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第八話:砦、燃ゆ

暗く、湿った古い水路の中。頑丈な鉄格子に阻まれ、ファラ、ナディール、そして数名の協力者たちは、文字通り袋の鼠となっていた。背後からは甘い香りの眠りガスがじわじわと迫り、意識を朦朧とさせ、思考力を奪っていく。前方には冷たい鉄格子。そして、その向こうからは、敵兵たちの嘲笑うかのような声や、巡回の足音が時折聞こえてくる。まさに、絶望的な状況だった。


「くそっ、ここまで来て、こんな所で終わりなのか…! あの裏切り者め…!」協力者の一人、元商人の男が、悔しげに鉄格子を蹴りつけた。しかし、びくともしない。

「落ち着け、と言いたいところだが…」ナディールが苦々しく呟いた。彼の額にも脂汗が浮かんでいた。「確かに状況は最悪だ。敵は我々の動きを読んでいた。あのガルダめ…あるいは、ジャファルか。抜け目がない。王女殿、何か手は…?」

ナディールはファラに期待の視線を向けた。彼女の持つ不思議な力が、この状況を打開する鍵になるかもしれない、と。

しかし、ファラは青ざめた顔で首を横に振るしかなかった。「わかりません…今は、何も視えません…このガスが思考を…」彼女の力は万能ではなく、自身の状態や周囲の環境に大きく左右されるのかもしれない。今は、迫りくる危機と、閉じ込められた閉塞感、そして仲間の裏切りという事実に、心が押し潰されそうだった。それでも、彼女は心の奥底で、一条の光を信じていた。バシュが、必ず来てくれる、と。


その頃、バシュは一人、アク・マラル砦の闇の中を、文字通り雷鳴の如き勢いで進んでいた。仲間たちには蜂起の準備を託し、自身はファラたちが捕らわれているであろう水路へと最短距離で向かっていたのだ。裏切り者の存在、そして敵将ガルダが周到な罠を仕掛けていたという事実。状況は最悪だった。だが、バシュの心に迷いは微塵もなかった。王女様を救い出す。ただそれだけが、彼の思考と全身を突き動かしていた。「守護者」として、彼女の「光」を守り抜く。それが、彼の存在理由そのものだったからだ。


彼の巨体は、闇の中をまるで黒豹のように、驚くほど静かに、しかし恐るべき速度で移動していた。砦の構造は、ナディールから渡された地図で完全に頭に入っている。時折遭遇する巡回の見張りや、持ち場を離れてうろつく兵士たちも、彼にとってはもはや障害にすらならなかった。音もなく背後から忍び寄り、首筋への的確な手刀で寸分の狂いもなく気絶させる。あるいは、影から飛び出し、抵抗する間もなく戦斧の柄で急所を打ち据え、沈黙させる。彼の動きは、単なる怪力任せではなく、長年の戦闘経験と、一族に伝わるであろう古流の体術に裏打ちされた、洗練された効率性を持っていた。彼の通過した跡には、ただ静かに眠る(あるいは意識を失った)敵兵だけが残された。


やがて、バシュは目的の古い水路へと続く地下への入り口を発見した。入り口には数名の見張りが固まっていたが、彼らもバシュの敵ではなかった。闇に紛れて接近し、一瞬のうちに全員を無力化すると、バシュは地下へと続く石の階段を駆け下りた。黴と汚水の臭いが鼻をつく。そして、その先に、彼は見つけた。通路を塞ぐ頑丈な鉄格子と、その向こう側にいる、ファラとナディールたちの姿を! ファラはガスに苦しんでいるのか、顔色が悪い。

「王女様!」

バシュの声が、絶望的な空間に響いた。

「バシュ!」

ファラの顔に、安堵と、堰を切ったような喜びの色が浮かんだ。ナディールも驚きと安堵が入り混じった表情で目を見開いている。他の協力者たちも、「バシュ殿!」と歓声を上げた。

「下がっていてください! すぐにここを壊します!」

バシュは叫ぶと、鉄格子に向き直った。それは、熟練の鍛冶師が鍛え上げたであろう、人の腕ほどもある太さの鉄の棒を縦横に組み合わせた、見るからに頑丈な代物だった。通常の破壊槌でも容易には壊せないだろう。

だが、バシュは常人ではない。ましてや、守るべきあるじを前にした彼は、その内に秘めた力を限界まで引き出すことができる。「星の守護者」の血が、彼の全身を駆け巡る!

彼は深く、深く息を吸い込むと、両手で巨大な戦斧を振り上げた。彼の全身の筋肉が、まるで岩のように隆起し、尋常ならざる力がその両腕に集中する。

「うおおおおぉぉぉっ!!」

大地を揺るがすかのような、雷鳴の如き雄叫びと共に、戦斧が鉄格子に叩きつけられた!

ギャァァァン!!

耳をつんざくような凄まじい金属音が水路に反響し、激しい火花が闇の中に散る。鉄格子は衝撃で大きく歪み、壁に固定された部分が軋む音を立てた。だが、まだ破壊には至らない。

「もう一撃ィィッ!」

再び戦斧が振り上げられ、今度は歪んだ箇所に狙いを定め、叩きつけられる! 二度、三度と、凄まじい打撃が繰り返されるうちに、頑丈だった鉄格子は、まるで熱せられた飴細工のように捻じ曲がり、ひび割れ、そしてついに、蝶番の部分と壁に埋め込まれた基部から、轟音と共に完全に破壊され、通路の奥へと吹き飛んだ!


「バシュ!」ファラが駆け寄る。彼女の顔にはまだ苦悶の色が残っていたが、瞳には強い光が戻っていた。

「ご無事で何よりです、王女様。さあ、早くここから!」

バシュはファラとナディールたちを促すと、自らがしんがりとなって地上へと続く階段を駆け上がった。


地上に出たバシュは、夜空に向かって、再びときの声を上げた。それは、水路での咆哮よりもさらに力強く、砦全体を揺るがすかのような、反撃の開始を告げる雄叫びだった。

「うおおおおぉぉぉっ!!!」

その声を合図に、砦の各所で、潜んでいた火の手が一斉に上がった! まるで、バシュの咆哮に応えるかのように。

「時は来た! 祖国パルサニアのために!」「アグニの圧政者を打ち倒せ!」「ファラ様万歳!」

サイードに率いられた内応者のパルサニア兵たちが、武器を手にアグニ兵に襲いかかったのだ。同時に、城壁の上からはカーラの放つ矢が雨のように降り注ぎ、敵の指揮官や見張りを次々と射抜いていく。ジンもまた、その身軽さを活かして砦内を駆け巡り、混乱を煽るための放火や、武器庫の扉を破壊して味方に武器を供給するなどの工作を行った。砦の中は、あっという間に鬨の声と剣戟の音、燃え盛る炎と立ち上る黒煙、そして人々の悲鳴と怒号が渦巻く、混沌とした戦場と化した。アグニ兵たちも、予期せぬ内部からの大規模な反乱に動揺し、狂信的な詠唱を叫びながらも、その統率は明らかに乱れていた。


「よし、計画通りだ! いや、計画以上かもしれん!」監視塔の頂上へと駆け上がったナディールが、眼下の光景を見て興奮したように呟いた。「王女殿、指示を! この機を逃してはならん!」

ファラは、塔の胸壁から身を乗り出すようにして、戦場全体を見渡した。眼下に広がるのは、まさに地獄のような光景だった。味方と敵が入り乱れ、あちこちで火の手が上がり、建物が崩れ落ち、人々の叫び声が夜空に木霊する。普通の人間ならば、その光景の凄まじさに圧倒され、思考停止してしまうだろう。だが、ファラの瞳は、その混乱の奥にある、戦いの流れ、力の均衡、そして敵の弱点を、冷静に見極めていた。彼女の「星読み」の力が、あるいは戦場の混沌の中でこそ、その真価を発揮するのかもしれない。

「バシュ! 東門へ向かって! 敵の増援がそこから来るはず! 門を内側から破壊し、完全に封鎖して!」「カーラ! 南壁の上、あの大きなやぐらに敵の弓兵が集結している! あれを沈黙させて! 味方の進路が開ける!」「ジン! 西の兵舎に、まだ敵兵が多く残っている模様! 火を放ち、彼らの注意を引きつけて!」「サイード殿! 中庭で敵主力を引きつけつつ、機を見て後退! 別動隊がその後背を突く!」

ファラの指示が、待機していた伝令役の協力者たちによって、次々と前線へと伝えられていく。彼女の指示は、時にナディールですら「それは危険すぎるのでは?」と眉をひそめるほど大胆なものもあったが、結果的に、それは味方の損害を最小限に抑え、敵の意表を突く効果的な一手となった。まるで、熟練の棋士が複雑な盤面を読み解き、最適の一手を打つかのように。彼女の「天啓の采配」が、この反乱を単なる烏合の衆の暴発ではなく、組織された軍事行動へと昇華させていた。


しかし、敵将ガルダも、ただやられるだけの無能ではなかった。彼は、最初の混乱から素早く立ち直ると、手元に残っていた忠実な部隊と、アグニ教国から供与されていた秘密兵器――連射式巨大バリスタ――を使って、冷静かつ的確に反撃を開始した。

「慌てるな! 敵は少数だ! 各個撃破せよ! 内部の裏切り者は一人残らず処刑しろ!」「バリスタ隊、用意! 東門へ向かう反乱軍主力を狙え! 粉砕しろ!」

ガルダの切り札である古代技術のバリスタが、城壁の上で唸りを上げ始めた。それは、太い鉄製の矢を恐るべき速度と精度で連射し、分厚い城門すら砕く威力を持っていた。その鉄の矢が、砦内を蹂躙し始めると、バシュ率いる突撃隊の勢いが明らかに鈍り、少なくない犠牲者が出始めた。屈強な兵士でさえ、その一撃を受ければ鎧ごと貫かれ、吹き飛ばされてしまうのだ。

「くっ…! あの忌々しい鉄の塊め…! あれを止めねば!」バシュが歯噛みする。彼の戦斧といえども、遠距離から高速で飛んでくる鉄の矢には対処しきれない。近づこうにも、バリスタの周囲は精鋭兵で固められている。


さらに悪いことに、激戦の中、ファラが指示を伝えていた伝令役の一人が、敵の弓兵の放った流れ矢に胸を射抜かれ、ファラの目の前で血を噴き出して倒れてしまったのだ!「そんな…! レザック!」ファラは彼の名を叫んだ。これで、前線との確実な連絡手段が、また一つ失われてしまった! 指揮官からの指示がなければ、味方は混乱し、統率を失い、各個撃破されてしまうだろう。

「どうすれば…どうすればいいの…!?」ファラが焦燥感に駆られ、唇を噛んだ、その時だった。

砦の中庭で、信じられない光景が広がっていた。それまで、恐怖に怯え、物陰に隠れていたパルサニアの民衆や、鎖に繋がれていた奴隷たちが、自発的に動き始めていたのだ! 彼らは、武器こそ持たないものの、ファラたちの戦いを見て、勇気を奮い起こしたのだろう。大声で他の味方に危険を知らせたり、石や棒きれを投げて敵兵の注意を引きつけ陽動を行ったり、負傷した兵士を安全な場所へ運んだり、あるいは、ファラが指示しようとしていたであろう内容を、まるで伝言ゲームのように、口伝えで前線へと繋ぎ始めたのだ!「東門が危ない! バシュ様を援護しろ!」「バリスタの狙いはこっちだ! 伏せろ!」「ファラ様は、西の兵舎を攻めろと仰っているぞ!」

それは、訓練された兵士の動きではなかった。だが、そこには、自由を取り戻したい、長年の圧政者を打ち倒したいという、人々の魂からの叫び、強い意志が溢れていた。ファラの瞳に、熱いものがこみ上げてきた。自分は一人ではない。自分は、この人々と共に戦っているのだ、と。この光景は、彼女に新たな勇気と、リーダーとしての使命感を強く認識させた。彼女は、民衆の力を信じ、彼らの自発的な連携を利用することを決意する。塔の上に予備として置かれていた色鮮やかな布を手に取ると、それを高く掲げ、特定の振り方で合図を送る。事前にナディールと打ち合わせていた、緊急時のための単純な信号だった。民衆の中から機転の利く者がその意図を素早く理解し、大声でその意味を仲間に伝え始めた。新たな伝達手段が、混乱の中で生まれ、機能し始めた瞬間だった。


「ナディール様!」ファラは傍らに控えるナディールに叫んだ。「あのバリスタの弱点は!? 何か、必ずあるはずです! 古代の記録に、何か…!」

ナディールは、目を細めて敵のバリスタを注意深く観察していた。「ふむ…あれはアグニが古代パルサニアの技術を盗用し、改良したもののはず。王家の書庫にあった記録によれば、あの連射機構は強力だが、その分、側面にある動力伝達部…ちょうど矢を装填する箱のような部分の装甲が、構造的にどうしても薄くなっているはずだ! あそこを破壊できれば、あるいは…! だが、近づくのは至難だぞ!」

「バシュならできる!」ファラは確信を持って言った。彼女は、民衆の力を借りて考案した新たな合図(特定の色の布を振る)で、前線で奮闘するバシュに指示を送った。「バシュ! 聞こえますか!? バリスタの側面、矢を装填している箱のような部分です! そこが弱点のはず! そこを狙ってください!」


民衆の協力によって伝えられたファラの指示。それを理解したバシュは、雄叫びを上げた。彼は、もはや自分の身を守ることも半ば忘れ、ただ一点、敵のバリスタだけを見据えていた。降り注ぐ矢を戦斧で弾き、あるいはその頑丈な体で受け止めながら、バリスタへと猛然と突進する! 敵兵が槍衾を作って彼を止めようとするが、怒れる巨人の前には、なすすべもない。槍ごと兵士を薙ぎ倒し、盾兵の壁を力でこじ開け、ついにバリスタの側面へとたどり着く!

「うおおおおぉぉぉっ!!」

渾身の力を込めて、バシュの戦斧が、ファラが示した弱点――矢の装填機構――に叩きつけられた!

ドゴォォォン!!

耳を劈く轟音と共に、バリスタの装甲が砕け散り、内部の複雑な機構が火花を散らして破壊される! 続けざまに、他のバリスタも、バシュと、彼に続けとばかりに突撃してきた味方兵士たちによって、次々と破壊されていった。敵の最大の脅威が無力化され、砦内に歓声が上がる! まさに爽快な逆転劇だった!


しかし、その激しい戦闘の中で、悲劇もまた起こった。バシュがバリスタに集中している隙を突き、敵の槍兵が背後から襲いかかったのだ。それに気づいた仲間の一人――以前ファラが疑念を振り払い、重要な役割を託した、口数の少ない元パルサニア兵――が、バシュを庇うように前に飛び出した! 槍は、彼の胸を深々と貫いた。

「ぐっ…!」彼は血を吐きながら、バシュを見上げた。「…バシュ…殿…王女…様を…頼…む…」

それが、彼の最期の言葉となった。

「おおおおぉぉぉっ! 貴様らぁぁぁっ!」

目の前で仲間を殺されたバシュの怒りは、ついに頂点に達した。彼の瞳は血走り、全身から凄まじい殺気が立ち昇る。彼は獣のような咆哮を上げると、もはや戦術も防御も忘れ、ただ憎悪のままに、周囲の敵兵を凄まじい勢いで薙ぎ倒し始めた。その姿は、もはや人間の兵士ではなく、荒ぶる破壊神そのものだった。


砦の中庭。炎と煙が立ち込める中、数多の骸を踏み越えて、ついにバシュは敵将ガルダと対峙した。ガルダは、周囲に転がる部下の亡骸を見ても表情一つ変えず、ただ冷徹な目でバシュを見据えている。その手には、禍々しい紋様が刻まれた歪んだ剣が握られている。

「…貴様が、あの化け物か。噂以上のようだな。だが、それもここまでだ」ガルダは、ファラの戦術にも、バシュの力にも内心驚きつつも、まだ勝利を確信しているかのように不敵に言い放った。

「貴様が、ガルダか。叔父上の犬め。そして、我が同胞を殺した男」バシュの声は、怒りで低く震えていた。

「ふん、口の利き方を知らん奴だ。だが、安心しろ。その苦しみも、すぐに終わらせてやる。あの小娘の首と共に、ジャファル様への良き土産にしてやろう」ガルダはそう言うと、歪んだ剣を構え、バシュに襲いかかった。同時に、彼は懐に隠していた何か――おそらくは毒か、あるいは卑劣な罠を発動させるための装置――を使う機会を窺っていた。冷酷で、有能で、そして勝利のためなら手段を選ばない男。

怒りと悲しみ、そしてファラを守るという強い意志を胸に、バシュは戦斧を構え、ガルダに立ち向かう。パルサニアの未来を懸けた、二人の宿命の対決。砦の命運を決する頂上決戦の火蓋が、今、切られようとしていた。ファラは塔の上から、息を詰めてその戦いを見守る。自分の指示が、またしても仲間の犠牲を招いたのではないかという苦悩と、それでも勝利のために采配を振るわねばならないというリーダーとしての重責に、彼女の心は引き裂かれそうだった。

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