第九話:夜明けの旗
アク・マラル砦の中庭は、いまや死闘の舞台と化していた。燃え盛る建物の炎が夜空を赤く照らし出し、立ち込める煙と土埃が、月光さえも遮っている。その凄惨な光景の中央で、パルサニアの未来を懸けた二人の戦士――怒れる雷鳴バシュと、冷酷にして老獪な砦守将ガルダ――の、雌雄を決する一騎打ちが、激しさを増していた。
ガルダの振るう歪んだ剣は、単なる鋼ではなかった。アグニの呪術が付与されているのか、斬りつけられるたびに、バシュの体力だけでなく気力をも削いでいくような、陰湿な効果があった。彼は、その禍々しい剣を巧みに操り、バシュの巨体が生み出す僅かな隙を突き、的確に傷を重ねていく。力では劣ることを自覚しているがゆえの、老獪で粘り強い戦い方だった。
「どうした、化け物! 息が上がっているぞ! それとも、仲間の死が堪えたか!」ガルダは嘲るように叫び、連続で斬りかかる。彼の目的は、単にバシュを倒すことだけではない。その精神をも打ち砕こうとしているのだ。
「ぐ…っ!」バシュは、ガルダの剣を受け止めながら、奥歯を噛み締めた。仲間の死への怒り、ファラを守らねばという使命感、そして、蓄積していく疲労と傷の痛み。それらが、彼の心と体を重く蝕んでいた。戦斧の重さが、今は鉛のように感じられる。焦りが、彼の動きをわずかに硬直させていた。
塔の上から戦況を見守るファラの胸も、不安と焦りで張り裂けそうだった。バシュが押されている。このままでは危ない。自分がもっと的確な指示を出せれば…! いや、違う。今のバシュに必要なのは、小手先の戦術ではない。彼の心を奮い立たせ、彼の内に眠る真の力を引き出す言葉だ。
ファラは、目を凝らして二人の戦いを観察した。ガルダの動き、剣の角度、重心の移動、呼吸のリズム。彼女の「視る」力が、極限の集中の中で、再び研ぎ澄まされていく。そして、見つけた。ガルダが、大技を繰り出す直前に、必ず左肩を僅かに引き、そして攻撃をかわされた後、体勢を立て直す際に、一瞬だけ左足の重心が浮くことを! それは、百戦錬磨の彼ですら無意識に行っている、微細な癖だった。
「バシュ!」ファラは、民衆の力を借りて確立した新たな合図――特定の色の布を、意味を込めて振る――と共に、力の限り叫んだ。「彼の左肩を見て! 肩を引いたら大技が来る! そして、かわした後の左足! 重心が浮く、そこに隙ができるはず! 貴方の力なら、突けるはず!」
ファラの声は、激しい剣戟の音の中でも、まるで啓示のように、バシュの耳に、そして心に届いた。彼は、もはや疑うことなく、その言葉を信じた。ガルダが、再び歪んだ剣を大きく振りかぶり、左肩を引いた瞬間、バシュは攻撃を予測し、最小限の動きでそれを紙一重でかわす。そして、体勢を崩したガルダの左足が、僅かに浮いた、まさにその一瞬!
「おおおおぉぉぉっ!!」
仲間の犠牲への怒り、ファラを守るという強い意志、そして勝利への渇望。その全てを込めて、バシュは渾身の力を込めた一撃を、ガルダのがら空きになった胴体へと叩き込んだ! それは、もはや単なる物理的な攻撃ではなかった。彼の魂の叫びそのものだった。戦斧は、ガルダの硬い鎧をも砕き、その肉体を深々と抉った!
「ぐ…あぁっ…! ば、馬鹿な…この俺が…あの小娘の…『視る』力に…敗れるとは…!」
ガルダは、信じられないものを見る目で、血反吐を吐きながらファラが立つ塔を見上げた。彼の瞳には、驚愕と共に、あるいはファラの持つ未知の力への、そしてそれを引き出したバシュへの畏怖のような感情が、一瞬だけ宿ったように見えた。そして、彼はゆっくりと前のめりに倒れ込み、二度と動かなくなった。彼の最期の言葉は、まるでファラの力の正体を知っているかのようだったが、その真意を確かめる術は、もはやなかった。
砦守将ガルダの死。それは、この長く激しい戦いの、完全な終結を意味した。その象徴的な光景を目の当たりにしたアグニ兵たちは、完全に戦意を喪失し、次々と武器を捨てて投降するか、あるいは混乱に乗じて砦から逃亡していった。砦内に残っていた抵抗勢力も、ガルダの死を知ると、沈黙した。
静寂が、ゆっくりと戦場を支配し始める。
「勝った…! 我々は、勝ったのだ!」
誰かが、震える声で叫んだのをきっかけに、砦のあちこちから、歓喜の声が堰を切ったように沸き上がった。生き残ったパルサニア兵、解放された奴隷、そしてファラに協力した者たちが、互いに抱き合い、あるいは天を仰ぎ、涙を流して勝利を喜び合った。長い間、アグニの圧政と恐怖に耐えてきた彼らにとって、それはまさに奇跡のような、信じられない勝利だったのだ。絶望の夜が、ようやく、本当に明けようとしていた。
しかし、ファラたちの仕事はまだ終わっていなかった。勝利の興奮が冷めやらぬ中、ナディールの冷静な指示で砦の司令官室を捜索すると、予想通り、隠し部屋からガルダが不正に蓄財した証拠――詳細な金の流れを記した帳簿と、民から奪い取ったであろう山のような金銀財宝、そしてアグニ教国や叔父ジャファルとの間で交わされた、パルサニアの国益を損なう密約を示す書簡まで――が発見されたのだ。
ファラは、集まった人々――勝利に沸く兵士たち、解放され涙にくれる民衆――の前で、その不正の証拠を高らかに掲げ、ガルダの悪事を記した帳簿の内容を読み上げた。「聞け! これが、お前たちを虐げ、私腹を肥やしてきたガルダの所業だ! 彼はお前たちの汗と涙を吸い上げ、己の欲望を満たし、そして我らが祖国を異教徒に売り渡そうとしていたのだ!」。帳簿に記された内容は、聞くに堪えないものだった。法外な重税、強制労働、見せしめのための公開処刑、そしてアグニの神官と結託した、パルサニアの神々や文化への冒涜…。人々は怒りに震え、ガルダへの罵詈雑言を浴びせた。
そして、ファラは力強く宣言した。「ここに隠されていた財宝は、ガルダに不当に奪われた者たち、そしてこの砦を取り戻すために勇敢に戦い、傷つき、あるいは命を落とした者たちとその家族に、ナディール様の管理の下、公平に分配する! これは、我々のささやかな、しかし確かな正義の証である!」
その宣言に、人々は再び、今度は正義が示されたことへの、心からの喝采を送った。悪しき者が断罪され、奪われたものが(完全ではないにせよ)取り戻される。それは、彼らにとって、単なる物質的な補償以上の、失われた尊厳の回復を意味していたのかもしれない。溜飲が下がる、まさに爽快な瞬間だった。
だが、その歓喜の頂点で、新たな、そして卑劣な脅威がファラを襲った。
投降したアグニ兵の中に、死を覚悟した狂信的な「聖戦士」が、最後の抵抗として紛れ込んでいたのだ。彼は、ファラが人々の歓声に応え、わずかに油断した瞬間を狙い、衣服の下に隠し持っていた強力な小型爆薬に火をつけ、「アグニの炎の裁きを! 異教の王女め!」と狂気の叫びを上げながら、ファラめがけて突進してきた!
「危ない、王女様!」
群衆が悲鳴を上げる。誰もが避けられないと思った、その瞬間。
ファラの傍らにいたバシュが、傷ついた体で、しかし反射的に、ファラを庇うように覆いかぶさった!
ズドォォォン!!
凄まじい爆音と衝撃波が、砦の中庭を揺るがした。爆薬の威力は凄まじく、周囲にいた数名が吹き飛ばされ、地面にはクレーターのような穴が開いた。もうもうと立ち込める黒煙と土埃。
「バシュ!」「ファラ様!」
ナディールやカーラ、ジンたちが、悲鳴を上げて駆け寄る。煙が晴れた後、そこには、地面に倒れ伏すバシュと、彼の下で気を失っているファラの姿があった。バシュの背中は、爆風で黒い革鎧ごと焼け焦げ、先の戦いで負った傷口がさらに裂け、夥しい量の血が地面に赤い染みを作っていた。彼の呼吸は浅く、途切れがちで、意識も朦朧としているようだった。
「バシュ! しっかりしろ、バシュ!」ナディールが必死に呼びかける。カーラが止血を試み、ジンが水を運んでくる。
この卑劣な自爆テロは、勝利の喜びに沸いていた人々に、再び恐怖と混乱をもたらした。敵はまだ完全に排除されたわけではない。狂信者は、死してなお脅威なのだ、と。人々は動揺し、再びパニックが広がりかけた。
しかし、この混乱を収拾したのは、気を失っていたはずのファラだった。ナディールの介抱で意識を取り戻した彼女は、目の前の惨状と、自分を守って血の海に倒れているバシュの姿に一瞬言葉を失ったが、すぐに唇を強く噛み締めると、毅然とした態度で立ち上がった。彼女の瞳には、もはや涙はなく、ただ強い意志の光だけが宿っていた。
「皆、落ち着きなさい!」彼女の声は、不思議なほどよく通り、混乱した人々の耳に届いた。「敵の卑劣な罠に怯んではなりません! 負傷者の手当てを急いで! 特にバシュの手当てを最優先に! そして、砦の警戒を厳にせよ! 投降した兵士たちの中に、まだ狂信者が潜んでいるかもしれぬ! 一人残らず、武器を取り上げ、厳重に監視するように!」
彼女の声には、恐怖を乗り越えた者の持つ、人を従わせる力が宿っていた。人々は、その若き王女の凛とした姿に、新たな指導者の姿を見出し、徐々に落ち着きを取り戻し、彼女の指示に従って動き始めた。ファラの冷静な判断と的確な指示が、パニックの拡大を防ぎ、秩序を回復させたのだ。
やがて、東の空が白み始め、長い夜の闇が少しずつ後退していく。砦の最も高い監視塔の頂上に、応急手当を受け、意識は朦朧としながらも、サイードとバルガスに両脇を支えられたバシュが、ゆっくりと姿を現した。彼のその手には、ボロボロになった、しかし誇り高いパルサニアの旗が握られていた。それは、彼がアスタナを脱出する際に、燃え盛る王宮の中から、リリアの犠牲を無駄にしまいと、密かに持ち出していたものだった。彼にとって、それは単なる布ではなく、失われた故郷と、守るべき主君への忠誠の証だったのだ。
バシュは、残った力を振り絞り、その旗を、砦の旗竿に掲げた。昇り始めた朝日に照らされ、砂塵と血に汚れたその旗は、しかし、力強く、そして何よりも誇らしげに、アク・マラル砦の上空にはためいた。アスタナ陥落以来、初めて、パルサニアの旗が、再び故国の土の上にはためいた瞬間だった。
砦の中庭に集まった人々は、その光景を、息を呑んで見上げていた。言葉はなくとも、誰もが同じ想いを共有していた。解放の喜び、失われたものへの悲しみ、そして、未来への希望。
旗が掲げられるのを見届けたファラは、砦の中庭に集まった兵士、民衆、そして生き残った協力者たちの前に、静かに進み出た。彼女の顔にはまだ煤が残り、美しいドレスも汚れ、破れていたが、その瞳は夜明けの光を受けて、かつてないほど強く、そして深く輝いていた。
彼女は、集まった人々一人一人の顔を見渡すと、深く息を吸い込み、震える声で、しかしはっきりと語り始めた。
「皆、聞いてほしい。私たちは…勝ったのです」
最初は小さな声だったが、彼女の声は次第に力を帯び、砦全体に響き渡るかのように大きくなっていった。
「この勝利は、決して容易なものではありませんでした。勇敢に戦い、私たちを信じ、協力してくれた全ての人々の力があったからこそ、成し遂げられたものです。そして…この勝利のために、多くの尊い命が失われました」
彼女は、この戦いで命を落とした仲間たちの名を、一人一人、噛みしめるように挙げ、その死を悼んだ。そして、涙をこらえながら続けた。
「彼らの勇気と、彼らが託した想いを、私たちは決して忘れてはなりません。彼らの死を、無駄にしてはならないのです」
彼女は一度言葉を切り、再び顔を上げた。その瞳には、悲しみと共に、強い決意が宿っていた。
「私には、まだ力が足りません。王女として生まれましたが、国を守ることも、多くの命を救うこともできなかった。でも、皆がいたから、私たちは今日、ここに立つことができたのです。私は、皆と共に、この国を取り戻したい。アグニの圧政に苦しむ民を救いたい。父が夢見た、誰もが誇りを持って生きられるパルサニアを、もう一度築き上げたいのです!」
彼女は、両手を広げ、心からの叫びを続けた。
「どうか、私に力を貸してください! この勝利は、終わりではありません! 私たちの戦いの、本当の始まりなのです! ここアク・マラル砦を、希望の砦とするのです!」
それは、王女としての威厳に満ちた演説ではなかったかもしれない。だが、彼女の正直で、飾り気のない、しかし魂からの叫びは、そこにいる全ての人々の心を、強く、深く揺さぶった。
最初は静かに聞いていた人々の中から、すすり泣きが聞こえ始めた。やがて、誰からともなく、「ファラ様…」という声が上がり、それは次第に大きな波となっていった。「ファラ様!」「パルサニア!」「我らが王女!」「希望の砦!」。力強い、大地を揺るがすかのような唱和が、砦中に響き渡り、夜明けの空へと昇っていく。それは、絶望の淵から立ち上がった人々の、未来への希望を告げる、力強い鬨の声だった。
ファラは、その光景を目に焼き付けながら、静かに涙を流した。だが、その涙は、もはや悲しみだけのものではなかった。それは、失われたものへの追悼であり、共に立ち上がってくれた人々への感謝であり、そして、これから自分が背負っていくものの重さに対する、覚悟の涙だった。
演説の後、彼女は負傷者の手当てを自ら手伝い、亡くなった兵士たちの亡骸の前で、一人一人に祈りを捧げた。そして、塔の上で、意識を保つのもやっとという状態で、しかし誇らしげに自分を見守るバシュの姿を認めると、力強く頷き返した。彼の傷は深い。だが、彼は生きている。それだけで、今は十分だった。しかし、ナディールの診察によれば、バシュの背中の傷は脊髄に近い神経にまで達している可能性があり、完全に回復するかどうか、そして以前のような戦闘能力を取り戻せるかは、現時点では不明だという。リーダーとして、バシュの力に大きく依存してきたファラにとって、それは無視できない重い現実だった。
砦は奪還した。しかし、本当の戦いはこれから始まるのだ。捕虜にしたアグニ兵から、本格的な討伐軍が間もなく派遣されるという情報ももたらされていた。叔父ジャファルも、この事態を黙って見過ごすはずがない。そして、ファラの内に宿る、あの不思議な力。それは、勝利をもたらす鍵であると同時に、使うたびに彼女の精神を蝕み、不吉な未来の断片を見せる、未知の危険を孕んでいるのかもしれない。彼女の瞳には、新たな決意と共に、自身の力の覚醒(あるいは変化)の予兆と、その代償への微かな不安が、夜明けの空に最後に残る星のように、きらめいていた。