第二章『愛されるたび、狂っていく』
それから三年が経った。
私は十一歳になり、アメリアお姉様は十八歳で学園を卒業した。
彼女は今、家庭教師として複数の貴族子弟に教鞭を執っている。
陽の光が差し込む温室。ステンドグラスを通した虹の光が床に揺れていた。
芳しい百合の香りと、かすかな湿り気。アメリアお姉様が淹れてくれた紅茶が、湯気を立てている。
その人の存在は、いつもこの場所を“天国”にしてくれる。
「……セフィラ、少し痩せたんじゃない?」
ふと向けられた言葉に、私は微かに笑ってごまかした。
あなたの方が、ずっとやつれているのに。
ここ最近、お姉様は忙しいと言って、あまり来てくれなくなった。
家庭教師の仕事が大変だという。数人の生徒を受け持っているらしい。
その中の一人、やんちゃで手のかかる男の子の話を、お姉様はよくしていた。
「やれやれ」と困ったように笑いながら、けれどその瞳はどこか慈しみに満ちていた。
その笑顔が、私を壊した。
アメリアがその子の話を嬉しそうにするたび、私は胸の奥を焼かれるような気持ちになった。
それが何なのか、最初はわからなかった。でも、すぐに気づいた。
――嫉妬だ。
私は、顔も知らないその子供に嫉妬していた。
触れられたわけでもない。恋人でもない。
それでも、お姉様が「好き」に近い感情を抱いているのなら――それだけで、殺したくなるほどの衝動が湧いた。
だが、直接手を下すほど愚かではない。
私は、“方法”を知っていた。
アメリアと出会って以降、私は呪いの力に意識的な制御を加えるようになった。
かつては、触れた者を腐らせるだけだった力も、今では“狙って”放つことができる。
因果の繋がり。
それさえあれば、距離も、血縁も、魔術的な媒介すら必要ない。
私は、その子の家庭の背景を調べさせた。
苗字から家系を辿り、父親の職場と所属組織、周囲の人間関係――すべてを因果の網に絡め取る。
そこに、ごく微細な“破綻”を植え込んだ。
悪意のさざ波のような呪い。焦燥、不和、誤解、嫉妬、失言、油断。
それらを連鎖させ、父親が自らの手で不祥事を起こすよう仕向けた。
そうして、崩壊した。
急速に悪化した経済状況は、彼らの家計を直撃し、家庭教師を雇う余裕など消えた。
――それだけのことだ。
普通の魔術師ならば、呪術を成立させるには媒介が要る。髪の毛、血、名前、魔法陣、座標指定――煩雑な準備と膨大な魔力。
けれど、私は違った。
私は、“存在するだけで呪いを撒く”核であり、“願えば届く”異物だった。
魔力量は、すでに人の域ではないと、何人もの教師に言われていた。
ただ座っているだけで空気の構造式が乱れる。意図せずとも、動物や虫が死ぬこともある。
だが、私にとってそれは当たり前だった。
呪いとは、私にとって魔術ではなく“言葉”だった。
意思の発露であり、感情の反射であり、呼吸のようなものだった。
お姉様を奪う者は、排除する。
それは、何よりも自然な摂理だった。
すべては、ただ静かに、確実に。
誰にも気づかれず、誰にも悟られず――私はその子を、お姉様の世界から排除した。
結果として、彼の家は崩れ、アメリアはその家庭教師の仕事を手放すことになった。
お姉様は落ち込んでいた。
胸を痛めて、何度も「どうしてこんなことに……」と呟いていた。
けれど私は……その隣で、心の奥で、笑っていた。
「他の誰にも、あなたを触れさせない」
それが私の、唯一にして絶対の願い。
◆ ◆ ◆
季節が過ぎ、空気が重く、灰色に包まれる冬。
薄曇りの空の下、温室の中にも、冷たい風が隙間から忍び込んでいた。
その時だった。
アメリアお姉様が、ふいに手から剪定ばさみを落とし――そのまま、崩れ落ちた。
「……っ、お姉様!!」
私は叫び、駆け寄り、彼女の身体を抱きとめた。
手足が冷たい。額には汗。唇は紫色。明らかに異常だった。
恐怖に突き動かされるように魔術を起動し、因果透視を行う。
私の魔眼が、彼女の魂の核を視た。
黄金の加護――神が与えた祝福を、黒い何かが侵していた。
それは、見覚えのある呪いだった。
私自身がもたらす、穢れの因果。
……アメリアお姉様は、公爵家の長女として生まれた。
その家系は、代々“聖女の加護”を受け継ぐ血筋で――あらゆる穢れ、病、呪詛を受け流す神の庇護が、常にその身に宿っていた。
だから、私は思い上がっていた。
「大丈夫」と、どこかで甘えていた。
でも、違った。
お姉様の魂に絡みつく黒い因果は、神すらも凌駕していた。
それが、“私”の呪いだったと気づいた瞬間――私は、ようやく理解した。
「私は……生まれながらにして、化け物だった」
聖なるものすら蝕む、穢れの核。
お姉様に触れたい、愛されたいと願った私の想いは――“呪い”そのものだったのだ。
◆ ◆ ◆
私は、無我夢中で転移魔術を発動した。
どこでもよかった。
どこか、高く、遠く――世界で一番、孤独になれる場所へ。
辿り着いたのは、王都の外れにある断崖だった。
冬の夜風が唸りを上げ、私の白銀の髪を乱す。
褐色の肌に突き刺さる冷気。金色の瞳が、深淵を見下ろしていた。
私は崖の縁に立ち、足元の石をそっと蹴った。
深く、底知れぬ闇が揺れる。
「私が消えれば、終わるのかしら」
その問いの前に、私はできる限りのことをしたつもりだった。
お姉様を、公爵家の屋敷へ転移させ、即座に専属の医師団を呼び寄せた。
それでは足りないと思い、大聖堂の神官長を呪いで強制的に動かし、“最上級の治癒奇蹟”さえ施させた。
それでも、何も変わらなかった。
私がいれば、彼女は壊れる。
「……ねえ、教えて。どうして、私は……あなたすら、救えないの?」
風が、答えのように吹き抜ける。
私がいなければ、彼女はもう蝕まれず、微笑みを取り戻すだろう。
けれど――
その未来に、私はいない。
私を忘れて、他の誰かの手に触れられる未来なんて。
そんなの、許せない。
「……忘れられるくらいなら、死ねない」
愛された記憶。
あの温もり。
名前を呼ばれた日の幸福。
それを残さずに消えるなんて、そんなの――意味がない。
だったら。
「この世界が、間違ってる」
私がいるだけで、大切な人が壊れてしまうような世界など、正しいわけがない。
書き換えればいい。
この手で、神すらねじ伏せて。
お姉様が死なない世界に、すべてを変えてみせる。
◆ ◆ ◆
私は、王城の最深部へと向かった。
封印の鍵を奪い、古の呪印を焼き切り、地下書庫の奥、誰も足を踏み入れぬ異界の領域へ。
魔力が濃霧のように淀む空間。
そこで、私はそれを見つけた。
禁書。
漆黒の革で装丁された、禍々しい書物。
手を触れた瞬間、脳が焼かれるような苦痛が走った。
全身の血管が軋み、視界が白く染まる。
それでも、私は読めた。
《因果操作術式・書換の契》
命も、魂も、運命すら覆す――書き換えの力。
私の魔力耐性は、もはや“人”のそれではなかった。
なぜなら私は、呪いそのものと同化した存在。
魔術に対する親和性は異常なほど高く、たとえ神術系の術式であっても、私の中では“翻訳”されて届く。
背骨が軋み、喉の奥から血を吐き出す。
それでも、構わなかった。
次に向かったのは、死に損なった“母”のもとだった。
──屋敷の奥深く、誰も寄りつかぬ小さな離れ。
公には“病で伏せっている”とされながら、その存在は既に貴族社会から抹消されていた。
名家の本妻ではない。
後ろ盾もなく、かつて側室として迎えられた女。
そして、娘に“呪い”を刻んだ存在。
父も継母も、彼女がどうなろうと関心はない。
死んでも、口外されることのない“不要物”。
そして今や、私はこの家において、誰よりも“上位の存在”だった。
だから、扉は私が近づくだけで自然に開いた。
私が生まれた屋敷の奥で、彼女は呪いの反射に蝕まれ、生きながら腐っていた。
朦朧とした意識の中、まだ生きていたその躰。
私は膝をつき、その胸元に手を差し入れる。
「……あなたの呪い、最期まで利用させてもらうわ」
かつて、母が私に植えつけた呪い――
それは、常に反射する構造を持っていた。
ならば逆に、それを“媒介”として利用できるはず。
魔力の刻印が浮かび、私は母の心臓を因果核として抽出した。
ひとつの“神性を穢す呪詛”のコア。
血の匂いと焼けた皮膚の臭気が、静かに室内に沈む。
そこからの私は、ただひたすらに突き進んだ。
魔術学院の未解読文書を盗み、大聖堂に通い、聖典を書き換え、神の名を術式に織り込み、さらに悪魔召喚の位階構造さえ逆転させた。
ありとあらゆる“禁忌”を混ぜ、融合し、逆流させ、“私だけの理”を構築していく。
――そして、生贄を。
夜の路地で攫った貴族の子息。
市場で泣いていた孤児。
“素養”さえあれば、命は等しく術式の燃料に過ぎなかった。
何度も、指が砕けた。
皮膚が裂け、骨が露出した。
けれど、それでも私は立ち上がる。
「お姉様を救えるのなら――私の命など、幾度でも燃やす」
◆ ◆ ◆
書換の陣が完成した、その瞬間だった。
神が――降りてきた。
正確には、神そのものではない。
神性の“投影”、この世界に顕現した神格の一部。
それでも、桁が違った。
白金の輝きが空間を裂き、光の雷が奔る。
その存在が顕れた瞬間、
あらゆる因果の線が断ち切られ、時間が崩れ、魔力が死んだ。
神は、私を見た。
見ただけで、私の右腕が爆ぜた。
――ああ、理解した。
これは、“戦い”ではない。
神は私を敵として認識すらしていない。
私という存在の“構造”そのものが、世界の法則により否定されているのだ。
骨が溶ける。
皮膚が崩れ落ち、粘土のように地に垂れた。
肋骨がむき出しになり、鼓動が蒸気のように洩れる。
それでも、私は前へ出た。
魔術を構築しようとすると、指が砕ける。
呪いを放とうとすれば、喉が焼けて黒煙を吐いた。
神の加護は、すべての“発動”を無に帰す。
ああ、これが格の差。
これが、私が“神ではない”という現実。
世界が、私を黒く塗りつぶす。
名前が削れ、輪郭が滲み、
“セフィラ”という因果が世界から剥がれていく。
私は、消えるのだ。
でも――
それでも、届かせる。
届かせるしか、ないのだ。
どれだけ砕けても。
焼かれても。
捻じ曲げられても。
私は、叫んだ。
「私は、ここにいる!!」
喉からは声にならない音が漏れただけだった。
それでも、叫んだ。
黒く、黒く、黒く。
神すら塗り潰すほどに、呪いを濃く染め上げた。
焦げた心臓を掴み、
千切れた左腕を足で押さえつけ、
自分の因果核を――そのまま、“燃料”にした。
灼熱が走る。
痛みなど、とうに超えていた。
これは苦痛ではなく、“再構築”。
私の存在が――世界の中で再定義されていく。
「……もう、見ないふりなんて、させない……」
そして、
あの日、呟いたあの言葉を、もう一度、私は捧げた。
「世界……見ていなさい……私は、“愛されたい”だけだったの」
涙は出なかった。
もう、瞳もなかったから。
でも、心の中には、ただ一人の名があった。
アメリア。
――愛してる。
その想いが、すべてを越えた。
世界が私を拒絶するなら、
私は世界ごと“変える”。
神すらも、私の因果に繋がった今。
私は、神そのものを“呪い”と定義した。
咆哮が上がる。
神が、初めて私を見た。
初めて、私を“敵”と認識した。
もう遅い。
「お姉様を救えるなら……私は、世界そのものになってみせる」
因果核が輝き、セフィラという存在は――
“神話”となって再誕した。
黒き神、セフィラ。
穢れの核にして、愛の証明。
呪いによって救いを定義した、かつて人であった者。
この瞬間、世界は新たな神を得た。
◇ ◇ ◇
月光に濡れる石畳を踏みしめ、私は屋敷の裏庭へと足を踏み入れた。
夜露の匂い。かすかに漂うラベンダーの香り。
空は分厚い雲に覆われ、星ひとつ瞬いていなかった。
貴族の屋敷の警備は、常に厳重であるはずだった。
けれど、私には意味を成さない。
時間を止め、気配を消し、空間の座標すら撓ませて――
私は、アメリアお姉様の寝室へと“入り込んだ”。
蝋燭の明かりすら届かない、密やかな静寂の部屋。
天蓋付きのベッドに横たわる彼女は、まるで“聖骸”のようだった。
頬はこけ、肩は骨ばり、唇はひどく色を失っている。
けれど私は、息を呑むほど、美しいと思った。
そっと、白い寝巻きの襟元に手を伸ばす。
露わになった喉元に指先をかざすと、術式が展開される。
因果核が、私の命で上書きされる。
かつて金の加護を喰らい尽くした“呪い”は、
今やその加護すら無効化する“絶対因果”として再定義されていた。
――それが、私の神格。
神を食み、神を乗り越えた、“呪いの神”の力。
時空が、ほんの一瞬、軋むように歪んだ。
「……ああ……」
彼女の頬に、わずかな血色が戻っていくのを見た。
私はその場に膝をつき、指が震え、呼吸が乱れた。
声が出なかった。
でも、頬を伝う涙が、静かに答えていた。
「これで……もう……あなたは、壊れない……」
私は、ただそれだけで、救われた気がした。
この世界に抗い、命を捧げ、存在の定義すら棄てた。
そのすべてが、このたった一人のため。
――私は、生まれてきて、よかった。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
これは《セフィラ視点編》第2話――
アメリアの笑顔を守るため、セフィラが“神”になるまでの物語。
どうしようもなく歪で、どうしようもなく純粋な、彼女の祈りを見届けていただけたなら幸いです。
全4話構成の短編サイドストーリーは、すでに完結済み。
明日も【19時】に、第3話をお届けします。
最後までお付き合いいただければ、とても嬉しいです。
世界に抗い、愛のために神を越えた少女の結末を、
どうか最後まで見届けていただけたら幸いです。
次回、お会いしましょう。