超えていた。
だからこそ。
この手を伸ばしてしまいそうになる。
愛しい人の眠る夜。
その温もりのすべてを、壊してしまいそうになる衝動に――私は、祈るように、歯を食いしばった。
(あと少し……あと、もう少し……)
いつか、あなたがその扉を自ら開いてくれる日まで。
私は、待つ。
その夜も、夢のなかでアメリアは、私の名を呼んでくれた。
ただそれだけで、私は――生きていけると思った。
◇ ◇ ◇
そんな私たちのあいだに、割り込もうとする者たちがいなかったわけではない。
入学して間もない頃、高位貴族の子息が軽薄に私へ声をかけてきた。
彼は、“ただの少女”に近づいたつもりだったのだろう。
だが、数語を交わした直後――彼は地面に崩れ落ち、絶叫を上げた。
その場にいた者たちは、皆、凍りついた。
「神に触れてはならない」
その瞬間から、学園には暗黙の掟が刻まれた。
アメリアお姉様を“窓口”にしようとした教官もいた。
裏では賄賂と女に塗れた、噂の絶えない男。
数日後、その一家は破滅した。
財産は奪われ、屋敷は焼かれ、家族は各地に散った。
遠縁にすら呪いの余波は届き、事故、病、行方不明。
まるで“何か”に呪われたように。
――皆が理解した。
「愛された者の傍に、近づくな」
お姉様は、私だけのもの。
私の領域に踏み入る者は、すべて――排除される。
けれど、奇妙なことがあった。
この学園には、“いない”者が、あまりにも多すぎた。
たとえば――
本来、次代の宰相候補と目されていた公爵家の長男。
優秀で、人徳にもあふれたと噂された青年。
けれど彼は、幼少期に家の立場を突然喪い、
今は遠方の僻地へと左遷されているという。
私は知っている。
その弟は、かつてアメリアお姉様の教え子だった。
――私は、あの子に嫉妬した。
だから、親の財政に“呪”を植えつけた。
結果として、その家は傾いた。
また、中央騎士団長の息子。
将来を嘱望されたその少年は、アメリアに近づこうとした直後、
「身体が裂けるような痛み」に見舞われた。
以来、彼は社交界から姿を消し、
十五歳にして前線部隊に送られた。
さらに、魔術院で“天才”と謳われた少年。
入学直後、私の魔力に触れただけで――
彼は、それきり自室から出てこなくなった。
私の魔力は、“呪い”そのものだった。
そして――あの少女。
儀式の夜、生贄として捧げた“素体”。
そのとき、彼女は何度も叫んでいた。
「どうして……変だ」「私は……こんな場所に来るわけが」「おかしい、おかしい……!」
意味の分からない言葉を呟き、泣きながら、私に何かを訴え続けていた。
それが何だったのか、今でも正確にはわからない。
けれど――彼女が生きていたなら、きっとこの学園に入学していたのだろう。
その魂は、純度も適性も完璧で、“因果核”としては理想的だった。
だから、私は彼女を選んだ。
彼女の存在を、この世界から完全に削除した。
すべてが偶然を装いながら、確実に進んでいった。
アメリアお姉様の傍には、誰ひとり、残らなかった。
◇ ◇ ◇
ある日の午後。昼食後の中庭で。
アメリアお姉様が空を見上げながら、ふと呟いた。
「そういえば……おかしいわね。昔、教え子たちがこの学園に来るはずだったのに……誰も、見かけないわ」
私は、隣で紅茶を口に運びながら、静かに微笑んだ。
「……そう? でも、お姉様のそばには、ちゃんと私がいるじゃない」
彼女は、少し驚いたように私を見て――
すぐに、微笑み返してくれた。
「ええ……そうね。セフィラがいれば、充分よ」
けれどその瞳の奥には、ほんのかすかに、影が差していた。
私が整地した未来に、余計な枝葉はいらない。
お姉様と、私。
ふたりだけで生きる学園生活――それだけで、よかった。
◇ ◇ ◇
……けれど、夜になると、私は抑えきれなくなる。
もっと触れたい。
もっと、感じたい。
もっと……私だけを、見てほしい。
学園には、何重もの結界と警備が張り巡らされている。
だが、それが何だというのだろう。
私は、“時”を止める。
音が消え、世界が凍りついたような夜。
私は、アメリアお姉様の部屋へと向かう。
扉は、私の指先に拒むことなく開いた。
蝋燭の炎が揺れる寝室。
白い寝巻きに包まれた、お姉様が眠っていた。
その姿は、あまりにも無垢で、罪深くて、愛おしかった。
私は、そっとベッドの縁に腰を下ろす。
シーツの上には、彼女の体温が残っていた。
「……お姉様」
喉元に唇を寄せ、そっと触れる。
頬に。額に。鎖骨に。
何度も、何度も、キスを落とす。
「好き……好きよ……お姉様……」
口にするたび、心が熱くなって、涙がにじむ。
愛してる。愛してる。何度言っても足りない。
香りを吸い込む。
肌に頬を押し当てる。
指先が触れるたび、震えが止まらなくなる。
「……このまま、目覚めなければいいのに……」
あるいは――目覚めて、私を受け入れてくれるなら。
それは、どれほど幸せか。
けれど、それはまだ叶わない夢。
だから私は、今日も囁くしかできない。
「……愛してる。愛してる。愛してる……お姉様……」
世界が否定しても。
神が私を罰しても。
この愛は、終わらない。
私は、あなたの隣で生きるために――この世界に、存在しているのだから。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
この物語――
『死ぬはずだった悪役モブ令嬢(16歳)、婚約者(8歳)の愛が重くて死に損ねました』の
スピンオフであるセフィラ視点のサイドストーリーも、いよいよ次回で最終回を迎えます。
毎日19時に更新してまいりましたが、残すところあと一話。
たったひとつの愛を求めて世界を書き換えた少女の物語に、
ここまでお付き合いくださったあなたに、心から感謝を込めて。
最終話、その結末を、どうか最後まで見届けていただけますように。
また明日、同じ時間にお会いしましょう。